夜半の鏡は映らない
月見 夕
第1章
Scene.1 一人暮らしをしよう
丸一日かけてようやく荷開きを終えた部屋を見渡し、僕はひと息吐いた。カーテンのない窓を仰げば、既に暮れている。
役目を終えて畳まれ部屋の隅に追いやられたダンボールは、明日にでも引越業者に連絡すれば回収してくれる。とにかく今日はもう何をする気にもなれなかった。
「もう引越蕎麦は明日でも良いか……」
疲れ果て、絨毯も何もない六畳間にごろりと仰向けに横たわる。
フローリングは変に軋むこともなく真新しい。どこかの遠い街明かりに薄ら照らされた壁紙も天井も、至って普通だ。水周りも正常に動作する。
前の住民が置いて行ったのか、冷蔵庫や洗濯機、電子レンジやエアコンという必要充分すぎる白物家電も備え付けという有り難さ。
築三十年、と聞いていたからリノベーション済なのだろうが、僕はどうにも納得がいかなくて首を捻った。
まあ良い事だ、と思うことにしておこう。変に勘繰るのはやめにしよう。仕事内容に疑問を持つのは。
最寄り駅から徒歩二十分、閑静な住宅街に建つ風呂トイレ別1LDKのこの部屋――ステアハイツ二〇一号室に、僕は報酬を貰って住み始めている。
『この部屋に三ヶ月間住んでくれる方を探しています』
そんな不思議なアルバイトを見つけたのは、本業である夜勤のコンビニが体力的に辛くなってきた折のことだった。シフトを全て日勤に変更できないかとぼんやり考えていたのだ。
二十三歳で体力がどうとか言うなと店長に怒られそうだが、辛いものは辛い。日勤と夜勤が入り乱れる週五勤務、誰だってキツいと思う。
かといって日勤は夜勤より安い。深夜割増なしの週四十時間労働だと、給料はどうしても目減りする。
かといってこれ以上バイトを増やすのも……と頭を悩ませていたところ、SNSの片隅でそんな求人広告を見つけたのだ。
普段ならそんな怪しい投稿なんてスルーするんだろうが、端に記載された住所がそう遠くない場所だったから、「住むだけで給料が?」と思わず詳細を開いてしまった。
築三十年の木造アパートの二階で、家賃無料、家具家電付き。風呂トイレ別、内装はフルリノベーション済で、リビングと和室は南東向き。そして何より、住むだけで月八万円の報酬を受け取れる。
いつか始めたらいいと、独り立ちをだらだらと先延ばしにして実家暮らしをしていた僕の背中を押すには充分すぎる条件だった。
引越代はかかったし水道光熱費や通信費はさすがにこちら持ちだが、あいにく独り身なのでたかが知れているし、報酬で容易に賄える。
正直、事故物件かな? とは思った。しかしネットで調べる限りこの辺りで事件らしい事件は起きていないようだったし、事故物件サイトで検索してみてもヒットしなかった。
昔こそ不動産業界では人を雇って一定期間事故物件に住まわせることで、以降の居住者への告知義務をなくすような
それに広告にもある通り、ここに住んで報酬が得られるのは最初の三ヶ月のみ。それ以降は退去するか、通常の家賃を払って住み続けるかを選べるらしい。
まあここは駅からも遠いし築年数だけ見ると古い。通常では借り手が付かない物件の新手のプロモーションなのだろう、と僕は思うことにしてその条件を飲み、こうして入居に至ったのだ。
寝転んだままぐるりと部屋を見渡してみても、特段おかしなところはない。備え付けられていた家具や家電は、新しい入居者を歓迎するように白さを主張している。春というにはまだ気が早い一月だけれど、新生活らしくていいじゃないか。
三ヶ月お試しの、僕の城。真っ新な響きにどこか心が躍る。実家には自分の部屋があったものの、やはり居住空間丸ごと自分のものだというのは気分が良い。いつ寝ても食べても誰も文句を言わないし、こうして床で大の字になっていても咎める人はいない。部屋に何を置くのも自由だ。実家の時にはなかった炬燵を置くのも良いかもしれない。カーテンと一緒に、明日買いに行こう。
