第2話 江戸からの使者

潮見亭の開店から一週間が過ぎた。港町の漁師や商人たちの間で、坂巻新兵衛の料理は少しずつ評判を呼び始めていた。港から帰った漁師たちが夜な夜な寄り集まり、新兵衛の作る新鮮な魚料理を肴に酒を酌み交わす。その賑わいは、店の名を町全体に広めるには十分だった。


だが、新兵衛の心はどこか晴れないままだった。あの侍が残した紙片――「江戸より一週間後、使者が来る」という言葉が、彼の胸に引っかかっていた。追放された身でありながら、江戸の影が自分を追い続けている。新兵衛は、それが何を意味するのかを考えながらも、静かに待つしかなかった。


その日も潮見亭は客で賑わっていた。漁師たちがアジの塩焼きやイワシの酢締めを堪能し、商人たちが熱燗を酌み交わしている。厨房で手際よく料理を作り続けていた新兵衛の耳に、ふと店の外の気配が届いた。


暖簾が揺れる音とともに、一人の男が現れた。羽織をまとった中年の侍風の男で、手には革の袋をぶら下げている。その顔には険しい表情が浮かび、店内の喧騒とは対照的に、冷たい空気を纏っていた。


男はゆっくりと店内を見回した後、座敷には目もくれず、新兵衛の立つ厨房に向かってまっすぐに歩いてきた。客たちがざわめく中、男は無言のまま新兵衛の前に立ち、低い声で言った。


「坂巻新兵衛殿だな?」


新兵衛はその声に驚くこともなく、静かに頷いた。「はい、私が坂巻ですが……どのような御用でしょう?」


男は周囲に耳を貸さぬよう、さらに声を落として答えた。「江戸から来た者だ。話がある。ここでは人目が多すぎる、奥へ案内してくれ。」


新兵衛は一瞬考え込んだが、男の表情に真剣さを感じ取り、頷いた。「こちらへどうぞ。」


彼は男を店の裏手にある小さな座敷へ案内した。座敷は簡素な作りだが、薄暗い空間が二人の緊張をより際立たせている。


座敷に腰を下ろした男は、革袋から一通の封書を取り出した。それを新兵衛に手渡すと、静かに言葉を続けた。


「これは、ある御方からの密命だ。お前にしか果たせぬ任務だと言われている。」


新兵衛は封を切ると、中には短い手紙が入っていた。


「江戸城での宴席の再現を、秘密裏に行ってほしい。料理を通じて、ある者に意図を伝えねばならない。」


手紙には、料理の内容や宴席の規模についても簡単な指示が記されていたが、それ以上の詳細は書かれていなかった。


「……これは、どういうことですか?」

新兵衛は封書を握りしめながら使者に問うた。声には戸惑いとわずかな怒りが含まれていた。


「俺にも詳細は知らされていない。ただ、宴席を開く料理人としてお前が必要だということだけは確かだ。」

使者の声には迷いがなかった。


「私は江戸を追われた身です。そんな私を使って、何を企んでいるのですか?」


「詳しいことを問うな。それが命だ。」

男は鋭い目で新兵衛を見据えた。「だが、もしこれを断れば……お前の追放が、ただの処罰では済まなかった理由を、知ることになるだろう。」


その言葉に、新兵衛の胸の内がざわめいた。追放されるまでの経緯――あの毒草「鬼芋」を使った命令が、単なる一件の命令違反ではないことを暗に示している。


使者が立ち去った後、新兵衛は封書を手に座敷で静かに目を閉じた。江戸の影に再び囚われることになるかもしれない。それでも、自分にしかできない役割があるのだとしたら、それを果たすべきなのかもしれない。料理人としての誇りと信念が、新兵衛の中で揺れていた。


「料理を使って、人を動かす……それが俺の役目なのか……。」


彼は深く息を吐き出し、立ち上がった。そして、厨房に戻ると、包丁を磨き始めた。その刃が光を受けて鋭く輝く。その光の中に、新兵衛の覚悟が映し出されていた。


その夜、新兵衛は市場で仕入れた魚を前にして、江戸での料理を思い出していた。どんな状況でも、人を満足させる料理を作る。それが自分の使命だ。だが、今度の宴席は、それだけでは済まされないだろう。


店の灯りを消し、一人座敷に戻った新兵衛は封書を手に取り、再びその文を読み返した。その中に隠された意味を読み解こうとするが、答えは見えない。ただ、背後に迫る何者かの意図を感じ取るだけだった。


「またあの舞台に立つ時が来たのか……。」

新兵衛は静かに呟いた。手には、料理人としての道具である包丁が握られていた。


使者が去ってから数日間、坂巻新兵衛は一人、店の厨房で思案に暮れていた。封書に記された「宴席の再現」という指示。それは江戸城の御膳所で繰り広げられていた華やかな宴を秘密裏に再現し、その料理を通じてある人物に何らかの意図を伝えなければならないという意味だった。


