「……もう、完全に『悪霊』になってる感じじゃないの、これは」


「……【覚醒】」



 封印解除の合言葉と共に、あたしの従兄――神谷玲夜は、手槍【スクルド】の柄を引き伸ばす。


 ガシャンと、ガラスを叩き割るかのような不快音が虚空を震わせ――その音の波に呼応して、従兄の黒髪黒目が紫紺へと変じる。


 同時に、黒スーツがはだけてほどけて織り糸となり――瞬く間にそれが再構築され、神職を思わせる紫色の狩衣へ。


 その間、わずか一ミリ秒。


「……ふぅ」


 従兄はあたしがするような自己暗示など不要とばかり、独特の呼吸法で『仕事』用に気持ちを切り替える。


 迷いは捨て、覚悟は完了したということだろう。


 既に【抜鞘】し終えていたあたしに続き、『仕事着姿』になった従兄を見て――あたしも静かに息を吐く。


「……では、手筈通り。……マツブシから悪霊を『切り離す』のはリナが行ない、俺や『白蛇』は悪霊が『跳ぶ』ことを前提として、別々の場所で待機する」


「ええ、了解よ」


 最後の確認をすると、兄は夜闇を縫うようにして跳び、事前に取り決めた配置場所へと向かう。


 一方、あたしはというと、神谷家の管理する神社の境内でひとり待つ形だ。というのも従兄によると、上手いこと話を通して件のマツブシ長男が神社へ来るように仕向けたということだ。どういう呼び出し方をしたかは、少し気になるところだけれど「……気にせず、そのまま『切り離す』だけでいい」「……何かあれば、一発二発ぐらいなら、殴ってもかまわん」とは従兄の言だ。いや、まあ、マツブシ長男の素行の悪い噂の中には「女癖が悪い」なんていうものもあるらしいから、多分、そのあたりなんじゃないかなとは思うのだけれど。


 などと思っている間にも、静けさが染み入る夜闇の中、やけに気取った感じの靴音がコツコツと聞こえてくる。ちなみに今は、午後十一時。丑の刻(午前一時から午前三時)にはまだ遠いのだし、こんな半端な夜中に神社の境内へ人がやってくるとすれば、それは良からぬことを考える輩と相場が決まっている。それを証明するように「へへっ、オレのファンだとかいう女子高生はどこかな……っと」なんて、聞いてもいないのに明らかに下心満載の下種台詞と共に、やけに顔立ちの整った男がやってくるのが見えた。


 ざっと、あたしが見てみるに――マツブシ宅周辺で目にする不穏な『糸』が、その男から伸びているのが分かった。間違いなく、売れっ子俳優だとかいうマツブシなにがしだろう。それも早朝に見た時と比べ、随分とまがまがしく――


「……もう、完全に『悪霊』になってる感じじゃないの、これは」


 伸びたいくつもの『糸』が、絡まり固まり。既に、人型を思わせる輪郭を構成してしまっている。


 従兄がいうには「なりかけている」ということだったが、これはもはや完全な『悪霊』――いわゆる『悪霊憑き』の状態だ。『悪鬼』のように憑りついた人間を異形に変えるわけではないものの、相応に『力』がある人間が見れば、雰囲気や目の色が変わっていることが分かるだろう。このマツブシなにがしの場合、その瞳は暴力的な灰色に輝き、何者をも力で屈服させようという欲望と衝動があふれ出さんばかりだ。さらに言えば、彼の体から漏れ出す『人型』の影絵は、頭部がオオカミのそれを思わせる輪郭をしているのも印象的か。


 マツブシなにがしは「ったく、こう暗くっちゃ何も見えねぇ……」なんてつぶやいているけれど、その実、月明りも乏しい真っ暗闇な境内の中を転ぶこともなくまっすぐに歩けている。多分、悪霊に憑かれてしまっていることで夜目が効きやすくなり、あたしほどではないけれど相応に夜闇を見渡せているのだ。ことにオオカミ頭の『悪霊憑き』なら、その手の力を持っていてもおかしくはない。


 しかし、『赤い糸切りのリナ』に相対する悪霊が『オオカミ』とは。まるで童話の『赤ずきん』みたいではないかと、ほんの少しおかしみがある。ただ、童話の類と少し違うことがあるとすれば――



