第0話 重なる光


 今宵は満月だ。


 澄みわたる夜空が思いのほか暗いのは、そう珍しいことでもない。

 事情を知らぬ獣たちは、清らかな白を失いゆく月明かりに困惑し、焦燥の息遣いが幾重もの風に運ばれて、深緑の地平を伝わってゆく。


 そんな世界の中心に鎮座する古城は、樹木の海原を高らかに突き抜けながら、を一身に受けとめていた。

 黒石の剣山から北へと伸びる影たちは、どれもが不気味なほどに小さく、ますます小さくなってゆくようである。


 塔のうえでひとりたたずむ城の主は、たちまちに姿を現した星々の群れに急かされて、ひんやりと心地よい風にしばしの別れを告げた。

 きびすを返して軽やかな一歩を踏みだすと、ふと立ち止まり、努めて堅苦しい足取りで、螺旋らせんの階段を降りてゆく。


 風のささやきはついぞ消え去り、円柱にかたどられた暗闇の底で、扉が無造作に開かれた。


 新鮮な空気を取り込む広間には、ただひとつ、輝きを放つものがある。

 小さな瞳が、台座に置かれた籠のなかで、無邪気に侵入者を見上げていた。


 城の主は、書物で散らかるはずの床を、難なくと通り抜けてゆく。

 環状に並ぶ十二の石柱にたどり着くと、少しばかり、足の裏で周囲を探った。


 緩やかな段差が五つ。

 暗闇の中心に降りたてば、籠のなかの小刻みな拍動に導かれ、台座の裏に寄りかかる古い杖を手に取った。


 石筍せきじゅんがごとく、芯かられ果てた二本の枝。

 互いを巻き込み、ひとつとなった柄の先には、真球をきわめし曇りなき水晶。


 城の主は、水晶を籠の真上に掲げ、自身にとり最も自然な視線に収めた。

 遠く、遠く、風の音に耳を傾けながら、静謐せいひつな空気に呼吸をなじませ、そして――



「我が名はエリグ=バラシェオール。ここに、召喚の儀を執り行う」



 言葉が静寂を破った。


 水晶のまわり、『無』の空間が所々で揺らぎはじめ、透明の波紋を広げてゆく。


 だんだんと大きく、だんだんと強く。


 やがて無秩序のなかに流れが生まれ、揺らめきが繋がり、互いに動きを与えあって、青白い光の渦を起こした。


 生まれ続ける渦の連なりは、唯ひとつの中心に群がり、空気を震わせ、書物をはためかせ、その輝きを増してゆく。

 形を成した光のまりが広間の全体を覆い尽くすと、この部屋に誰がいて、なにが行われているのか、当人の他には知り得ない有り様である。



 しかしながら、繭のなかは平穏に満ちていた。



 もはやなにも見えず、なにも聞こえない。

 すべての感覚が無用と化した、けがれを拒絶する光の世界で――


 安らかに、されど誇り高く、赤き双眸そうぼうが開かれた。



月白げっぱくの使者よ! 祝福されし此房しふさを志し、天空の門前に佇むならば、我らが悲痛と渇望の招来に応えよ。新星と見紛みまごうテナエの導きに従って、なんじの姿を、現したまえッ!」



 折り重なる光の渦が、膨張を止めた。

 青白い眩耀げんようを内へ内へと強めながら、自らの激流を呑み込み、小さく丸くなってゆく。


 数多の存在が、輪郭を取り戻す。


 燭台しょくだいの鉱石、はためく書物、空っぽの小瓶。

 石の柱、杖を持つ男、小さい籠。



 そして、光のたまは虚空に弾けた。



 ソレは現れた。

 否、ソレは弾ける前に現れた。



 ――ゴトリ。



 城の主は、呼吸を失う。


 渦が消え去りし広間には、青白い光の粒がそこかしこに浮かんでいる。

 初めてではない。徒労をいつも慰める、情緒的な光景のはずだった。


 そこに混ざり込んだ、異物。

 空間、記憶、いては世界にとっての、異物。


 ――これは成功だ。しかし、コレはなんだ?


 城の主は、ソレを直視できない。

 石の床に横たわるソレは、間違いなく、ひとつの成果であるはずだ。待ち焦がれた祝福の証であるはずだ。


 けれども、大いなる喜びは困惑に塗り潰される。


 違和感。


 杖を握りしめた手ではない。他の肌でもなく、光のなかで開いた目でもない。鼻でもなく、舌でもなく、鈍い音を拾った耳でもない。

 世界の壁へと無謀に迫った、自らの存在そのもの。全身ではなく、『全て』に突きつけられた違和感。


「……俺が、貴様をんだのか?」


 ソレは答えない。


「違う。俺じゃない」


 ソレは頷かない。


 城の主は、ただ立ち尽くすばかりであった。

 これまで読み漁ったいかなる文献にも、このような事態は記されていなかった。想定すらされていなかった。


 分からない。なにも、分からない。



「貴様を召喚したのは……、誰なんだ?」






_____________________

※注意事項

本エピソードは、長期間の改稿後、冒頭に配置していたものです。

物語への導入として不適当かもしれないとの判断から、こちらにお引越しさせていただきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る