ダブル鎖鎌を振り回せ

葉月氷菓

オトモだった君へ

 モンハンを買った。もうすぐ新作が出るとのことで、数年前に発売された準新作がセールで安くなっていたからだ。私は結構なゲーマーであるにもかかわらず超有名タイトルである当シリーズを一度も遊んだことがなかった。協力プレイで一緒に遊んでくれる友人が居ないロンリーウルフだったという訳では決してなく、なんとなく他にハマっているゲームが常にあったからである。その証拠に、いざ買った今作ではシリーズ経験者である友人にレクチャーを受けながら、時には二人で狩りに出かけている。

 モンハンの説明など今更不要だと思うが非ゲーマーの方々のために一応説明すると、本作はモンスターをハントするゲームだ。ボールを投げて捕まえたりはしない。自分自身が武器を手に取り戦うのだ。結構昔から続くシリーズものでファンに長く愛されている。

 私が購入した今作は和風の国が舞台で、街並みや装備品もどこかオリエンタルなテイストを纏っている。拠点で流れる民謡のような歌に聴き惚れる。確か過去のシリーズでは西洋中世っぽい雰囲気だったと思うので、新しい風を感じて期待感が湧いた。

 ゲームを始めると、まずキャラクターの外見を設定する画面に案内される。鼻の角度や眉の太さなど細やかに設定できるのが嬉しい。悩んだ末にロマンスグレーな練達のイケジジイに仕上げた。顔に深い傷を持つ、歴戦の武者を思わせる風貌だ。画面が遷移すると次は「オトモガルク」と呼ばれる犬のキャラクターの設定画面へ。なぜか一切説明はなかったが、初プレイでも名前からニュアンスは理解できる。共に戦ってくれる仲間ということなのだろう。主人公に似合う、狼のような格好いい外見に設定した。こちらも歴戦の猛者っぽくしたかったので顔に主人公とおそろいの傷を付けてみた。なんと鳴き声まで設定できる。プリセット数はさほど多くないものの、嬉しい設計だ。名前はとりあえず土佐丸とさまるにした。強そうだ。

 オトモって呼称、なんだかいいなと思う。家来ほど偉そうでもなく、相棒ほど照れくさくない距離感。オトモ。

 いざ冒険へ。いや、まだだった。もう一匹のオトモであるアイルーも設定せよと言われる。アイルーはなんか聞いたことがある。猫だ。二足歩行でおべべを着た可愛らしいヤツ。にゃんちゅうと名付けて、今度こそ冒険へ。


 ムービーが挿入され、主人公ハンターもとい私は襲い来るモンスターたちから里を守るという使命を言い渡される。その後、里を散策して回るのだが……何か違和感がある。


「やっとハンターになったんだ! おめでとう!」

「がんばれよ、ひよっこ!」

「ワシはお前のおしめを替えたことがあるんじゃぞ(笑)」


 台詞はうろ覚えで申し訳ないが、里における私はまるでピチピチの若手ハンターのような扱いだった。え? 練達のイケジジイの脳内設定は? じゃあ私の顔の深い傷は一体なんだよ。なんか道行くアイルーにまで激励される。アイルー喋れるのか。

 キャラ設定には少々齟齬があったものの、私は身の丈よりも大きな太刀を担ぎ、いざ初めての狩りへと挑む。


     ◆


 私は昔、犬を飼っていた。過去形なのは大方のご想像の通り、すでに天に召されているからだ。名前はテツ。雑種のオス。茶色い毛の中型犬。私が小学生の頃、ご近所さんの飼い犬が三匹の子犬を産み、その内の一匹を我が家で譲り受けたのが出会いだった。まだ目がぱっちりと開かず、耳をぺたりと寝かせて毛布の中で震えている姿は今でもよく覚えている。

 はじめに飼いたいと言い出したのは、ひとつ上の姉だ。私は小学生のくせに興味よりも不安が勝って、消極的に反対していた気がする。責任を持ってお世話をする自信がなかったのかもしれない。家族全員でじっくりと相談した末に、最終的には私も賛成した。

 最初は反対していた癖に、いざ名前を決める段階で私は盛大に姉と喧嘩した。もちろん互いに自分が名付け親になりたかったからだ。茶色だからチャイだとか、谷川俊太郎の詩から取ってクンだとか。