「童話なら、赤ずきんはオオカミに食べられてしまうわけだけれど……むしろ、あたしはオオカミを狩る、狩人なのよね!」



 相手がこちらをとらえていないことを幸いに、あたしは音もなく駆け寄ると――駆け抜けざまに、手にした大鋏【アトロポス】を振るう。


 ただの『悪霊憑き』でも苦戦する業界人はいるけれど、あたしぐらいになると赤子の手をひねるようなものだ。


 マツブシなにがしは傍を通り抜けた一陣の風に「何だ?」と、さすがに気づきはしたものの――反応できたのはそれだけ。


 その時には既に、あたしの【アトロポス】は彼と悪霊とを結んでいる『糸』をとらえ、はさみ切ってしまっていた。



――断ち切られた反動で、『悪霊』が跳ぶ。



 ブチンと、存外大きな音と共に『糸』は断ち切られ「うぼぁ……」という声と共に、売れっ子俳優の男がその場に倒れ込む。


 同時に、彼に憑いていた『悪霊』は猛然とした勢いで空の彼方へ飛んでいくのだった。


「従兄さん、『白蛇』の姐さん! ……今、『悪霊』が跳んでいった!」


 すかさず、事前にグループ通話状態にしていたスマホに吹き込むと「……了解した」「こっちでも確認したわぁ」と、ハスキーボイスと男声で応答がある。


 ちなみにだけど、前者の微妙に女声っぽくも聞こえるハスキーボイスが従兄で、後者の野太い男声が在野業界人の『白蛇』である。


 まあ、その辺の細かいことはさておくとして――


「あたしも、『跳んでいった』方向へ、向かうわ!」


 方角としては、従兄のほうというより、『白蛇』が待機している方に近いだろうか。これが逆なら心配はいらなかったのだけれど――この悪霊は『白蛇』の実力だと苦戦しそうなので、急いだほうがよさそうだ。そんな義務感と使命感から、あたしは境内を飛び出し、跳んだ悪霊を追うように夜道を駆ける。


 あたしはこの街でずっと暮らしてきたし、最近は新聞配達などもしているから、十分に土地勘はある。なによりも神器の力を纏っている今なら、時速六十キロメートルで走ることさえ容易であり、身軽さを生かして屋根伝いを飛ぶように跳ね回ることだってできる。途中途中、先行している『白蛇』から「郊外のトウシン地区へ移動したわぁ」だとか「今、三丁目あたりねぇ」と報告があるので、そのたびに微妙に修正する。


 ただ、神器を持たない『白蛇』はどうしたって身体能力差がある。やがてはあたしの方が追い越してしまったらしく「今、『白蛇』の姐さんが見えた」と、報告する方とされる方がいつの間にか入れ替わる。もっとも、そこまでくれば、あと一息なわけで――