「料理を通じて意図を伝える……」

その言葉は、新兵衛にとって馴染み深いものだった。江戸城の御膳所では、料理の盛り付けや味付けに隠された暗黙のメッセージが少なからず存在していた。だが、それは政治や権力闘争の一環であり、新兵衛はその道具として扱われることに苦々しさを覚えていた。


「今度も同じか……だが、誰が、何を望んでいるのかがわからない。」

新兵衛は包丁を手に取り、目を閉じた。これまでの料理人としての経験が、彼にわずかなヒントを与えるかもしれない。


新兵衛はまず、封書に記された料理の指示を丹念に読み直した。そこには具体的な料理名こそ書かれていなかったものの、季節の旬の食材を用いた献立を準備するよう記されていた。


「この季節なら、アジやサバ、ハマグリ……そして冬野菜が使える。」

新兵衛はメモを取りながら、頭の中で献立を組み立てていく。アジの酢締め、ハマグリの酒蒸し、冬野菜の炊き合わせ、そして締めには炊き込みご飯――それらの料理に込める意味をどう表現するかが問題だった。


「盛り付けの順番か……いや、味付けの濃淡か……。」

新兵衛は包丁を握り直し、試作に取り掛かった。厨房に響く包丁の音、炭火台から立ち上る香り。それらが、彼を過去の御膳所での日々に引き戻していく。


翌朝、新兵衛は市場に足を運んだ。港町の市場は相変わらず活気に満ちている。漁師たちの威勢のいい声が飛び交い、魚の匂いが辺りを包み込む。その中で、新兵衛の目は一際鋭かった。


彼が選んだのは、艶やかな光を放つアジ、身がぷっくりと膨らんだハマグリ、そして冷たい風にさらされて甘みを増した冬大根だった。それらの食材を手に、新兵衛は何度も考えを巡らせた。


「このアジは、酢締めにして身の旨味を引き立たせる……ハマグリは昆布出汁で蒸して、素材そのものの味を生かすべきだ……。」

市場で魚を見ていた仁吉が隣から声をかける。「おい坂巻、最近はまた真剣な顔をしているな。何をそんなに考え込んでる?」


新兵衛は笑って答えた。「ちょっと特別な料理を作る準備をしているんです。」

仁吉は首をかしげたが、それ以上は何も聞かなかった。


潮見亭に戻った新兵衛は、仕入れた食材を並べ、一つ一つの料理を試作していった。アジの酢締めは見事に仕上がった。ハマグリの酒蒸しも、昆布と酒の香りが引き立つ絶品だった。


だが、彼の心にはまだ不安が残っていた。これらの料理が、本当に依頼主の意図を伝えるための「答え」となるのだろうか。盛り付けに意味を持たせ、料理の順番で暗示を与える――それは簡単ではない。


試作を繰り返すうちに、気付けば夜も更けていた。炭火の残り火が赤く灯る厨房で、新兵衛は汗を拭いながら呟いた。


「これではまだ足りない……何かが、何かが足りないんだ……。」


その晩、店の戸を叩く音が響いた。珍しく静かな夜だったため、その音は一層大きく聞こえた。新兵衛が戸を開けると、そこに立っていたのは以前の使者とは別の人物だった。痩せた男で、粗末な着物を身にまとい、薄暗い目で新兵衛を見つめている。


「坂巻新兵衛殿、準備は進んでいるか。」

その男は低い声で言った。


「……まあ、なんとか。」

新兵衛は戸惑いながら答える。


「それなら良い。ただし、宴席で出す料理の一つを必ずこの中から選べ。」

男は懐から布包みを取り出し、新兵衛に手渡した。中には見たこともない乾物のようなものが入っていた。紫色を帯びたその乾物を見て、新兵衛の胸に一抹の不安がよぎる。


「これは……何です?」

「聞くな。ただ、使え。それが条件だ。」

男はそれだけ言い残すと、闇の中へと消えていった。


新兵衛は布包みを手にしたまま、その場に立ち尽くした。再び、あの江戸城での命令違反の記憶が蘇る。料理に毒を仕込む――そんな過去の悪夢が、またしても自分に襲いかかろうとしているのか。


翌朝、新兵衛は厨房に戻り、包丁を手に取った。布包みに入っていた乾物を見つめながら、彼は静かに心を決めた。


「俺の料理は、人を癒し、喜ばせるためのものだ。それを歪めることはできない……たとえ、どんな危険が待ち受けていようとも。」


新兵衛は、乾物をそっと脇に置き、いつものように魚を捌き始めた。その手には迷いがなく、ただ料理人としての誇りが宿っていた。


「この宴席が、俺の料理人としての試金石になる……それなら、それを全うするだけだ。」


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