2-8 釣果③
曇天の雲を抜けると空は茜色に変わっていた。まだ15時に行かないぐらいだと思っていた時刻は、雲の中に入っている間にずいぶん進んでしまっていたらしい。
様変わりしてしまった空の世界を見渡す。圧巻でしなかった景色は、こうして空に居座っている時間が長くなるに連れて、見慣れたものになっていた。
さっきまでこの場所には、人の心を一瞬で忘我させてしまうような感動があったことは間違いない。だがその感動は回数制限ありきのものだったようだ。
〈もしここが私の終着点であり、永遠の住居として暮らせと言われたらどうなのだろうか?〉
そして、ふとそんなことを考えてしまう。
地上にいた時は天国とはこういうものだというイメージがあり、まさにそのような場にいるはずなのだか。やはり私の魂が向かうべき先はここではない感じがする。
少々、疲れを感じ始めてきた。釣りはもうよかろうと、そろそろこの船を帰航の途に着かせたいのだが、そうもいかない事情がある。帰る家がないということがとても寂しい。私は物思いにふけて夕暮れの空を見つめていた。
⚪︎
日が暮れたというのに、やはり腹は減らんか‥‥。
それもつまらんな。
私は竿を引いてから、もう一度、投げ込む。
「ねぇ、お父さん、お父さん」
「ねぇ、ジジオヂ、ジジオヂ」
夕陽が目に染みる。そう言えば、私がこの時間に釣りをしているというのはあまりないことだったな。朝一番に出かけてというパターンが多く、夕暮れ時のこの時間にはいつも家に帰ろうという気分になっていた。夜釣りもしょっちゅうやった。だが出発する時は、この夕暮れの時間を妻と過ごして、ご飯を一緒に食べてからだった。
(妻に会いたいな)
私は強く寂しさを思った。
「お父さんお父さんお父さん! 聞いてる? チースチース!」
「ジジオヂジジオヂジジオヂ! ねぇ、聞いて聞いて!」
人がしんみりと寂しさを思い、黄昏ているというのに、またあのうるさい奴らだ。若い男と女が、今度は私の両サイドに座って騒いでいる。
「ジャジャン。お父さん、俺たち」
「イエーイ。ジジオヂ、私たち」
二人はそれが私にとっても重大な発表事でもあるかのように、勿体ぶって溜めを作ってから同時に言う。
「「結婚します!」」
ほう、そうか。
で、それがどうした?
「「と、言ってからの〜」」
二人は私の両サイドから顔を見合わせて、よく若いカップルなどがイチャついてそうするようにクスクスとやる。それで一斉の背で言う。
「お金かして!」
「お金ちょうだい!」
あたかもそれが私にとっても重大、かつ吉報であるかのような雰囲気を出して、このようなふざけた事を抜かしてくる。私が無視している間に意気投合して、何やら訳の分からない会話で盛り上がって、仲を進展させていた二人だったが、そこまで話が進んだらしい。
お前らの痴情のことなんぞ知らんわ。
「えっ、お父さんくれるの?」
「そうだよ。ご祝儀ご祝儀」
なんも言っとらんわ。
⚪︎
またもや記憶が曖昧なのだが、私は先程の曇天の雲の中で、この二人を釣り上げたのだった。新たな仕掛けが見事に機能して、凄まじい格闘の末、二人同時にである。
雑魚2匹とは言え、人間二人の重量である。十分に快挙と言えよう。釣り上げた瞬間は釣り師として興奮もあり、この釣果はかなり充足したものだった。
その感動を私は–––––––
「お父さんは俺たちを引き合わせてくれたからね」
「ジジオヂ、責任とって」
––––––––思い浮かべてみるのだが、あまり覚えていない。
ふむ、おかしい。確かに私は、あの時、二人を釣り上げてとても喜んだはずだ。
だがやはり、よく覚えていない。
それよりも強く記憶にあるのは‥‥。
––––––––そうだ。中学生ぐらいの娘と会っていたような気もするのだ。
ダメだ。おかしい。
正午過ぎに雲を抜けたあの時と同じく、私の記憶は錯誤しているようだ。
⚪︎
「アレ? くれないんだけど。お父さん、俺たちを祝う気ないの? それって、おかしくない? スジ通らないよ」
「このジジオヂはマジハゲ。釣り上げておきながら責任取らないとか、人生ナメてんのか」
こやつら懲りんな。また意味のない金銭を無心してくる。
もう死んでいるんだぞ。こいつらは金なんぞ何に使うつもりなんだ? 霊体は黒いし、言動は不自然だし、どうも理性の大部分が欠如しているように思える。それとも下の世界で彷徨いている霊には、私と違う何かがあるのだろうか?
「待って、大丈夫。上手く言って、ちょっともらってくるわ。爺婆に慈善でお金を貰うのは得意なんだ。あ、思い出した。そういう仕事をしていた記憶がある」
「マジ? オヂ、カッコいい❤️」
私にとっては30代ぐらいの若造に見えるこの男は、小娘にとってはオヂらしい。それで私と分けるために、小娘は私をジジオヂと呼んでいるようだ。
『オーレ、オレオレオレ〜♪ オレは〜♪ アンタの〜♪ ムスコ〜♪』
いきなり男は歌い出す。唐突に何事かと思った。
男は聞き覚えのある曲調で、私に向かって訳の分からんことを言ってくる。
「オーレ、オレオレオレ〜♪ さ、お父さん、俺はアンタの息子だよ。じゃ、お金ちょうだい。振り込んでおいてね」
貴様にお父さんなどと言われる筋合いはない。
頭がおかしい奴だとは思っていたが、ついにイカれたか?
さっき会った時よりも重症だ。
「アレ? ダメ? おかしいな」
「オヂ、それなに?」
「いや、俺、記憶が定かじゃないけど、生きていた頃は確か社長でさ。オレオレ言うだけで爺さん婆さんからお金をもらえるシステムを作って、慈善事業をしていたはずなんだけど。やり方忘れた。頑張って作った手順があったはずなんだけど」
「なにそれ。社長とかスゴイ。オヂ、イケメン。オデコの鼻くそカッコいい。やっぱ本当に結婚して」
「億を稼いでた気がする」
「きた。マジ、結婚」
「社長であり、できる営業だった俺が分析するに‥‥。あー、わかった。この爺さん、まだ頭が弱ってないのか」
なるほど。お前の生前の仕事が分かったぞ。
人のいい年寄りを狙って食い物にするとは。
このカスめ! 地獄に落ちろ!
「お父さん、ごめん。騙してあげるから、ちょっとボケてよ」
ほう。
お前のそのボケに私が突っ込めばいいのか?
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