第15話:不愉快な噂
いままで呼吸が止まっていたかのような、そんな息苦しさで目が覚めた。
勢いよく息を吸う。心臓が、ばくばくと脈動している。
暗闇の中で目を見開き、三宅はゆっくりと息を吸った。冷たい空気が気管を通り過ぎ、肺を冷ましていく。
それでも心臓はまだ、自分のものと思えないくらい、煩い音を立てていた。
恐ろしい夢を見た……そんな気がする。どこかから落ちたような……。
うっすらと記憶が蘇り、次第にその輪郭をはっきりとさせていった。
三宅は慌てて飛び起きると、闇をまさぐって眼鏡を手に取り、蛍光塗料で光る照明用のリモコンを操作した。まばゆい光に目が眩む。
しばらくして目が慣れてきて、時計を見ると、時間は二時を過ぎた頃だった。随分長い夢を見ていた気がする。
三宅は勉強机に座ると、机に散らかっていた紙とペンで夢の内容を書き出し始めた。
もっと穏便な起床案を求める、という美亜子への嘆願も忘れなかった。
その後は興奮のせいかあまり寝付けず、夢を見たような、見ていないような中途半端な睡眠状態で、気が付くと朝になっていた。
ひどい眠けを抱えた判然としない頭のまま、三宅は学校へ向かった。夢のメモと、美亜子に言われていたFREAMを持参することは、なんとか覚えていた。
学校に着くと、否が応でも寝惚け眼を見開く必要があった。
教室に入った瞬間、そこかしこで談笑していた生徒たちの視線が集まったような気がしたのだ。
なにか嫌な予感がする。肌が粟立つような感覚には、覚えがあった。
睡眠不足のせいだろうか、などと考えながら三宅は自席に座った。鞄を机の上に置く。
そのとき、何かを忘れているような、小さな違和感があった。右隣の席を見る。
普段、三宅は始業直前に登校するようにしている。その主な理由は、教室の滞在時間を減らしたいからだが、そうなると必然、三宅が教室に着く頃には、大半の生徒が登校を済ませている。
鮎川もその例にもれず、ここ二カ月は三宅が登校すると、ぼおっと席に座っていることが多かった。
いま、鮎川の席は空席だった。
「ねえ」
それほど大きくない声が、後ろの方から聞こえた。だがそのささやかな声で、教室の喧騒が、また一段、静まったように感じられる。
三宅はちらと後ろを見て、先ほどから感じていた緊張の主を、その場所に見出した。昨日の出来事を思い出して、心臓を握られたような苦しさが込み上げてくる。
そこには神代真紀を先頭にして、配下のように数人の女子生徒が立っていた。女子生徒の中には伏し目がちな鮎川の姿もあった。
神代は、まなじりを吊り上げ、こちらを睨んでいる。
「なに?」
早まる鼓動を抑え、三宅は平然を装って言った。
「四組の御舟さん、昨日救急車で運ばれたんだってね」
神代が肩を揺らしながら近づいてきた。
どこでそれを、と言いかけて三宅は口を閉じた。千紗都は学校で倒れたのだから、学校に駆け付けた救急車を多くの生徒が目撃しているだろう。
神代だけではなく、学校中の生徒に既に知れ渡っていても、何らおかしくない。
「……それが?」
「あんたの知り合いよね」
「そうだけど」
「みんな、御舟さんが黒い女の夢を見たんだって言ってる。本当なの?」
「知らないよ。聞いたことないからな」
ぶっきらぼうに言った。それから、神代の後ろの女子生徒たちに目線をやる。
いったい、こいつらは何を言いたいのか。あるいは、自分に何を言わせたいのか。三宅には見当もつかなかった。
「あんたの仕業でしょ」
「……は?」
わけがわからず、三宅は威圧的に訊き返した。
「だって、おかしいじゃない。あんたの数少ない知り合いの、沙百合と御舟さんが、二人揃ってこんなことになるって」
沙百合と言われて一瞬、誰の事か分からなかったが、すぐに鮎川の名前だということを思い出した。ようやく三宅にも、いったいどのような風説が広まっているか察しがついた。
「別に、鮎川さん自身はなんともないだろ」
「お兄さんだって沙百合だって、おなじことよ」
神代は語気を強めて言った。
「馬鹿馬鹿しい」
言いがかりも甚だしい。とうてい付き合っていられず、神代から顔を背けて、前に向き直った。
だが、神代は諦めた様子はなく、視線の先に回り込み、目の前まで詰め寄ってきた。
「やましいことがあるから、そうやって逃げるんでしょ? 昨日だって」
「違う。時間の無駄だからだ」
「時間って。あんたが時間を有効に使ってるとは、思わないけど」
鼻を鳴らして、神代が嘲弄した。
