2 ファン
青年は、背丈があり、相応に肩幅も広く、しかし手足はスラリと細長い。
それなりの服を着れば、ファッションモデルとして雑誌に載せられてもなんら違和感がない体格だ。しかし、実際の青年の服装は、どこにでもあるストレートジーンズと、白いTシャツの上にベージュのシャツを羽織るだけの簡単なものだった。むしろ、その方が彼の爽やかで清潔な印象を引き立てていた。
耳に少しかかる黒髪は丁寧に整えられており、真ん中で分かれた前髪から、平たくツルッとした額がのぞいている。彼の顔は、家主がこうも豪快に扉を開け放つとは夢にも思わなかったのか、少し肩を上げて、小鼻のきわから耳の端まで赤らめ、困惑と恥じらいが混じった表情で老人を見下ろしていた。
すっかり、一目で嫌悪感を覚えるような格好の男を想像していた森山は、それとは対極の青年に対し、自分が言うべき言葉が見つからなかった。それどころか、端正な顔の若者が自分を見ていることに対し、後ろめたくなるほどだった。
しばらく居心地の悪い間を挟んだのち、苦しそうに「ええ」と呟いた。
「……どちら様でしょうか」
「あっ、あの、あのっ、あのですねぇっ」
「イタズラなら帰ってください」
「ああ待って! まっ待ってくださいお願いします、俺、ずっとあなたに会いたかったんです!」
森山が扉を閉めようとしたので、これまで言葉を詰まらせていた青年は、おもわずこの老人を脅すように大声で捲し立ててしまった。若々しい張りのある声は、閑静な住宅によく響く。
当然、森山は青年の大声に肩を跳ね上げる。見えないものに首を絞められ息が詰まった。近頃老人宅の財産を狙った強盗事件をよく耳にするので、青年が叫ぶ直前、もしかしたら自分は殴られるのではないかと全身の筋肉が硬直した。結果殴られることはなかったが、この硬直は青年が彼の前から完全に姿を消すまで解けないだろう。
森山は、はやる鼓動を落ち着かせようと静かに息を吐き出した。自分が彼に抱く恐怖心を悟られないよう、注意深く咳をする。
「失礼ですが、私たちに共通の知人でもいましたかな」
「いえ、先生は俺のことを知らなくて当然です! だって、俺はずっと先生の作品を読んできただけのファンにすぎませんから! それ以上でも、それ以下でもありません。あっ、突然先生なんてお呼びしてすみません。ですが、他にあなたをなんとお呼びすればいいのか分からず、そうするしかなかったのです。
本当はもっと早くお会いして、先生に直接作品の感想を伝えたかったんですけど、あいにく就職活動で時間が取れず、どうせならここに来る前に卒論も終わらせてしまおうと思いまして__」
「ちょっと待ってください!」
喉のつっかえが取れたように青年の口から言葉の波が押し寄せ、それに溺れまいと森山は声を張り上げた。彼の一言で、青年は案外簡単に口を閉じ、これから「先生」が何とおっしゃるのだろうか、そんな期待を込めた目でじっと見つめる。
森山は、その時初めて青年と視線が合ったことに気がついた。夏の日差しをそのまま閉じ込めたような、輝かしく、こちらが滅入ってしまうほど熱い眼差しだった。
「あの、突然何をおっしゃっているのですか。なぜ私を先生と呼ぶのですか」
「それはもちろん、あなたのファンだからですよ。尊敬の意を込めて、そう呼ばせていただきます」
「ただの老人に、いったい何のファンがつくと言うのです」
そう言うと、青年の方が森山の言葉の意味を理解できなかったのか、わざとらしく両腕を広げ、肩をすくめた。
「エッセイですよ!」
あまりにも堂々と言い放ったので、今度は森山が彼の言葉を理解できず、また苦しそうに「ええ」と呟いた。
「毎週水曜日と土曜日の午後三時に投稿されているエッセイです! あれほど素晴らしい作品を世に出しておきながら、どうしてお忘れになるんですか。ああそう、ほら! 今! ああ、今日も更新されているじゃないですか! 俺ね、更新される日は必ず事前にこのサイトを開くようにしているんですよ。新しいものを読む前に、先生の過去作を一から読み直すためです。心の準備とでも言いましょうか。おかげで先月までのエッセイは暗記してしまいましたよ。それでもずっと面白く読めるんですから、先生は本当に優れた大作家ですよ」
「やめてください。私は作家でも、先生でもありません。あなたがなぜそこまで熱心になるのか、皆目見当もつきません」
得体の知れない青年がますます恐ろしくなり、森山は眉を顰め、歯の隙間から言葉を押し出すように言う。すると、次は青年の方が森山の発言に驚かされて、首を森山の方に突き出した。