「……よし、こっちでも、悪霊を目視できる位置に来たわ」


 ほどなく、あたしは『跳んだ』悪霊の特徴的な姿――灰色のオオカミっぽい輪郭を発見する。


 多くの『解き放たれた』悪霊がそうであるように、それは自らが持つのと似た色の人間を探しているらしい。


 住宅街をふわふわと飛ぶ、霊体のごときそれは、けれども相応の意思をもって周囲を見て回っており――


「ちぃ、悪霊が、何か目標を見つけた感じがする! そこへ向かうわ!」


 それまでは『跳んだ』ときの勢いと、風まかせのようなふらふらとした動きばかりだったのだけれど。


 ここにきて、オオカミ頭の悪霊が明確な意思をもって、一直線にどこかを目指し始めたのだ。


「この感じは、一丁目のどこか……?」


 この辺りはちょうど新聞配達のルートなので、よく覚えている。


 ただ、このトウシン地区の一丁目というと、何か引っかかることがあるのだけれど――


 なんて思っているうちにも、あたしはなんとか先回りするように、悪霊が目指しているのだろう住宅前にたどり着く。


 ちらと表札を見ると――『間壁』の字が、目に入った。



「って、ちょっと待って! ここ、マカベん家じゃない!」



 はっと思って上を見上げると、ちょうどそこには二階の窓を開けて、ぼんやりと夜空などを眺めている男の姿がある。


 何なのだ、この、嫌な予感しかしない展開は。


 そう思っている間にも、空を舞っていたオオカミの悪霊が、ついに目標としていたのだろう所へたどり着き――


「って、させるわけ……ないでしょっ!」


 窓からぼんやり空を見ていたらしい男へ、オオカミ頭の悪霊が迫っていたけれど、そうはさせじとあたしは飛び上がり【アトロポス】を振るう。


 が、少し無理な態勢から繰り出した攻撃は、相手の芯をとらえることができていない。


 どんな凶悪な『悪霊』であろうと一撃必殺の【アトロポス】だけれど、当たらなければどうということはないのだ。


 それでも目論みを阻止することには成功したようで、攻撃を避けた悪霊はゆらりと離れたところで身構え、対するあたしも出窓という不安定な足場の上で向かい合うよう立つ。



「うぅん……? なんだか眠れなくて月を眺めていたら、オオカミ頭の幽霊と、赤毛の和装少女が現れた……?」



 さて、ここからどう立ち回るべきか――なんてあたしが真剣に考えていたら、眠たげな顔の男がそんなことをつぶやいていた。


 まるで緊張感がない台詞に、あたしは思わず脱力しそうだったのだけれど――それは何とかこらえ。


「……あんたは、そこで黙って見ていなさい」


「んっ、この声は聞き覚えがあるな? えぇと、たしか……」


「あー、もう! だから、黙ってろって言ってんのよ! ……いっそ、今ここで、改めて『縁』をぶった切ってやろうかしら?」


 が、このマカベという男は本当に空気を読まないというか、微妙に神経を苛つかせるようなことばかりをいう。


 あたしたちは別に、身分を隠して悪と戦う正義のヒーローとかではないので、身バレ厳禁とかはないのだけれども。


 普通でないだろう『仕事』をしているのを同級生に知られるのは、気分的にあまりよろしくないのである。


 だから「どうやって誤魔化すべきか」なんて、ちょっと思っていたのだけれど――


「あっ、そうだ! 声優の林原めぐみと、声が似ているんだ! ……うん、なるほど、すっきりした」


「って、そっちかーい! ……いえ、そっちと思ってくれている方が、あたし的にはありがたいのだけれど。……何かしらね、この妙な敗北感は」


 などと、つい漫才じみたやり取りをしてしまっていたものの――もちろん、その間にもあたしは『悪霊』から目を離していない。


 ちなみにあたしが見るに、この悪霊の色は『灰色』――強圧的な暴力衝動で間違いない。一方、あたしの後ろで間抜けな顔をしているマカベはというと、不穏な色がいくつかあれども灰色の『糸』は持っていなかった。普通、『跳んだ』悪霊が憑りつき直す際に狙うのは同じ色を持った人間だから、その意味でマカベに向かってきたのは少し妙な気がする。同じ色を持たない人間に憑りつく例はあるのだけれど、あまりに相性が悪いと『悪霊』が弱体化することもあるから、普通は滅多に憑くことはない。


 あるいは、このオオカミ頭の悪霊には『灰色』以外の色も混じっていて、それがマカベの持っている良からぬ『糸』のどれかに反応している可能性もあるか。『灰色』というのは色の中でも少し特殊で、様々な色が均等に混じり合ってできるものなので、そこにあたしが見落としている何かがあるのかもしれないのだ。でも、今回はあまりにも急な『払い』だったから悪霊の元となったマツブシなにがしの調査をあまりできていなかったし、それを見出すためのとっかかりが今のあたしにはあまりに少ない。