冷たい床と背中の体温が同化していく。意識が少し微睡みそうになっていたが、ふと思い立ってがばりと起き上がった。
「……お隣さんに挨拶しないと」
のろのろと腰を上げ、リビングの隅にあるキッチンまで歩いていく。気の利いたテーブルなんてものはなく、仕方なくコンロ横に置かれた新品の食器用洗剤を手に取った。わざわざ熨斗紙まで巻かれた円筒型のボトルには明朝体で『ご挨拶』と並んでいる。カーテンは買い忘れても、ご挨拶の品だけは忘れないでいたのだ。
単なるアルバイトで引越してきたとはいえ、隣に住むという事実は変わらない。こういうご近所付き合いはしっかりしておかなければ。
ポケットのスマホを取り出すと、十八時三十二分。お隣さんはご在宅だろうか。ひとまず行くだけ行ってみよう。
玄関へ向かうと、廊下脇にある洗面所の鏡と目が合った。よし、寝癖はないな。短い茶髪を撫で、相変わらずの童顔の口元を引き結ぶと、僕は玄関の靴を突っ掛けて外へ出た。
二〇一号室を出ると、真冬の夜は冷え切っていた。吸い込んだ空気が肺を冷やし、頭が冴えていく。錆の上から白く塗り直したような鉄柵の向こうに、遠くの街灯りがきらめいていた。このアパート自体が小高い坂の上に建っていることもあり、たった二階なのに見晴らしは良い。何だか少し得をした気分で、白い息を吐いた。
「さむ……」
隣の二〇二号室を振り見る。薄着で来てしまったから、要件を済ませて早く部屋に戻りたかった。
青い扉の脇に備え付けられたインターホンのボタンを押下すると、簡素な呼び出し音が鳴った。が、反応はない。
耳を澄まして扉の向こうに意識を集中してみたが、それらしい物音は聞こえない。不在なのか、防音がしっかりしているのか。
もう一度鳴らしてみて反応がなければ出直すか、と再びボタンに指を伸ばしていると、扉の向こうからくぐもった声がした。
「はーい」
サムターンの回る音がして、声の主が玄関から出て来る。
二〇二号室から現れたのは、僕と同世代くらいの女性だった。襟足を刈り上げた黒髪の彼女は、切れ長の視線を僕に寄越した。タイトな黒ニットを纏っているのもあり、細身なのが伺える。涼しい顔立ちも相まって、どこか路地裏に消える黒猫を連想させた。
怪訝とまではいかないが、その顔には少しだけ突然の来訪者への戸惑いの色が浮かんでいた。一人暮らしだろうか、確かに見知らぬ男が急に現れたら怖いかもしれない。
「突然すみません。隣に越してきた
さっさと要件を伝えて去った方が良いかもしれない、と僕は熨斗付き食器用洗剤を差し出した。が、相手は一向に受け取る気配がなかった。
あれ、と思い女性を見ると、彼女は呆けたように僕の目を真っ直ぐ見ていた。穴が開くほど、という表現が正しいくらい真っ直ぐな鳶色の双眸には、困惑した僕の顔が映っている。体感で十秒ほど見つめ合い、僕は耐え切れずに声を掛けた。
「あの……」
「あ……ごめん。明るく澄んでいて綺麗な瞳をしてるね。思わず見惚れちゃって」
「はあ……それは、どうも」
ハスキーな声で唇の端を上げる彼女に、僕はぎこちなく愛想笑いを張り付ける。童顔だと言われることはあっても瞳を褒められるのは初めてで、どう喜んでいいのか分からない。変わった人……なのかな。
洗剤を受け取りながらも、彼女は僕から目を逸らすことはなかった。
「折戸……何さん?」
「……
「私は
翡翠だとか銀河と同じ響きで、彼女――美澄さんはそう名乗る。会ったばかりだけれど、これ以上なく彼女を現す苗字だと納得させる、そんな澄み切った光が瞳には宿っていた。
黙ってしまった僕に、彼女は吸い込まれそうな瞳を細めて静かに微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます