第7話 命の献立
潮見亭の厨房には静かな緊張感が漂っていた。坂巻新兵衛は、またしても難題に向き合っていた。新たな宴席の依頼は、使者が置いていった黒い粉末を使うことを明確に要求していた。これを使えば、料理がどのような結果をもたらすのかはわからない。ただ一つ確かなのは、これまでのような「普通の宴席」では済まされないことだった。
「料理は人を癒し、喜ばせるものだ。それ以外の意味を持たせるべきではない……。」
新兵衛は自分に言い聞かせるように呟いた。だが、その信念が陰謀の中でどこまで通用するのか、確信は持てなかった。
翌朝、新兵衛は市場に足を運び、宴席の食材を選んでいた。魚、野菜、米――そのどれもが新鮮で、彼の包丁の下で輝きを放つ準備を整えているかのようだった。
だが、仕入れを終えて市場を出ようとした時、ふと背後に気配を感じた。振り返ると、そこには以前見かけた若い侍が立っていた。
「坂巻新兵衛殿、またお目にかかります。」
侍は静かに挨拶をしながら近づいてきた。
「またあなたですか……。今度は何のご用でしょうか?」
新兵衛は冷静を装いつつ問いかけた。
侍は少し微笑を浮かべた。「ただ一つ、あなたの料理を拝見したいだけです。それが命を救うのか、あるいは奪うのか……その答えを。」
「料理が命を奪う?」
新兵衛の眉がピクリと動いた。その言葉には、これまで彼が否定し続けてきた可能性が含まれていた。
侍は何も答えず、軽く頭を下げて去っていった。その後ろ姿を見つめながら、新兵衛は胸の奥にざわめくものを感じていた。
市場から戻った新兵衛を、仁吉が潮見亭で待ち構えていた。仁吉は険しい表情で新兵衛を迎えると、すぐに問いかけた。
「坂巻、また変な奴に絡まれたのか?」
新兵衛は市場での出来事を簡潔に話した。
仁吉は腕を組み、深いため息をついた。「そいつら、お前を試してるんだ。お前の料理がどれだけ力を持つのか、どれだけ人を動かせるのかをな。」
「料理にそんな力があるとは思いません。」
新兵衛は低い声で答えた。
「いや、あるさ。だからお前が巻き込まれてるんだ。」
仁吉は強い口調で言い切った。
新兵衛は黙り込み、厨房の方を見つめた。自分の料理が人の運命を左右する――それは信じたくない事実だった。
「坂巻、いいか? 最後に決めるのはお前だ。お前がその粉末を使うのか、それとも拒むのか。それで、誰かが助かるかもしれねえし、誰かが死ぬかもしれねえ。」
仁吉の言葉は鋭く突き刺さった。
「……分かっています。」
新兵衛は静かに答えた。その目には覚悟が宿り始めていた。
宴席の夜が迫ってきた。新兵衛は厨房で、静かに準備を進めていた。献立は決まっている。前菜にはアジの酢締め、主菜には鯛の焼き物、そして締めには炊き込みご飯。いずれも彼がこれまで培ってきた技術を凝縮した一品だ。
だが、最後の一品――特別な料理には黒い粉末を使うべきなのか、まだ決めかねていた。
「これは俺の料理ではない……。」
新兵衛はそう呟き、黒い粉末を手に取った。
その時、厨房の暖簾が揺れた。使者が現れ、静かに新兵衛を見つめていた。
「坂巻殿、準備は整っていますか?」
使者の声には、これまで以上に冷たさが感じられた。
「……料理はほぼ完成しています。ただ、この粉末を使うかどうかは、まだ決めかねています。」
新兵衛の言葉に、使者は微笑を浮かべた。
「その決断が、今夜の宴席を決定づけます。どうぞ慎重にお考えください。」
そう言い残し、使者は再び姿を消した。
宴席の開始が迫る中、新兵衛は厨房でひとり包丁を握りしめていた。彼の目には迷いが浮かんでいたが、その中にわずかな光が見えた。
「俺の料理は、誰かを傷つけるためのものではない。」
新兵衛は静かに呟いた。
黒い粉末を脇に置き、新たな一品を作り始める。それは、季節の野菜を炭火で焼き、特製の味噌だれで和えたシンプルな料理だった。素材の持つ力を最大限に引き出す一品――それが彼の答えだった。
「これが俺の料理だ。」
新兵衛は完成した料理を見つめ、静かに息を吐いた。
厨房での準備を終えた新兵衛は、座敷の方を見つめた。そこには、再び彼を試す人々が待ち構えている。そして、この夜の選択が、彼の料理人としての未来を決定づけることになる。
「俺の料理で、真実を証明する。」
新兵衛の目には、揺るぎない決意が宿っていた。
潮見亭の座敷には、いつもと違う緊張感が漂っていた。老人と侍たち、そして町の商人らしき男たちが座り、新兵衛の料理が運ばれるのを静かに待っている。それぞれの顔には何かを計りかねるような表情が浮かび、ただの食事会とは思えない雰囲気が座敷を包んでいた。
坂巻新兵衛は厨房からその様子を伺っていた。彼の前には、完成した料理が整然と並べられている。どれも季節の食材を使い、丁寧に仕上げた一品だ。それでも、新兵衛の視線は一つの器に向かっていた。そこには、使者が置いていった黒い粉末が収められている。
「これを使わずに、自分の料理で勝負する……それが俺の答えだ。」
新兵衛は深く息を吐き出し、最初の料理を手に取った。
最初に運ばれたのは、牡蠣の酢の物。新鮮な牡蠣を酢で和え、薄く切った柚子の皮を添えた一品だ。柚子の爽やかな香りが牡蠣の濃厚な旨味を引き立てている。
老人が箸を取り、一口食べる。皿を見つめ、静かに目を閉じた。
「……この酸味と牡蠣の旨味。実に見事だ。坂巻の料理は、素材そのものの味を引き立てている。」
老人の言葉に、他の侍たちも頷きながら箸を進める。
「酢の加減が絶妙だ。この牡蠣には一切の無駄がない。」
一人の侍が静かに呟いた。
新兵衛は厨房からその様子を見守りながら、次の料理の準備を始めていた。
次に運ばれたのは煮物椀。白子を裏ごしして豆腐に練り込み、出汁を効かせた椎茸の澄まし汁に仕上げたものだ。椀を開けると、湯気と共に椎茸の香りが座敷に広がる。
老人が箸で白子豆腐を崩し、口に運ぶ。「……これもまた見事だ。白子の滑らかさと出汁の繊細さが、互いを引き立て合っている。」
侍たちも椀を手に取り、静かに味わう。湯気の立ち上る様子と共に、彼らの表情は少しずつ柔らかくなっていく。
「この澄まし汁には、坂巻の心が込められているようだ。」
別の侍がぽつりと呟く。
新兵衛はその言葉を背中で聞きながら、次の料理を仕上げていった。
焼き物として運ばれたのは、甘鯛の塩焼き。塩麹に漬け込んだ甘鯛を炭火でじっくり焼き上げ、大根おろしを添えた一品だ。皮はパリッと香ばしく、身はふっくらと柔らかい。
老人が一口食べると、わずかに目を細めた。「この甘鯛……炭火の香りと塩加減が絶妙だ。皮と身の食感が見事に調和している。」
侍たちも次々と箸を進めていくが、一人の侍が箸を置き、新兵衛をじっと見つめた。
「坂巻殿、この料理には“例のもの”が使われているのか?」
侍の低い声が座の空気を一変させた。
新兵衛は厨房から出て、深々と頭を下げた。「いいえ。この料理には、私が必要と判断した食材しか使っておりません。」
侍はしばらく新兵衛を見つめた後、ゆっくりと箸を取り直した。「……そうか。それが坂巻の答えか。」
最後に運ばれたのは、栗と銀杏をふんだんに使った炊き込みご飯。薄口醤油で炊き上げ、香り豊かな秋の味覚が広がる一品だ。
座の空気が少し緩む中、客たちは静かにご飯を味わい始めた。老人が最後に箸を置き、ゆっくりと口を開く。
「坂巻新兵衛、お前の料理は見事だった。だが……今回の宴席が何を意味するのか、お前も感じているはずだ。」
その言葉に、新兵衛の胸がざわついた。
客たちが帰った後、厨房に戻った新兵衛は、脇に置かれた黒い粉末を見つめていた。それを使わずに宴席を終えたことに安堵しつつも、心の奥に不安が残っていた。
「これが俺の料理だ……だが、本当にこれで良かったのか。」
新兵衛は静かに包丁を取り出し、その刃を研ぎ始めた。
夜も更けた頃、潮見亭の戸が叩かれた。現れたのは、見覚えのない痩せた男だった。深い皺が刻まれた顔で、どこか不気味な雰囲気を纏っている。
「坂巻新兵衛殿、少々お話を……。」
男は静かに座敷に腰を下ろし、懐から一枚の文を取り出した。
「これは……次の宴席についての詳細です。そして……今回の結果が、間もなく明らかになるでしょう。」
その言葉に、新兵衛の胸に新たな波紋が広がった。
宴席が終わり、潮見亭の暖簾が下りた後も、坂巻新兵衛の心は落ち着かなかった。黒い粉末を使わずに料理を提供したものの、使者や侍たちの態度から、まだ終わっていないという確信が胸を締め付けていた。
その夜、新兵衛は包丁を研ぎながら考えを巡らせていた。その時、暖簾が再び揺れた。
「坂巻、いるか?」
低く響く声は仁吉だった。仁吉はいつも以上に険しい表情を浮かべている。
「どうしました、仁吉さん?」
新兵衛が問うと、仁吉は腰に下げた荷物を置きながら言った。
「妙な噂を耳にしたんだ。あの粉末……どうやら、江戸の裏社会で『人を操る薬』として取引されてるらしい。」
新兵衛の眉が動いた。「人を操る……?」