 名前はテツに決まった。候補にはなかった名前だ。私と姉の案は影も形もない 。どうしたことか何時の間にかご近所のみなさんからテツという呼び名が定着していたのだ。この経緯が今でも分からず、恐らく父による根回しだったと思うのだがテツという名前の由来は聞けず仕舞だった。

 テツはすくすく育った。四つ足でしっかりと床を踏みしめた。はじめはぺたりと寝ていた耳がピンと立つようになった。寝ていた方が可愛かったと姉が不満を言った。私は本から仕入れた犬に関する知識を家族にひけらかした。やがてテツの居場所は我が家の屋内から外のケージに移った。いつかの休日の朝、たくましい膂力でケージを脱走した。家族総出で好物のジャーキーを手に探しに出かけたら、すぐ近くにある会社の敷地内で彼は一生懸命に土を掘り返していた。もう少し成長したら首輪を付けることになった。ビシっと首輪を締めたテツの姿は、いよいよ一人前の佇まいをしていた。はじめは首輪の締め加減が難しく、よくすっぽ抜けていた。

 毎日の散歩の当番は家族全員でのローテーションだったが、おおかた私と姉の役割だった。テツのお気に入りの草むらを巡回するのが定番コースだったが気まぐれに逆走したり、少し遠くに足を延ばしたりもした。私が高校生になって運動系の部活に忙しくなると、それが少し煩わしくなった。私は定番コースを外れてぐいぐい進むテツを無理矢理引っぱり戻すこともあった。綱引きに疲れて私がその場にしゃがみ込むと、テツは何故か必ず駆け寄ってきて私の顔を舐めた。あれはどういう心理だったのだろうか。テツは撫でると毛が少し固くてなんだか脂っこい。寒い時期にはもう少しふわふわとした毛並みになる。


     ◆


 私はハンターとして、クエストを受託し危険なモンスターを狩りに出かける。最初はソロプレイだったが、ガルクとアイルーという二匹のオトモのお陰で心細くはなかった。出動していきなりエンカウントするのではなく、広大なマップの中から目標のモンスターを探し出すというフェーズが挟まる。そこで活躍するのがオトモ犬のガルクだ。ガルクはその背に私を乗せて、無尽蔵のスタミナで大地を駆けた。私が自力で走るよりも何倍も速く、さっそく頼もしい。

 モンスターとのバトル。最初は熊だったか巨大トカゲだったか忘れたが、私はがむしゃらに太刀を振るう。すると二匹のオトモも一緒になって攻撃してくれる。オトモは自身より遥かに大きなモンスター相手にも臆さず果敢に立ち向かった。

 ゲーム慣れしている私は存外、卒なく狩りを成功させる。倒したモンスターの皮などを剥ぎ取って持ち帰り、それを素材として新しい装備品を制作する。なるほど、ゲームの流れが掴めてきた。

 このゲームの好感触だったところは、命へのリスペクトを欠かさない点だ。

〝ありがたく頂く〟

〝無駄にはしない〟

 たとえ里を襲うモンスターが相手であっても、その亡骸から素材を得る時にハンターは毎回、敬意を表する。命を扱う重さがそこにはあった。


 ゲームを進めると新しい要素が次々に解放されていく。技が増えたり、武器が増えたり。そして私は、新たなオトモの雇用という要素があることに気が付いた。オトモをたくさん雇うことで、探索や貿易交渉(えっ?)などを任せられるという。更に雇用するオトモの外見や名前はその都度、自由にデザインできるらしいのだ。

 その時、私の脳裏にふと考えがよぎる。かつての家族であったテツの外見を模したオトモをデザインしようと思ったのだ。


     ◆


 小学校高学年の頃の私とテツは、共にモンスターと闘ったことがある。これはゲームではなくリアルでの話だ。モンスターとは、当時の私よりも大きな体躯を持つ黒いラブラドール・レトリバーのことだ。ご近所の老夫婦に飼われていて、ラブラドールは優しく大人しいというステレオタイプを打ち砕く、獰猛で狂暴なヤツだった。テツと一部散歩コースが被っているため稀にエンカウントするのだが、その度に黒ラブは牙を剥いてこちらに吠え掛かる。細腕のおばあさまはいつも肩が外れそうなほどの勢いで散歩紐を引き戻すのだが、ある日その手から黒ラブが放たれた。女性の叫びが聞こえて私が振り向くと、そこには猛然とアスファルトを駆ける黒ラブの姿が。捕食者の瞳は、明確に私とテツとを捉えている。

