第2話 Bサイド
午後三時。中央線に乗った。
まだ車内はすいている。
作業所の仕事は昼には終わって、病院で面会してから帰ってもまだこの時間だ。
乗り込んだ電車の窓からは、薄い陽ざしが差し込んでいる。
いつものように西新宿の街並みを見る。
ビル群を見て、住宅街を見て、ホームセンターの立体駐車場を見る。
そんなこだわりを持っているのはおかしいかもしれない。
でも、これは決まっていて、しないと、いけないのだ。
不安はたくさんある。
例えば、騒がしい場所にいられない、
強い光が見られない、
衣類がチクチクして気になったり、
それが起きるとそれだけでこわくて頭がいっぱいになってしまう。
頭がいっぱいになることを不安というのだけど私の不安と、普通の人の不安は重さが違うのだ。普通の人は不安で生活が立ち行かなくなることは無いそうだ。
この前、作業所で、同僚の田中さんが横に座った、田中さんは私より少し若い細い男の子で、しゃべれない。
田中さんと私は、会議テーブルに横並びに座って、生地をこねていつものように成型していた。
その日は、机の上が材料が多くて 二人の距離が近かった。偶然、うでが触れた。
それだけだったのに、急に汗と涙が止まらなくなって喉の奥が苦しくなった。
呼吸ができなくなって口から「ダメダメダメ」という声が出ていた。
汗と涙が止まらないのに、どこか静観している自分もいて、
何も思っていないのに出る声というのは動物の鳴き声みたいだな、と頭の隅で傍観していた。頭蓋骨の裏あたりがどんどん冷たくなっていった。
何が起きたかわからなかったが、意識が戻ったあと、迎えに来た母に、ケアマネの人が「パニック障害」と言っていた。
帰りの車で母が、「いやなことはちゃんと先生に言わなきゃだめよ」
と言った。そんなこと言われても困る、誰になんて言ったらいいのかわからない。
でも反論する言葉が思いつかなくて「うん、ごめん」と言った。
以前、別の作業所で変なにおいのする子に「あんたと一緒に作業するのは嫌だ」
と言ったら「失礼なこと言われた」「神経質すぎる」「相手が傷つくちくちく言葉はやめてね」と言われた。どの辺がちくちくなのか腑に落ちなかったが、しばらく作業所をお休みして、そのあと、別の場所に受け入れがあって私は異動になった。
客観的には、私がおかしなことを言ったらしい。
臭い女は私と作業した後、病んで欠席がちになったそうだ。
どうやら臭い女はかわいそうで私はかわいそうではない。
とにかく失礼なことは我慢しなければいけない。
母が入院してから、私は中央線を使っている。
空いている車内で私はホームセンターの立体駐車場を見ていた。
駅に付き、乗客が乗ってくる。
すいているのに私の隣にピタリと男性が座った。
たくさん席はあるのに…。
右の肩が男性とピタッと触れていて急に息が苦しくなった。
立ち上がって逃げ出したい気持ちになったが、
私が今立ったら、失礼かもしれなかった。
隣にいる人が不快になるのではないか、怒りだすのではないか、と急に不安になった。隣に人が座っただけで移動なんてお前はなんて「神経質」で「異常」なのだろう。
私の周りだけが酸素が薄い。
でももう少ししたら次の駅で、隣の人が降りるかもしれないし、もうすこし我慢できれば大丈夫になるかもしれない。
下を向いて、相手に変に思われないように口をおさえて呼吸した。
そう思っていたのに、口からは例の鳴き声が出ている。唸り声が小さく続く。
顔を下に向けているから誰からも見えてはいないが、さすがに不審に思われないだろうか汗と涙がダラダラと垂れてきた。前に抱えたリュックがしめっている。タオルを出したい。こんなに苦しいのに、一般人からおかしな奴と思われる方が怖かった
ようやく駅に付いた。私の期待とは裏腹に隣の男性は少しも動かない。
アナウンスの後。ドアが閉まった。
車内の酸素がまた薄くなった気がした。
次の駅まで20分くらい。もう逃げられない。
そう思った瞬間、ドン、と、私の腕が隣の男性の腿に振り落とされた。
『え』
男性は何が起きたのかわからない、という顔をした。
そのときはじめて隣の男性の顔を見た。ごく普通の薄い中年のおじさんだ。
そのあと、悲鳴が聞こえた。男性がではない。乗客のだれかの声だ。
私の右手にはボールペンが握られていた、そのペンは男性の太ももに深く刺さっていた。
悲鳴を聞きながら、あーあ、と思った。
椅子からずりおちたおじさんが私を見上げている。
しっかり刺さったペンを見て、ドラマで見た糖尿病の人の注射みたいだ、と思った。
そしてなぜだか、作業所の田中さんを思い出した。
あのとき田中さんを殴っている最中、しゃべらないひとも悲鳴はいっちょまえにあげるんだなあなどと思った。
「いやなことはちゃんと言わなきゃだめよ」と母は言っていたけど、
でもなあ、そういうタイミングが 一番よくわかんないんだよな。
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