2、レイヤ

「……リナ、いけるか?」


 縁切り業界の朝は早い。


 特に、火急の『仕事』があるときには。



「……【払鞘】!」



 あたしは封印解除の合言葉と共に、手にした握り鋏【アトロポス】の鞘を払う。


 シャランと、心地よい鞘走りの音が響き渡り――その音の波に呼応して、あたしの栗髪鳶目が赤髪赤目へと変じる。


 同時に、紺セーラー服がはだけてほどけて織り糸となり――瞬く間にそれが再構築されて、和装へ。


 その間、わずか〇・〇五秒。



「さあ、お仕事の時間よ……!」



 自己暗示(ルーティーン)の言葉と共に、あたしは『仕事』用に気持ちを切り替える。


 迷いは捨て、覚悟は完了。


 草木も眠る丑三つ時、通い慣れた伯父伯母の管理する神社の境内で、あたしは静かに息を吐く。


「……リナ、いけるか?」


「大丈夫、問題ない」


 従兄が問うのに、あたしは言葉短に答える。


 黒地の狩衣姿に長短二本の手槍【スクルド】を携えた従兄は、どこか危ういものでも見るような眼だったけれど。


 それでも最終的には「……そうか」と、頷いてくれる。


「……『払い』前の、再確認だ。……流川の家で担当していた件が『悪鬼』へと変じて、うちの担当領域まで流れてきてしまった。……『悪鬼』は相当消耗しているようだが、それでも流川のところの『光剣』が負傷して追撃を断念せざるを得なかったような相手だ。……油断は、命取りになる」


「分かってる。今回は、従兄さんのサポートに徹するわ」


 静かに、感情の起伏を感じさせない口調で言う従兄に、あたしも同様に応じる。こたびの仕事は『悪縁』が進み過ぎて『悪鬼』となってしまった事例の討伐依頼――『払い』だった。


 あたしと従兄とでは見える『縁』の種類がかなり異なっていたから、普段割り振られる『仕事』は全然違う。けれど、従兄があたしの仕事をほとんど手伝えないのに対し、あたしは従兄に割り振られるような類の仕事への適性もそれなりにある。というか、従兄が全世界規模で見ても最高峰の実力を誇る化け物なだけで、あたしだって一般的に見ればそちら方面の仕事の腕前もかなり高いのだ。それこそ今も話に出てきた、従兄の従妹にあたる『光剣』もそっち方面では名前が売れているけれど、彼女とあたしとの実力差はほとんどない――といえば分かりやすいだろうか。


 もっとも、言い換えればあたしと遜色ない実力を誇る『光剣』がとり逃したのだから、相応に性質が悪い悪鬼なのだろう。なら、あたしも十分注意しなければならないということだ。いかに従兄が化け物じみた実力者だとはいえ、この従兄の強さは『守る』ことよりも『倒す』ことに特化しすぎているきらいがあるので、自分の身は自分で守らなければならなかったし――万が一にも一般人が巻き込まれた際、『守る』のが下手すぎる従兄に代わって、あたしが上手く立ち回らなければならないのだ。