がたん、と大きな音を立て、三宅は椅子から勢いよく立ち上がった。驚いて後ろに下がった神代を、冷めた目で睨みつける。
「そうかもしれないな。時間、有効に使うことにするよ」
机に置いたばかりの鞄を手に取って、三宅は吐き捨てた。踵を返し、神代に背を向けて歩き出す。
振り返った先に居た女子数人は立ち竦んでいた。鮎川も、どうしたらいいのか分からないようで、視線を彷徨わせている。
その様子から、彼女はこの茶番に巻き込まれた立場だろうと察した。
彼女が自分に敵意を抱いてないようで、三宅はほっとした。鮎川には話しておくことがあった。
鮎川に近付くと、他の女子生徒はたじろいで道を開けた。鮎川は、目線を落として俯いている。
「鮎川さん。お兄さんの話を、今度聞かせてほしい。僕は……御舟千紗都を助けたい」
三宅は、鮎川の目をじっと見つめて言った。
顔を上げた鮎川は、何かを言いたそうな表情をしてから、再び俯いてしまった。
返事はもらえなかったが、鮎川はおそらく協力してくれるだろうと思った。神代の手前、態度を公にできないだけだ。
三宅はさっさと教室を出た。後ろから何か声が聞こえたような気がしたが、無視した。
あとは、個人的に鮎川に連絡を取ればいい。クラスの生徒で共有しているSNSで、鮎川の連絡先は分かっている。
早ければ今晩、無理なら明日だ。そうでなくても、今日は他にもやらなければならないことが沢山ある。
真っ先に向かったのは職員室だった。
職員室に足を踏み入れると、三宅は、教師陣が浮足立った様子で落ち着きがないように感じた。
糸をぴんと張ったように、空気が張り詰めている。始業が近いからだろうか、と些末な疑問を頭の隅へ追いやった。
室内を探して、始業のホームルームに向かおうとしていた担任の
担当科目は英語で、英語教師らしく普段は活発な印象を受けるが、三宅が体調不良を訴えると、いつになく顔を曇らせた。
「だいじょうぶ? ご両親に連絡して、迎えに来てもらう?」
「いえ、そこまでは。少しばかり保健室で休んでいます」
「校長先生からもお話があるけど……無理はしないでね?」
「はい。具合が悪くなれば帰ります」
麻美に連絡されて心配を掛けたり、行動が制限されるのは本意ではないため、家族への連絡は丁重に断った。
少し休むとは言ったものの、今日も含めてしばらくの間、まともに教室で授業を受けるつもりはなかった。
職員室を早々に辞すと、今度は保健室に向かった。
扉を開けると、窓際の壁に寄せた机に向かう養護教諭の姿が目に入った。目尻の垂れ下がった狸のような顔をしたおばさんだった。
三宅は体調不良を訴えて養護教諭をあしらい、ベッドで休みたいと伝えた。
先客はおらず、三つ並んだベッドはどれも空いていた。三宅は、一番窓際のベッドを選んで、レールに付けられたカーテンを引いた。
ベッドの脇に鞄を置いて内履きを脱ぐと、制服のまま寝転がった。
カーテンを引いて外界と遮断されたことで、ようやく人心地ついて、三宅は、ふっと息を吐いた。
朝だというのに、とてつもなく疲れている。脳裏に険しい顔の神代が浮かんできた。
神代に目の敵にされてしまうのは、昨日の時点で予期してはいた。だが、理不尽な因縁が結びついて、鮎川との協力関係に支障をきたすことだけは避けなければならない。
それ以外、神代は相手にする価値もないが、ある言葉だけは妙に納得してしまった。暢気に授業を受けているのは、時間を有効に使っているとは言わないだろう。
千紗都を助けるために時間を使うのが先決だ。そのためには、睡眠不足で朦朧とした頭では駄目だ。
美亜子との打ち合わせや、千紗都の母親からの聞き取りを見据え、しっかり休息を取らなければならない。
部屋の外からは、一年生が体育の授業を受けているのか、窓を隔たってくぐもった掛け声が聞こえる。
養護教諭がボールペンを動かす音が、催眠術のように眠気を誘った。
生徒たちが授業を受けている最中に、こうして寝ているのは不思議な気分だった。まるで夢の中にいるように、浮ついた心地がする。
そういえば、と、自分が窓際のベッドに寝ていることを思い出した。夢子が寝ていたのも窓際だった。無意識に彼女に誘導されているのかもしれないなと、静かに自嘲する。
彼女はいったい、どんな気持ちでベッドに寝ていたのだろうか。
その答えを探しているうちに、三宅は眠りの中へと落ちていった。
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