 逃げなくては。本能が絶叫する。私は散歩紐を引き、黒ラブに背を向けて自宅の方向へと走り出す。だが、紐に強い抵抗を感じる。テツだ。テツはあろうことか自分の倍近くの体格の黒ラブに向かって唸り、立ち向かおうとしていたのだ。全力疾走の黒ラブに対して、綱引きで文字通り足を引っ張り合う私とテツ。当然、間合いは瞬時に詰まり、両者はついに接触する。

 犬の爪がアスファルトを掻くジジッという音と唸り声とが混じり合い、まるで一体の巨大な猛獣が荒れくるっているかのようだった。私は頭の中が真っ白になり、とにかく黒ラブとテツを引き離したくて散歩紐を引っ張っていた。だが二匹の闘いの渦はやがて私を飲み込んでいく。

 その時、鋭い痛みが私を襲った。黒ラブが私の太腿に噛みついたのだ。一瞬のことで泣く余裕すらなかった。驚いた私はあろうことか散歩紐を手放した。逃げよう。でもテツを連れて帰らねば。慌てて散歩紐を掴み上げようと、おろおろもたもたと葛藤する私の姿はきっとテツの目に情けなく映っただろう。

 それからどうやって私とテツが逃げおおせたのかは覚えていない。とにかく自宅に帰って両親に報告した。黒ラブのことは以前から両親も把握していたため、状況はすぐに伝わった。父は私を連れて黒ラブの飼い主宅に怒鳴り込んだ。物凄い剣幕だった。私はその場で点々と連なる赤紫色の傷跡のついた太腿を見せた。


〝狂犬病の予防接種はしとんのか〟


〝手に負えんなら飼うな〟


 もっと強い言葉だった気もする。父の怒りを前に黒ラブの飼い主は平謝りで、隣で聞いている私も委縮してしまった。気の毒にも思えたが、大人になってから狂犬病の恐ろしさについて詳しく学んでからは、父も必死に私を守ってくれていたのだと理解した。幼少の折に大きな犬に追いかけられ、噛まれる。犬嫌いになってもおかしくないエピソードだが、私はそうはならなかった。もちろんテツという存在があったからだ。犬には怖い一面もあるけれど、人懐っこくて愛らしい生き物だと知っていたから。黒ラブだって老夫婦にとっては頼もしい家族の一員だったのだろう。彼らには彼らの物語がある。だから少しも憎らしくない。むしろ、私の方がなんだか悪いことをしてしまったという気持ちが今でもある。

 帰宅すると、当のテツはいつもと変わらず玄関先で私と父を迎えてくれた。後のことだが動物病院で診てもらって、彼の方は特に怪我などはなかったと分かった。テツが私に向ける視線はなんとも哀れみに満ちていたように思う。冒頭では共に闘ったなんて話を盛ってしまったが闘ったのはテツただひとりで、負け犬は私だけだった。お前が邪魔しなければ勝てたのに、という呆れや不満の眼差しだったのかもしれない。なんだその眼は。ワシはお前が子犬のとき玄関で漏らしたうんちを片付けてやったんじゃぞ(笑)。

 ともかく私の記憶にはテツが勇敢に闘う姿が焼き付いている。いや、勇敢はどうだろうか。本当は体格差もよく分かっておらず、ただ喧嘩っ早かっただけかもしれない。その証拠にテツは小型犬に売られた喧嘩も威勢よく買っていた。


     ◆


 オトモのキャラメイクでは幾つかの犬種からベースを選択できたが、そのどれもが狩猟犬を思わせる、いかにもシュッとしたイケ犬風だった。

 テツは茶と白の毛に、薄く黒いタヌキのような隈取りのある中型犬だ。脚は短めでややずんぐり。ちょっと柴犬っぽさがあって、日本の犬だなあという容姿をしていた。なので正直どのサンプルも格好良すぎてテツっぽくはなかった。けれどまあ、イケてる方がテツも嬉しかろうと思い格好いいベースを選んで、茶色と白のツートンに染める。隈取りも設定できたが、どうもしっくりこなくて結局ナシにした。