「……気負う必要はない。……払い、倒し、討ち滅ぼすのは、それしかできない俺の役目だ。……リナは、とにかく『守る』ことだけを考えていればいい」


 そんなあたしの心情を先回りして、従兄は言う。


 口下手なきらいがあるとはいえ、これだけ気遣いしいな従兄が破滅的な『払い』しかできないというのが何とも皮肉だ。


 あるいは、そういう力しか持てなかったからこそ、この従兄はこんななのかもしれないけれど。


 時々、あたしは「もしもあたしと同じ力を従兄が持っていたら、もっと上手く使ってくれたんじゃないか」なんて思ってしまうわけである。



 ともあれ、毎度のことではあるけれど――


 従兄の遂行する『払い』について語るとすれば、いつもたった一行で済む。



――レイヤが【スクルド】を振るうと、『悪鬼』は瞬く間に払われた。



 最初のふりがなんだったのだと思うぐらい、その悪鬼は簡単に払われていた。


 もちろん、夜の街を跳梁する悪鬼を追跡するのには相応に骨が折れたものだけれど、いざ接触すれば従兄に払えぬ悪鬼などいない。


 長短二本で一組の手槍【スクルド】で貫かれた悪鬼は、その異形の人型をボロボロと崩していき――後には、その『核』となっていた人間が力なく倒れるのみだ。


「本当、従兄さんの『払い』は容赦ないというか、情緒も何もないというか……」


「……悪鬼に堕ちてしまった相手に、容赦も情緒もない。……可及的速やかに払えねば、被害が出る。……そうなってからでは、遅い」


「まっ、たしかにそうなのだけれど……」


 無造作に手槍を引き抜くと、その場に膝をつき、『核』となっていた三十路男の容態を見る従兄。


 その元悪鬼の男は死んでこそいないが、今はピクピクと細かな痙攣を起こしている。


 人々の『悪縁』が転じて『悪霊』となるだけでも重大事態だけれど――これが『悪鬼』と化してしまうと、深刻なのだ。


「……当事者にしか害を与えない悪縁や、条件を満たした限定範囲に災いをもたらすだけの悪霊と違い、悪鬼のもたらす災いに際限はない。……なによりも悪鬼は、力を持たなくても何かしらの形として『見える』のだし、物理的な危害も伴う。……例え、元がどれだけ善良な人間だったのだとしても、一度悪鬼と化してしまえば『払う』以外に救いようがないのだからな」


「まあ、その『払い』をしてしまうと、精神がぶっ壊れて廃人同然になってしまうのだけれども……」


 従兄が容態を見ている元悪鬼の男は、白目をむいて泡を吹き「ボタン……。ボタンを、よこせ……」と、うわごとをつぶやいている。


 そこには既に、正気の色はない。


 ただ、悪鬼姿であった先ほどまでと比べれば、随分とおとなしいものだ。


 四つん這いの姿勢で時速六十キロの高速移動をしてくることもなければ、口腔から強酸を吐き掛けてくることもない。


「……厳密には『払い』をしたからではなく、それ以前の悪鬼と成ってしまった時点で、精神はほとんど壊れている。……もっとも、悪鬼の根本諸共に、その人間の精神を傷つけている場合が多いのは間違いないが」


 事前情報によると、この三十路男はとある県議会議員の息子で、今はその秘書をしていたらしい。ただ、意図的なのかミスなのかは定かではないが、最近は不正献金問題が発覚して突き上げを食らうようになったのだとか。


 同じころ、夜な夜な人々を襲撃(殺人含む)してはボタンをむしり取っていくという怪奇事件が発生し始めていて――調査してみると、どうもこの議員秘書の三十路男が悪鬼と化しているということが分かったというわけである。それで『払い』の依頼が来たというわけだ。


 実のところ、世にある凶悪事件や怪奇事件の大半が、こうして『悪縁』転じて『悪鬼』と成ってしまった人々によって巻き起こされていると言われている。もちろん、そうでないものだってあるけれど。常軌を逸した犯罪行為の場合、まずは悪鬼の仕業を疑ってかかるというのが『業界』では常識だ。


「……ともあれ、死んだわけではない。……まともな社会生活を送ることが困難なぐらい、精神が壊れてしまってはいるが、な」


「人死にも出ているという話だから、身柄は警察へ渡す……で、いいのよね?」


「……ああ、悪鬼へと成ってしまったせいだとはいえ、この男の場合は自業自得だ。……少なくとも、俺の目に見えるこの男の『業』は、なかなか深い」


 あたしには鑑別しづらい類の破滅的な『縁』を見ながら、従兄は言う。


 今の従兄の、紫紺色に染まった瞳は、平時よりもさらに深く人々の『業』を見据えているのだろう。


 あたしの目には真っ黒な『糸』にしか見えない破滅的なそれを、従兄はさらに細かく正確に見据えることができるのだ。


「……そもそも、この男、余罪があるな。……『横領』『恐喝』『監禁』『強姦』『詐欺』といったところか、胸糞が悪い。……『通りもの』ではなく『自前』の悪鬼だという話ではあったが、ここまでのは珍しい。……『光剣』が、遅れをとるわけだ」


 見て取った情報をつぶさに語る従兄の声色は、思わずぞわりと背筋が寒くなるほどの冷気を伴っていた。


 界隈では『零のレイヤ』なんて通り名で呼ばれることが多いけれど、他にも『絶対零度』だとか『冷血王子』なんて呼ばれているだけある。


 あたしの目には、そう言う従兄の周囲に、行き場のない紫色の『糸』がゆらゆらと揺らめいて見えるほどで――


「……どうした、リナ?」


「んっ、何でもない。ただ、やっぱりあたしと従兄さんとでは、『見える』ものが全然違うんだなって」


 本当は、あたしの目には悪鬼だった男よりも、今の従兄から見える『糸』の方が恐ろしいものに見えてしまっていたのだけれど。


 それを従兄に言うのは違うなと思って、あたしは適当に誤魔化す。


 昔から、従兄には「同業者から見えた『縁』の内容をあまり話すものじゃない」なんて言われていたけれど――たしかにそうだ。


 あたしは従兄ほど凶相を示している人間を他に見たことがなかったし、ここまででないにしても他の同業者も大体似たようなものだったのだから。


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