 マツブシなにがしと同級生(のようなもの)だった従兄なら、何か分かるのかもしれないけれど――


「って、同級生……? なんか、嫌な符合ね」



――マツブシなにがしと、あたしの従兄。

――マカベと、あたし。



 どうにも、運命の『糸』のつながり方が、妙な相似形を為している。


 十年前にあったという『払い』に、従兄は色々と思うところがあるようだし――

 実に、験が悪い。


「えぇい……! 考えても、仕方がない。……目の前のこいつを倒せば、それで解決よ!」


 仮に運命の巡り合わせが悪いのだとしても、そんなものは断ち切ってしまえばいい。


 それができるのが――それをするのが、あたしたち『縁切り人』なのだ。


 そう思い直し、あたしは悪霊を払わんと、一歩を踏み出そうとするのだけれど――



「あっ、言っておくけど……その出窓、建築家の設計ミスで耐荷重がかなり低くなってるから、気を付けて。多分、人が乗っかって体重かけると……ほら、そんなふうに折れる」



 その忠告が、せめて数秒早ければ結果は違っていたのかもしれないけれど。


 緊張感のない声で告げられたのとほぼ同時、あたしが飛び出さんと体重をかけた拍子に、足場にしていた出窓が崩落したのである。


 今のあたしは神器の効果で身体能力が常人を越えてはいたけれど、空を飛べるわけではない。


 足場が崩れて宙に放り出されれば、そのまま重力に任せて落下するほかなく――


「っ……! 不味った……!」


 二階からの落下ていど、あたしには大した痛打(ダメージ)にはならない。


 けれど、大きな隙になってしまったことは間違いない。


 落着したあたしが態勢を立て直し、頭上を振り返ったときには、既に悪霊は眠たげな顔の男に迫り――



「マカベ、避けなさい!」



 あたしは、思わず声を上げていた。


 あれとマカベを接触させてはならないという、嫌な予感があったのだ。


 眠たげな顔の男は、「何で気安く名前を呼ばれているのだろう?」というような顔だったけれど。


「まあ……そりゃ、当然、避けるけどさ」


「って、あら……? 真横を、素通り……?」


 しれっとした顔で、すっと身を引いてマカベが避けると――オオカミ頭の悪霊はそのまま、その真横をすうっと通り抜けていってしまう。


 てっきり、この眠たげな顔の男に憑りつこうとしているものだとばかり思っていたのだけれど。


 疑問に思いつつも、マカベが顔をのぞかせる窓へ、あたしは跳躍ひとつで飛び移る。


 不審げな顔をしながら「あのさ、土足で人の部屋に……」と空気を読まないことをいうマカベにはとりあわず、家の中の『糸』をざっと見渡し――


「マカベ、あんたの家族は……この突き当りは、誰の部屋?」


「んー、そこは姉さんの……」


 と、マカベが言い終わる前に「きゃぁ!」という悲鳴が、件の部屋から上がる。


 なるほど、若い女性の声だ。


「ちぃ、目立つバカのせいで失念してしまったけど……普通に考えて、こいつじゃないなら、他の家人が標的なのは当たり前のことじゃないの!」


 そんな当たり前すぎることを見落とすなんて、『赤い糸切りのリナ』なんて呼ばれるあたしらしくないミスだ。


 が、反省するのは後でもできる。


 だからあたしは「あー、説明とかは……?」というバカを無視して、そのまま正面の部屋へと駆け込む。


 いわゆるヤクザキックで扉を蹴破ると――そこにはオオカミ頭の悪霊に襲われ、腰を抜かしている若い女性がいた。


「うぅ……。あぁっ……」


 マカベ姉の色――あたしの目に見える『糸』には、灰色がちらほらとある。もちろん、それは『悪縁』などになるような凶悪なものではなく、誰にだってあり得るほんのかすかな細い『糸』だろう。大体、世間一般の『弟がいる姉』という生物は『弟を殴る蹴るのサンドバックにしている』というのが一般常識なのだから、灰色の『糸』の一本や二本は必ずある。けれど、その普通なら問題にならないはずの灰色の『糸』が、今はオオカミ悪霊の灰色と混じり始めている。


 これが単純に「『糸』が結ばれてしまっている」だけなら、問題なかった。今までの追いかけっこが最初からやり直しになるとはいえ、その『糸』を切ってしまえば、それだけで済む話だったのだから。でも、よく見るとマカベ姉から伸びた『糸』は撚りがほどけ始めており、それが悪霊のそれと混じって撚り直されている。そしてよく見ると、色白で美人さんらしいマカベ姉の半身に気色の悪い灰色の血管が浮き出始めていて――それがビクビクと脈打ちながら、膨張してく。


 十年近くこの『業界』にいるあたしは、これまで何度も『払い』の現場には立ち会ってきたし、実際にこの手で『払い』をしたことだってある。けれども、この手の現場に居合わせたのは、これが初めてのことだ。初めてのことなのだけれど――これが『それ』なのだということは分かる。


「姉、さん? えぇと、これは……?」


「……『通りもの』。……悪霊が憑いた際、運悪く相性がよすぎたせいで、本来はそれほどの『悪縁』を持っていないはずの人間が『悪鬼』と化してしまう。……考えられる限り最悪の、胸糞悪い案件よ」