 新たに誕生したレベル1のオトモ犬。全然テツには似ていなかった。まあ私の分身であるハンターも盛りに盛って超絶イケメンなので問題ないか。新たな仲間となった彼と一緒に、また私は狩りに出かける。

 テツは私を背中に乗せて広大な大地を駆け抜ける。本物のテツは人を乗せられるほど大きくはなかったけれど。


     ◆


 テツは老いて弱った。犬は人間よりずっと早く年を取る。自然の節理。その先に起きるであろう出来事が徐々に頭をもたげてくる。当然の理解を以て飼い始めたわけではあるが、遥か遠い未来に漠然とあると思っていたそれが現実味を帯びてくると、漫然とした暗闇が四六時中頭に纏わりつくような恐怖があった。

 わんぱくで、散歩コースを譲らず、果敢な戦士であるテツは鳴りを潜め、おっとりと弱々しい老犬になった。食欲も落ちた。毛が濡れた時のぶるぶるに勢いがなくなり、ぜんぜん水気が飛ばない。小型犬に喧嘩を売られても無視するようになった。散歩は途中で疲れて座り込むようになり、抱っこして家に帰った。私は大学生だった。テツは十四歳だった。それでも私が帰宅すると必ず小屋からのっそりと這い出て、「おかえり」を示してくれた。ある日の早朝五時頃、テツは変な鳴き声で鳴き続けていて、ああもう終わりなのだと私は悟った。身体を撫でている間だけは鳴き止んだので、テツはそれを求めているのだと思った。撫でていると毛の間にマダニを見つけた。命の尽きかけたテツから尚も命を吸おうとする害虫を引き剥がして投げ捨てた。テツは少し楽そうな表情になって落ち着いたので、私は一度自室に戻った。一日中でも傍に居てやるつもりで、着替えやトイレを済ませようとした。するとすぐに母親に大声で呼ばれた。私が駆け付けた時にはテツはもう動かなくなっていた。


 もっと遊んでやればよかった。いいものを食べさせたかった。あと一分でも長く撫でてやればよかった。私の家で飼われなければもっと幸せに長生きできたかもしれない。

 月並みな後悔に独善的な空想。それさえもが自己正当化のための巧言でテツの死を美しく飾っているみたいで、自身への憎悪が湧いた。決して美化させないために自分を呪った。人間が愛玩動物を飼うなど傲慢だ。思い上がりだ。いい思い出でしたね、情操教育の糧になりましたねと命に勝手な付加価値を与える。全部が下らないと思った。ペット葬儀もやった。ぜんぶ親の金だ。そういえばテツのご飯代や動物病院費もそうだ。年齢を考えればそりゃ普通かもしれないが、じゃあ私はテツに何をしてあげられたのか。何もない。そのくせ私はテツの亡骸を抱えて火葬場に運ぶ役目を任された。やたら骨ばって冷たい感触が私の心を責め立てるようだった。首輪を外した。それはテツの運命を束縛する呪具にすら思えた。子犬の頃みたいに脱走する元気もなかっただろうに、こんなものをつけて可哀そうに。

 人間は情けない。数万年も前から犬と共生してきたにも拘らず、未だに彼らの言葉を理解することもできない。テツの言葉が解ったらそれはそれで、たくさん憎まれ口が聞こえてきたかもしれない。それでも構わなかった。私はテツに好かれていたのか? 嫌われていたのか? 家族のくせに、十四年も一緒に過ごしたくせに、その程度のことも最期まで判らなかった。

 ごめん。何もしてあげられなかった。辛い思いばかりさせた。テツとの日々は全部ネガティブに、マイナスに、黒一色に上書きされた。思い出すのも嫌だった。写真を見るのも避けた。犬小屋は空っぽのまま。テレビに茶色い犬が映ると気分が悪くなった。いつも遠くでテツが鳴いている気がした。


 その頃の私が、今こうしてテツのことを意気揚々と文章に書いて世間に晒していると知ったら激昂するだろう。ゲームのキャラクターにテツを重ねたと知れば殴りかかるかもしれない。ではテツの死から十数年の間に、私の心が強くなったとか、辛さを乗り越え成長したのかと言えば、そうではない。多分逆で、テツと同じく私も年を重ねて弱くなったのだ。哀しみを受け止める為の器が脆くなり、ひび割れてしまった。哀しみをどこかに逃がさねば耐えられなくなった。テツの死から数年して父も交通事故で亡くなった。テツの時と同じく、山ほどの後悔に襲われた。また自分を呪った。責めた。

