第8話 甘い企み

コンコンコン


 扉をノックする音で意識が浮上した。ふと時計を見てみると十時過ぎを差している。


「マリアちゃん、起きてる?」


 外からそっと音量を落としたシャルロさんの声が聞こえてきた。どうやらノックしたのはシャルロさんらしい。


 ベッドから降りて小走りで扉に近付いて開けると、頭二つ分くらい上から空色の目が見下ろしていた。


「起きてたのね。おはよう。よく眠れたかしら?」


 にこりと輝く笑顔を向けられた。昨日とはまた違った衣装に身を包んでいるシャルロさんは今日も素敵だ。


「おはようございます。ずっと悩んでいたので、そんなに」


 眠れていないことを正直に話すとシャルロさんはそう、と零してから「部屋に入っても良いかしら」と申し出た。快く承諾して扉を大きく開けると、彼女の傍らにはポットや銀のクロッシュが乗ったワゴンがあった。


「お腹が空いたでしょう? 食事をしましょう」


 シャルロさんはウインクした。


 ワゴンを押すシャルロさんの後についていき、テーブルセットの脇に立った。シャルロさんがカーテンを開けると眩しい陽の光が入ってきて目を瞬いた。部屋が明るくなって、今まで薄暗いところにいたことを初めて自覚した。


「ここの料理は簡単なものでも美味しいのよぉ」


 言いながら手際よくテーブルの上を整えていく。


 真ん中にクロッシュごと大きなお皿を置いて、小皿を用意し、お茶を準備し始める。ケトルやストレーナーも使った本格的な淹れ方のようだ。


「はい、マリアちゃん。座って」


 引いてもらった椅子に座ると紅茶が置かれた。暖かい湯気と共に麗しい香りが鼻孔をくすぐる。


 両手でティーカップを持ち上げて一口飲み下した。熱い液体が冷えた身体の真ん中を通っていくのが分かる。息を吐くと鼻から香りが抜けていった。


 落ち着く。暖かくて、香り高くて、心地良い。


「美味しいです。香りも良くて」

「そうでしょう。こっちも素敵よ」


 橙色の爪の手がクロッシュを持ち上げた。


 とても鮮やかな一枚のお皿が目に飛び込んできた。


 赤や緑や黄色を集めたキッシュに花の散りばめられたサラダ、黄金色のスープ、ピックに刺さった一口大のフルーツたちが白いお皿に乗っている。一人分にしては多い量だ。


「全部まとめて二人分乗せてもらったの。たくさん置いてある方が豪華でいいでしょう?」


 うふふ、と笑ったシャルロさんにつられて表情が緩んだ気がした。


「そうですね。綺麗で、豪華で、素敵です」


 ついでに洗い物も少なくて良い。母もよくワンプレートに全員分乗せていた。


「遠慮なく食べてちょうだいね。足りなければもっと持ってくるわ」

「すみません」


 向かいに座ったシャルロさんが手をつけるのを待っていたけれど、シャルロさんは長い足を組んで私をじっと見つめたまま紅茶を飲んでいて手をつけようとしなかった。私が先に食べるのを待っているのかもしれないと解釈して、小皿にキッシュとサラダを取り分けた。


 銀のフォークで一口大にしたキッシュを口に運ぶ。


 ベーコンとほうれん草、それからトマトだ。ベーコンの塩気とトマトの甘味が調和している。ほうれん草も苦みが和らいでいて旨味が引き出されている。


「美味しい?」


 頷いた。するとシャルロさんも小皿にキッシュを取り分けて口に運んだ。ぷっくりた桃色の唇に銀のフォークが挟まれる。


「うん! 美味しい! いくらでも食べられちゃうわね!」


 目を輝かせてパクパク食べ進めていくシャルロさん。可愛らしい人だ。


 全ての料理を食べ終わると、シャルロさんはもう一杯紅茶を淹れてくれた。紅茶は十分暖かくて、癒しの香りも衰えていなくて、食事でやや興奮していた気持ちを落ち着けてくれた。


「どうするか決まった?」


 目を上げると空色の瞳とぶつかった。


 ティーカップを置く。


 どう答えようか思案したけれど、結局正直にまだ決められていないことを話した。こんな自分でも役に立てるならそうしたいけれど、自信がないこと。もしここに残るのなら見知らぬ土地で生活することになり、全く違う常識の中で過ごさなければならなくなることへの不安。こんなにも不安を感じているのに、この世界の人たちを見捨てることもできそうにないことなど。でもとだってを繰り返して考え続けたことの全てを、簡潔に。シャルロさんは私の長い話を黙って聞いてくれていた。


「私、どうすればいいのか分かりません」


 最後にそう結んだ。


 カチャ、とシャルロさんがティーカップを置く音で思考の海から浮上した。


「そんなに難しく考えなくていいんじゃないかしら」

「え」


 瞬いた。


「リルクエット様が昨日おっしゃったことは事実よ。私たちは救世主としてのマリアちゃんを必要としているわ。けれどねマリアちゃん。それは私たちの都合なの。貴方に難しいことを強いているのは私たちの都合なのよ。だから、マリアちゃんはマリアちゃんの都合でどうするか決めてしまえばいいんじゃない?」


「でも無責任な決め方をしてしまってもいいのですか? だってこの世界は危機的状況なのでしょう?」


「いいわよ。そもそも私たちが無責任だもの。この世界のことを知らない年端もいかない貴方を縛りつけて世界を救えと言うなんて。今のところそれしか打開策がないからだけれど、正気な大人がすることじゃないわ」


 絶句した。まさか当事者からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。シャルロさんは危機にさらされている張本人なのに、客観的に見られるようだ。

「でも、シャルロさんが良くても、みんなが許してくれませんよね? だって昨日のみんなはとても真剣でしたから」


「いいのよそんなことは気にしなくて。分からず屋もいるけれど、十傑たちはみんな理想ではなく現実を見ているわ。マリアちゃんが帰ってしまったら割り切って次の対応をするわよ」


「でも、今のところ私にしかこの世界を救う術はないのですよね? だって四十年探したって」


「そうよ。また四十年探せばいいのよ」


 随分簡単に言う。


「でも……!」


 唇に人差し指がくっついて話せなくなってしまった。


「『でも』は禁止よ。もちろん『だって』も。その言葉の後ろには言い訳がくっつくもの」


 優しいシャルロさんの表情に胸がきゅっとして、唇を引き結んだ。


 私が黙ったのを見て、シャルロさんは私の唇から指を離して椅子に座り直した。


「マリアちゃん、とっても悩んでくれたのね。嬉しいわ。けれど結論が出なかったのね。つまり、決定打が足りないってことだわ」


 紅茶を一口飲み下すシャルロさん。


「だったら、決断できるような決定打を出してもらいましょう。マリアちゃんは私たちにとって何としてでも逃がしたくない大切な存在だから、絶対に断れないはずだわ」


「決定打? 断れない?」


 言っていることがいまいち分からなくて聞き返した。するとシャルロさんはにっこりと笑って言うのだった。


「マリアちゃんが悩んだ分、彼らにも悩んでもらうのよ」


 シャルロさんはそう言って妖艶に微笑んだ。

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