 別に、マカベのために説明してやったわけではない。


 まず、いまだに通話状態にしているスマホで、従兄や『白蛇』へ状況を伝えるためでもある。


 あとは――声に出して現状を整理し、客観的に事実を把握し直すことで、冷静な対応をできるようにするためだ。



「あたしが、『払う』の? ……マカベの見ている、この場で?」



 でも、そうして冷静になってみたことでかえって、あたしは目の前が真っ暗になるような感覚に陥ってしまう。


 タナシのことでもマカベを傷つけたというのに――ここでもまた、あたしは彼を傷つけなければならないのか。


 それも、今度は悪鬼の『払い』なのだ。


 タナシの時と決定的に違うのは、『払い』をされた人物は精神がズタズタになって――廃人同然となってしまうということ。


「いえ、今なら、もしかしたら……!」


 まだ『悪鬼』への変化は始まったばかりであるから、ギリギリ『縁切り』が間に合うかもしれない。


 混じり始めている以上、何らかの後遺症が残る可能性もあるけれど、完全に『悪鬼』になりきった後よりはマシかもしれないのだ。


 そう思い直して、あたしは【アトロポス】を構え、オオカミ悪霊とマカベ姉との間に突き入れようとしたのだけれど――


「くそっ……姉さん!」


「あっ……マカベ、やめなさい!」


 逡巡して、ほんのわずかに出足が遅れたあたしの横を、いつの間にか眠たげな顔をした男が通り抜けていた。


 そうしてオオカミ悪霊と混じりかけている姉の元へと駆け寄ると、無謀にも「くそっ、こいつ、離れろ……」と悪霊に掴みかかっていったのだ。もちろん、業界人でもなんでもない男が悪霊をどうこうできるはずもなく、どころか悪鬼と化しつつある姉の膂力で殴り飛ばされ「ぐぼぁ……」と鼻血を吹き出したりしている。それでもめげることなく。二度、三度と殴り飛ばされながらも、執拗に食らいついて悪霊を引きはがそうと奮闘している。空気が読めなくて協調性もないバカだけれど、家族の危機にこんなにも必死になっているとは。


 ただ、結果的にいえば、マカベの必死さは全くの逆効果だった。あたしの【アトロポス】は「切りたいものだけ切る」なんて器用なことがまったくできない神器だったから、間合いの中にマカベが入っている状態で振るうわけにはいかない。誤ってマカベの『糸』まで切ってしまいかねないという意味もあったけれど、単純に物理的な破壊力もあるのだ。悪鬼化している相手に振るう分には問題ないけれど、生身の人間に振るうと物理的に一刀両断して即死である。あたしは従兄と違って相応に『守る』ための手札も持っていたけれど、興奮して組み付いている人間を穏便に引きはがすような手段までは持ち合わせていない。


「くそっ、この、こいつ……」


「マカベ、どいて! ……そいつ、殺せない!」


 そうしている間にも、どんどんとマカベ姉の変貌は進んでいく。


 頭髪はぞろりと抜け落ち、頬はこけて目は落ちくぼみ、元の美麗だったはずの相貌は見る影もない。全身の筋肉が異常発達して膨張し、その反動のせいなのかそれとも激痛のせいなのか、背をエビ反りに――それこそ『エクソシスト』のブリッジウォークみたいな態勢になる。内臓もおかしなことになっているのか「うべぁ、ごぼぉ……」と女子が発してよいものではない吐瀉音と共に、口腔から赤黒い粘液を吐き出す。


 あたしも何とか隙を見て、【アトロポス】を差し込もうとするのだけれど。マカベは執念深く「この、このぉ……」と、姉にとり憑いた悪霊に掴みかかっているので無理だった。学校では相応に真面目に勉学に取り組み成績優秀である半面、どこかいい加減で適当な感じだったはずのマカベが、血塗れで吐瀉物塗れになりながらも無我夢中に姉を助けんとしている――あたしはマカベのいい加減なところが好きではなかったし、きっとこいつは何をやっても必死になるようなことはないんだろうなと内心馬鹿にしていたものだけど。こうまで必死な彼を見て、そうやって見下していたことを恥もした。でも、皮肉なことに――その必死さが、この場合はかえって姉を助ける妨げになっている。


 がむしゃらになっている人間というのは、存外、厄介なのだ。言葉で説得しようにも聞く耳を持たないし、さりとて力で押さえつけようにも、信じられないような膂力と予想もつかない動きでそれをさせてくれない。こういうのへの対応については、本当は『白蛇』が一番なのだけれど――



「あらぁ……。ちょぉっと、面倒な状況じゃないのぉ、リナちゃん」


「……『白蛇』の姐さん!」



 そう思っている間にも、ようやく追いついて来たのか、折よく件の『白蛇』がクネクネとやってきていた。


 身長百八十センチメートル超の、筋骨隆々な大男――もとい、漢女(おとめ)である。


 シリアスな場面には少々そぐわない絵面(ビジュアル)の人だけれど、これはこれで凄腕の業界人なのだ。


 何よりも、こういった状況では一番頼りになる。


「姐さん! そのバカ、押さえといて!」


「えぇ、了解よぉ。ほぉら、そこのボウヤ、ちょぉっと……落ち着こうかしら?」


 通話で聞いて状況把握はできているのか、筋骨隆々の漢女は見た目にそぐわぬ軽快な動きでひょいとマカベを掴み上げ、そのままマカベ姉から引きはがす。


 その際に「うわっ、新手のバケモノが……」「ぬわぁんですってぇ!」みたいな漫才じみたやり取りがあったようだけれど、それは今は無視だ。


 とにかく速攻だとばかり、あたしは【アトロポアス】を振るって――



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