 リリー・フランキーさんが著書の中で「おじさんが落ち着いて見えるのは元気がないだけ」と仰っていたが、その通りかもしれない。葬儀ホールで父の眠る霊安室の畳を感情に任せて何度も殴りつけて以降、私はあまり怒らない人間になった。私は結構、怒りっぽい方だったのだけれど。成熟して人格者になったわけじゃない。もう疲れた。呪うことに疲れた。怒ることに疲れた。それだけだったのだろう。疲れや、老いというものは人を変えてしまう。わんぱくで散歩紐を引きちぎらんばかりだったテツだって、あんな風に弱々しくもなるのだから。私はまだ世間的には若者に分類されるのだろうけど、疲れたものは疲れたのだ。

 忘却という脳の防衛反応がゆるやかに働き、そうして薄く引き伸ばされた呪いが霧のように、これからの一生を漠然と包んでいくものだと思っていた。けれどテツとの別れから十数年が経ったある日、雲間から日が差すみたいにその瞬間は唐突に訪れた。


 モンハンのオトモにテツと名付けた。

 モニターの中でテツが走った。テツが吠えた。

 よかったなあ、と思えた。


 少し肩が軽くなった。あるいは、きっかけのひとつに過ぎなかったのかもしれない。きっと心のどこかで、呪いを乗り越える為の儀式をずっと無意識に求めていたのだろう。ずいぶん身勝手だなと、自分でも思う。けれど呪いを解くための、これが最後の分岐点なのだとしたら、過去の自分自身からの誹りを甘んじて受け入れよう。

 私は古いケータイを引っ張り出して充電してデータを掘り返した。そこに残っていた画質の悪いテツの写真を久しぶりに眺めた。そっぽを向いたり、舌を出したり。愛想はないけど可愛らしいヤツだった。


 一緒に行こう。また、楽しい日々を始めよう。

 呪われた日々に、私は別れを告げることができた。


     ◆


 恐怖の黒ラブ事件の他にもうひとつ、テツが引き合わせてくれた忘れられない景色がある。

 それは深く雪が積もった冬のある日の夕方のこと。私は寒さに震えながらテツと近所を散歩していた。私と違いテツは深雪に大喜びの様子で、雪に鼻をうずめて宝物を探したり、ごろんごろんと白銀の絨毯の上を転がったりしていた。寒くないのか。タフな毛皮が羨ましい。私が震えながらそれを見守っていると前触れもなく、その瞬間は訪れた。いや、もっと前からそうだったのかもしれない。


 一切の音がない。


 比喩ではなく街が静まり返っている。周囲には人っ子ひとり居ない。車も走っていない。風もなく木々の枝葉もぴたりと静止している。私たちが歩みを止めさえすれば、世界は完全な無音になった。私が住むのは所謂トカイナカで、もともと喧噪からは縁遠いもののすぐ傍には国道が走り、振り返れば線路の高架だって見える。けれど今、その全てが口を閉ざしたかのような静寂に包まれていた。こんな経験は初めてだった。

 私が立ち止まった所為か、テツもその場に座り込む。珍しく彼は紐をぐいぐい引っ張りもしない。私は呼吸を止めて、しばし深閑を味わった。一分か五分か。ほどなくして一台の自動車が通りががり、思い出したかのように街は音を取り戻してゆく。

 何か価値がある訳ではないけれど、特別な時間に思えた。冬が来るたび、雪が降るたび、私はその静寂を無意識に探してしまう。けれど、どこにもない。時が経ち気候が変わったのか、積雪自体も珍しくなった。人々の生活スタイルも時代と共に移ろい、交通量も増えて車はのべつ幕なしに走っている。そしてテツの居ない今、わざわざ冬の夜寒の中に出歩くこともない。

 なんとなく、生きている間にあの静寂に再会することは二度とないだろうなと思う。雪国に赴いて探しに行けば、また出会えるかも。けれど静寂の方から私の人生を訪ねてくることは、きっとない。テツが引き合わせてくれた、写真には残せない風景。