仁吉は頷き、続けた。「あの宴席でそれを使わせたがる理由が分かるだろう? 客の判断を鈍らせたり、感情を高ぶらせたりするためのもんだ。つまり、お前の料理を利用して、密約を有利に進めようとしてるってことだ。」
新兵衛は拳を握りしめた。「……やはり、俺の料理を道具にしようとしているんですね。」
仁吉は大きく息を吐いた。「坂巻、お前はあんなもんを使わずに料理を作った。それは正しいことだ。ただ、奴らはそれで諦めるような連中じゃねえ。次の宴席では、もっと圧力をかけてくるだろうよ。」
翌日、新兵衛は市場に向かった。仁吉の言葉を聞き、粉末の正体をより詳しく知る必要があると感じたからだ。
市場で、彼は薬草に詳しいと評判の老商人、伊三郎に会った。伊三郎はかつて、江戸で薬問屋を営んでいたが、今は隠居して港町に身を寄せていた。
「伊三郎さん、この粉末について何か知りませんか?」
新兵衛は懐から黒い粉末を包んだ布を取り出し、老商人に見せた。
伊三郎は粉末をじっくり観察し、その匂いを嗅ぎ、指先で少量をつまんだ。
「これは……」
伊三郎は一瞬言葉を詰まらせた。「『鬼の灰』と言われるものだな。」
「鬼の灰?」
新兵衛が眉をひそめる。
「江戸の裏社会で密かに取引されている薬物だ。摂取した者の体調や精神に異常をきたすことがある。一時的に興奮状態を引き起こすが、長期的には健康を害する……場合によっては死に至ることもある。」
伊三郎の声には重みがあった。
「……そんな危険なものを、料理に使わせようとしていたのですか。」
新兵衛は怒りを抑えきれず、拳を震わせた。
伊三郎は頷いた。「これを使えば、宴席での交渉に有利になるだろう。だが、それによって誰かが命を落とす可能性も高い。江戸の悪党どもがよく使う手段だ。」
その夜、潮見亭に再び使者が訪れた。彼は前回よりも明らかに険しい表情を浮かべていた。
「坂巻新兵衛殿、次の宴席の準備を進めておりますか?」
使者は抑えた声で問いかけた。
新兵衛は静かに答えた。「料理は私の信念に基づいて作ります。それ以上のことはお引き受けできません。」
使者の目が細くなり、声が低くなる。「坂巻殿、前回の宴席であなたの料理が見事だったことは認めます。しかし、今回はそれでは足りません。『鬼の灰』を使った料理を一品提供していただきます。それが条件です。」
「お断りします。」
新兵衛は即座に答えた。
使者は短く笑い、懐から紙を取り出した。それは潮見亭の借金の証文だった。
「これがどうなるかは……あなた次第です。次の宴席で結果を出していただければ、この証文は破棄されます。そうでなければ……潮見亭は消えることになるでしょう。」
使者の言葉は冷たく、明確な脅迫だった。
使者が去った後、新兵衛は座敷に腰を下ろし、深い溜息をついた。包丁を握りしめる手が、冷え切っている。
「料理を作ることが、これほど重く感じるとは……。」
彼は呟いた。
その時、仁吉が現れた。「お前、顔色が悪いな。何かあったのか?」
新兵衛は使者の脅迫を仁吉に打ち明けた。
「奴ら、ついに露骨に出てきやがったな。」
仁吉は拳を握り、怒りを露わにした。
「俺には、もう潮見亭を守る力は残されていないのかもしれません。」
新兵衛が言うと、仁吉は声を荒げた。
「そんな弱気でどうする! お前が料理を捨てたら、奴らの思う壺だ! お前の料理が人を救うんだろうが!」
その言葉に、新兵衛の中で何かが弾けた。
「分かりました、仁吉さん……俺の料理で、この状況を打破します。」
新兵衛の目には、再び料理人としての強い覚悟が宿っていた。
次回予告
黒い粉末「鬼の灰」の正体を知った坂巻新兵衛。料理人としての信念を守るため、そして潮見亭を守るため、次の宴席に向けて動き出す。しかし、使者の脅迫が新兵衛を追い詰め、陰謀の影がますます深まる中、彼はある大胆な決断を下す――。
果たして、新兵衛の料理は、陰謀を打ち破る武器となるのか、それともさらなる危機を呼び込むのか?
次回、「信念の包丁」――新兵衛が選ぶ道、その先に待つのは希望か、破滅か。
読者へのメッセージ
坂巻新兵衛の信念と料理人としての誇りが、今まさに試されています。「料理は人を癒し、喜ばせるもの」――その言葉が、陰謀の渦中でどう活かされるのか。そして、彼が守りたいものとは一体何なのか。
物語はいよいよ佳境へ。新兵衛の選択が、彼の運命をどのように変えるのか。次回もどうぞお楽しみに、彼の旅路を見守ってください!
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