のぞき女-4

 うちに帰ってきてすぐに、冷凍のチャーハンとインスタント味噌汁で食事を済ませた。スマホでショート動画を眺めながらしばらく怠惰に時間を潰した。ふと時間を見るともうすぐ日付が変わりそうで、シャワーを浴びなければと立ち上がった。冬は風呂場が冷えるが、ここのところ風呂を沸かす手間すら面倒だ。

 手早くシャワーを浴びて、さっさと暖かい部屋に戻った。最近は電気代も馬鹿にならない。一人暮らしをするにあたって親から多少なりとも金銭面の援助もしてもらっているが、やはりそれだけでは心許ない。俺は節制の得意な人間ではないから、自由に暮らしたいならその分自分で稼ぐようにと親にもきっぱりと告げられている。

 暖房の効いた部屋でしばらくくつろいだあと、まだ濡れた髪が冷えるのがさすがに気になって、髪を乾かすために洗面所へと戻った。ドライヤーを手に取り、顔を上げて鏡を見る。

 鏡にはいつも通りの、見慣れた俺の顔が映っている。

 その背中から女の顔がのぞいている。


「────!!」


 思わず振り返るが、そこには誰もいなかった。そして俺は昨日の悪夢のことを鮮明に思い出した。あの女だ。あの女が、再び目の前に現れた。あれは夢じゃなかったのか?いや、これが夢なのかもしれない。夢なら今すぐ覚めてくれ。目の焦点が定まらないまま、必死で思考を巡らせる。 

 思わずぎゅっと目を閉じた。真っ暗な視界の中、耳の奥で誰かがささやくような声が聞こえる。ざわざわと小さな音が鳴っている。遠くにいるかのようにぼんやりとした、けれど耳元でつぶやかれているような言葉。何を言っているのかはわからないが、内容を知ってしまったらただではすまないことはわかる。

 ガクン、と頭が大きく揺れる感覚がした。


 ざわざわと学生の話し声が聞こえる。見渡す視界はぼんやりとしていて、何度か瞬きを繰り返すと、鮮明な午後の教室の景色が現れた。


「はよー。ペアワークだってさ。お前が船漕いでる間に結構スライド進んだぞ」

「……え、ああ、ごめん」


 隣から声をかけられたかと思えば、なおとがこちらの顔を覗き込んでいた。さっきのはただの悪夢だ。夢だったんだ。

 それにもかかわらず、心臓はまだ早鐘を打ち、指先はわずかに震えていた。夢であの女を見るのは、初めてじゃない。どうして忘れていたんだろう。夢の続きなんて滅多に見ないのに、どうして今回に限って。


「大丈夫か?寝不足?」

「うん、まあ、多分そんなところ……」


 なおとの言う通り、昨晩バイトから帰ってきた後もほとんど寝つけなかった。というより、なんだか眠るのが怖かったのだ。また悪夢を見るんじゃないかと不安で、暗い部屋で目を閉じるのさえ億劫だった。

 そんな不穏な予感はある意味当たっていたのかもしれない。

 続けざまに悪夢を見るなんて、無自覚のうちに事故で相当気が滅入っていたのだろうか。医者からは何も問題ないと言われたはずだが、本当は精神面で何か異常事態が起こっているのかもしれない。

 講義が終わってからもなおとに心配されたが、たかが悪夢くらいで相談する気にもなれなくて、慣れないことが続いたので寝つけないのだとそれらしく説明した。実際のところ環境の変化も少なからず関係しているはずだ。ただの偶然で片付けるにはなんだか厭な予感がするこれは、どうやって解決するべきなのか。最悪精神科にかかることも考えたが、それは本当の最終手段にとっておくべきだろう。

 人間は眠らなければ生きていけない。悪夢を見ない方法、安眠する方法、なんだか間抜けた感じのするワードで検索をかけてみればいくつか思い当たる節があった。寝る前にブルーライトを浴びないとか、湯船にゆっくり浸かるとか、それくらいの簡単で基本的なことだ。試す前から効果があるのか疑っていては治るものも治らない。

 検索で引っかかった方法をあらかた実行して、いつもより早い時間にベッドに横になった。暗闇の中で目を閉じると、ぼんやりとあの女の影が浮かんでくる気さえする。余計なことは考えるな、と自分自身を律して、ひたすら五感を無にすることに努めた。


──はやく帰んないと、のぞき女がくるぞ!


 キーンコーンカーンコーン。間延びしたチャイムの音。くすくす、きゃはは、子どもの笑う声。夕暮れで真っ赤に染まる校庭で、キーコキーコと音を立てるブランコに乗って、後ろから背中を押されている。

 かかとを履き潰した靴が片方すぽんと抜けて転がっていった。


──のぞき女にあっても、かまっちゃダメだよ。

──知らない人にはついていかないって先生も言ってただろ。


 薄暗くなった帰り道を電灯が照らしている。キーンコーンカーンコーン。チャイムの音が追いかけてくる。

 見上げた空には夏の星座盤と同じ星が輝いていた。


「のぞき女……のぞき女ってなんのことだ?」


 頭の中に思い浮かべるより先に、同じ言葉が口から出た。

 また真っ赤な夕暮れの中、俺はさっきより随分と小さくなったブランコを前にしている。ひとつは空席で、もう一つには小学生のときの姿をしたなおとが乗っていた。


「わるいことしたらのぞき女がくるぞ。先生もみんなもそう言ってる。おれたちも気をつけないと」


 あどけない瞳がこちらを見上げてくる。あの女が現れた時のような恐怖は感じず、しかし胸を締め上げるほどの懐かしさが俺を襲った。


「のぞき女がきたら、どうなるんだっけ……」


 返事はなかった。目の前に広がっているのは少しだけ明るんだ俺の部屋の天井だった。

 随分と懐かしい夢を見た。幼少期の記憶を継ぎはぎにしたような、よくある夢だった。けれどよくよく考えてみれば、「のぞき女」なんて言葉は、今まで聞いた覚えがない。それが何を意味するのか、寝惚けたままの頭ではわからない。ひとつ分かることがあるとすれば、ネットの安眠方法も馬鹿にできないということだ。

 夢から覚めたばかりの今、少しだけ思い出せる夢の終わり。幼いなおとを見つめる俺の後ろに、誰かが立っていたような気がした。

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