 今ではそれが私の心象風景となり人生観を強くかたどっている。最後の景色。最後の会話。最後のひと撫で。それは知らせもなく過ぎ去って、既に幾つも私たちの背後にあって、あるいは死神に連れ去られて二度とは巡ってこない。そういうものがきっと沢山ある。後悔のない別れなんて絶対に不可能だ。けれど、いつか、あなたがそういった辛い別れに直面したとき、どうか自分を責めないでほしい。呪わないでほしい。いま渦中にいるあなたは、こんな文章を読む気にもならないと思う。もし読んだとしても程度の低いアドバイスに嫌悪感を覚えるだけかもしれない。それでも楽しかった思い出にまで蓋をせずに、向き合ってほしい。あなたの大切な人との思い出を黒く塗りつぶさないでほしい。あなたの何かが足りなかった訳じゃない。数年前の自分を振り返るとその未熟さに、浅はかさに苛立ちもする。けど、数万年かけても犬語を習得できない人間が、たかが数年や数十年で出来ることなんて大してないのだ。もっとうまくやれた。冷静に選択すべきだった。最善策があった。後からなら何とでも言える。けれど、その一瞬は偽りなく全力だったはずだ。大切な存在を喪って悲しんで苦しんで深い傷を負ったのなら、それはあなたが最大限の愛を送っていたという証拠だ。あなたは充分頑張った。いつかあなたの傷が癒えることを、思い出にかかる霧が晴れることを願っている。


     ◆


 ハンターの私とオトモテツの前に、そいつは立ちはだかった。黒く巨きな体躯に、得物に飢えた獰猛な赤い双眸。そして前足に刃のような鋭い翼を持つモンスター。その名は迅竜じんりゅうナルガクルガ。その漆黒のシルエットは、そのプレッシャーは、遠いあの日に私たちが対峙した黒いラブラドールを彷彿とさせた。


 あの時は逃げてごめん。今度こそ一緒に闘おう。


 宿敵に向けて、私は太刀を構える。テツはダブル鎖鎌の柄を咥えた。テツの武器は柄の両端からそれぞれ伸びる鎖の双方に刃が備えられた、イカツい武器だ。オトモの数ある武器の中からこれを選んだ理由は、なんか攻略サイトに強いと書いてあったからだ。


 モンスターの突進攻撃に私はカウンターを狙い、何度も失敗する。ダメージを受けて情けなく地面に転がった。

 何やってんだ、と言いたげにテツは私を背中に乗せてくれる。テツはモンスターを置き去りにするほどのスピードで駆け回って攪乱し、その隙に私は回復アイテムを使う。アイルーはなんか太鼓を叩いて私たちを応援してくれている。万全に復帰した私はテツから飛び降りざまに、空中斬りをお見舞いする。華麗なカウンター戦法は捨てて、泥臭く連続切りを浴びせる。

 ついにモンスターからダウンを奪った。私はここまで温めておいた渾身の必殺技、大回転斬りを放つ。その瞬間、時を同じくしてテツも必殺技の鎖大回転攻撃を繰り出した。心が、言葉が通じたみたいだった。


 テツは雷や花火が大の苦手で震えて鳴くので、それらが喧しく鳴る日には家の中で一緒に過ごした。「お手」を沢山するほど家族が喜ぶと思ったのか、もはや連続パンチみたいな芸を習得したこと。家族で遊園地に遊びに行った際にペット預かりサービスに預けると、捨てられると思ったのかキャンキャンくんくん鳴くので、哀れに思った私と姉が遊園地もういいと言ってドライブに変更になった日のこと。大きなおならに自分でびっくりして、罪をなすりつけるように怪訝な目で私を見てきたこと。知らない人にはやたら威嚇するけど、小さい子どもには不思議と優しかったこと。遠吠えが下手でふにゃふにゃ声で可愛く鳴いていたこと。四万十川ではじめての水泳をするとき、まだ水に浸かっていないのに空中で犬かきを始めるテツの姿がツボに入って家族一同で爆笑したこと。


 全部覚えてるで。忘れるわけないやん。

 聞いてくれ。お前と過ごした毎日、楽しかったぞ!

 けど、今は闘いの最中。感傷に浸っている暇はない。ぐっと言葉を飲み込んで、太刀の柄を握り直す。行くぞ。畳み掛けろ。ダブル鎖鎌を振り回せ!

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