「なっ、なんてこと言うんですか! 行き過ぎたご謙遜は、時に読者をも貶す愚行ですよ。言い改めてください」
「貶すも何も、これはただの事実です。私は、あくまで個人的な趣味であれの投稿を始めたまでです。あなたのように狂気的なファンを作るどころか、誰かに読まれるために書いているわけではありません」
「そんなっ、そんなあんまりなこと言わないでください! 俺がこの時をどれほど楽しみにしていたか……! 先生のご自宅を調べるのにも、膨大な時間と労力をかけたんですよ!」
あまりにも自分勝手に回り続ける口が、不意になにか悍ましいことをこぼした気がした。
森山は、時間をかけて分厚く固くなった瞼を押し上げ、青年の両目に釘を刺すつもりでその顔を見上げた。
「……今、なんと」
「ああ、違うんです。そんな労力すら、俺にとっては尊いものです」
「そこじゃない! 今、調べたとおっしゃいましたか」
声の端を震わせながら尋ねると、青年は平然と「はい」と頷いた。森山が抱いている嫌悪感や恐怖心に全く気がつかない様子だった。
「一応すべての投稿に感想メッセージを送っていましたが、サイトのコメント欄では伝わり切らないと分かりきっていたので、これは是が非でも直接顔を合わせるべきだと思い立ったんです。俺はねぇ、自分が好きなものは、そっくりそのままの熱量を作者に届けるべきだと思うんですよ。それこそが、この世に素晴らしい作品を生み出してくれた方への恩返しであり、ファンの義務なんです」
青年が、森山の顔を見下ろして「先生には、ちゃんと俺の気持ちが伝わっていますか」と言った。
激しい眩暈が森山を襲った。世界が地響きを立てながらゆっくりと歪み、心臓には霜が立ち、体の端が痙攣している。無垢な顔で意気揚々と語りかける青年が、本当に異界からきた魔物に見えた。人間には理解できない言語を放って、自分を苦しめているのだ。
青年は、うんともすんとも言わない「先生」が不安になったのか、小首を傾げ、艶髪をサラリと揺らして、あの……とつぶやいた。森山は固まった口の筋肉を小さく動かし、はやる心音に怯えながらも、必死に声を絞り出した。
「いいですか……。いいですか。あなたの行いは、犯罪です。ファンだから、直接感想を言いたいからなどという理由で人の住所を調べ上げ、ましてや押しかけてくるなんてとんでもない。正直に申します。私は作家ではありません。あなたのようにモラルの欠けた方に何を言われようと、迷惑でしかありません。これ以上ここに留まるようでしたら、警察を呼びますよ」
「なぜです! 俺の何が迷惑だと言うのですか! ただ先生の作品が大好きで、これからも応援していますと、それだけを伝えにきたと言うのに!」
森山に拒絶されると思わなかったのか、青年はいかにも苦しく可哀想な顔をして、自分の心臓に手を当てて声を荒げた。彼が叫ぶたびに森山は息が詰まったが、ふと、どうせ老い先短いのだからここで死んでもいいか、と吹っ切れてしまって、背中から大量の汗が流れているのを隠して、毅然とした態度を装った。
「その全てが迷惑だと言っているのです。あなたの言動は常軌を逸していますよ。これで最後です。通報されたくなければ、いますぐ立ち去りなさい」
「あっ、先生!」
何を言うのが一番効果があるのか考えた結果、「執筆の邪魔です」と冷たく言い放てば、青年がわずかに息を呑んだのがわかった。
森山は、彼が何かしでかす前に、わざと大きな音を立てて扉を閉めた。そして、ここに引っ越してから一度もかけたことのないドアチェーンをかけた。一度はずし、またかけ、それをあと二度繰り返した。その時の耳を裂くような金属音が、扉越しに青年の元に届き、自分が彼を拒絶していることを伝えてくれると信じていた。
ドアスコープが目に止まり、今さら、玄関を開ける前にこの穴を覗いておけばよかったと悔いたが、どこを見ても真面目で清潔感のある青年だったので、結局同じ結果になっただろうと、青年と自分に対して苛立たしさを覚えた。しかし、今となってはスコープを覗くのも恐ろしく、しばらく扉に耳を当てたままじっと息を潜めた。
その状態が何秒か、何分か経ち、彼の太ももがブルブルと震え始めた時、ようやく青年が立ち去る足音が聞こえた。それでもまだ玄関から動かず耳を押し当てていたが、老いた大腿四頭筋に激しい痛みが走った時、ついに森山は床を這いつくばりながら玄関を後にした。
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