第5話
「なぜ梅川さんは走るんですか」
礼子は騒がしいファミレスの片隅で美佐子に尋ねた。ドリンクバーのアイスティーを前にした梅川は考えながら髪を束ね直した。
「大会のためかな」
「大会ですか」
出たところで梅川の大学レベルでは優勝することもできないし、入賞すらできない。だいたいトップ選手は関東に行くので、関西でトップに入ったところで見向きもされない。
「考えてることわかるで」
美佐子は意地悪な笑みを浮かべた。思わず礼子はすみませんと頭を下げた。
「わたしも走る意味わからない」
「好きなんやろ」
「好きでした」
「今のわたしらはトンカツ好きやからって毎日食べてるようなもんやん?ちなみにわたしはトンカツ好きなんよ。何好き?」
「しょうが焼き」
「学食のやろ」
「はい。おいしいですよね」
「おばちゃん自家製の味つけらしくておばちゃん以外はできんらしいで」
「レシピないんですか」
「あるみたいやけど、同じように作っても違うらしいわ。漬物みたいなもんかな」
「漬物?」
「漬ける人で味が変わるらしい。聞いただけなんやけどね。漬けたことないし」
「今のわたしは記録のために走ってるよ。たいした記録にはならんけどね。大会のためなんてのは建前やな。こんなことは高校に入る前に考えとかんといかんのよね。まずわたしたちの高校は高校駅伝に出られないんだもんね」
「でも陸上のためだけに市内の高校まで行くのもの考えられませんでした」
「一人で記録伸ばすしかないのよね。わたしも中学生までは楽しいと思ってたけど。高校は勉強もあるし、モチベ保つのがね」
美佐子はグラスの底に残ったアイスティーをストローで吸い取った。
「記録はどうなの?」
「上の下みたいな」
「そうか」
「中学生のときのチャンス逃したことが悔やまれるんですよ。今も。梅川さんみたいに大学でする自信ないし」
「入れば何とかなるわよ。やること変わらないんだけどね。だからわたしは高校から成長してないなとか思うわけよ」
「練習のための練習みたいな。わたしは門が閉ざされたみたいな気持ちです」
「辞めたいとか?」
「今のところはまだ。でも来年で辞めようかなとか。普通に勉強して受験するか。でも受験の自信ないし」
「しがみつくか?」
「あ、それ」
「どれ?」
梅川は後ろを向いた。
「しがみついてる気持ちです」
「これから就活あるからさ。でもラストまでやんなきゃとか思うのよね。途中で走るの辞めたときみたいな気持ちよ。意地よね」
「高校のときはどうでしたか?」
「伸びたのよ。走るだけでね。毎日走るだけで伸びた。で、近畿大会で見えた。これは話してもわからないかもね。あ、これかも」
「どれですか」
「形而上長距離論」
「ケイジジョウ?」
「国体に出られるかどうかのときスタートする前に見えたの。何かね、これ言えば緊張してただけじゃないかと言われるんだけど」
「教えてください」
「すべてが消えたの。あるのよ。隣にも人はいたし、スタンドもあるし、スターターの音も聞こえたし。でもわたしはここで何をしてるのかという気持ちね。で、国体に出られた」
「違うと思うんだけどね」
礼子も小学生のマラソン大会ですべてが消えて転がる雪の結晶を見たことを話した。
「たぶん興奮状態だったんじゃないかと言われるもんね。反論できないんだけどね」
「よくてランナーズ・ハイとか」
礼子は美佐子と話してよかったと思えた。記録が伸びないとか言われ、本人はどう思っているのかはわからないが、確実に言えることは美佐子は彼女の周囲が「見ている」ことを「見ていない」ということがわかった。もっと別のこと、礼子にとっても言葉にできないことを追い求めているのだと知ることができた。
「記録なんて伸びない。たぶんイカロスは太陽に近づいてはいけないのよ。近づいてはいけない記録に近づこうとしたら命を失うの」
「そうなんですか」
美佐子が想像していた以上にポジティブだということもわかったし、逆に自分がネガティブなことを知った。常に前へ前へと走っている自分は何かに押されていたのかもしれない。
「やれることやってみたら?せっかく県営施設で練習してるんだし。メカニズムとかさ。ギュウッと絞れるだけ絞ってみたらどうよ」
「また見れましたか?」
「わたしは見えてない。でもさ、陸上以外でも見れる気がするのよね」
美佐子はドリンクバーで新しいアイスティーを入れてきた。鍛えた体にジーンズが似合っていて、野暮の高校生とは違って見える。
「例えば必死になったときとか」
「必死になれば見えますか」
「違うんだな。必死になっているときのふとした拍子に見えるような気がするのよね」
美佐子は細い指をテーブルの紙ナプキンの隙間にスッと入れてみた。
「こうスッとね」
礼子は美佐子の指がナプキンを動かすのを見ていと。前に見たことがあるというデジャヴというものはあるが、礼子の見たものはデジャヴの正反対のようなものだ。これから起きるか起きないかのスレスレの未来なのかも。現在と未来との隙間を見ていたのかもしれない。
「今日は時間ある?大学来てよ」
「そう。三回生だから車で行けるの。陸上部も練習してると思う。見てみない?」
「いいんですか」
「いいわよ。近所のおじいさんもお孫さん連れて来てるくらいだから」
礼子は母に連絡してから、美佐子の通う大学まで車で連れて行ってもらった。大学は山を開拓したところにあるので、駐車場は近くにあるスーパーよりも広く、グラウンドは四百mトラックと投てきグラウンド、球技グラウンドが日差しの下で燃やされていた。
「暑いわね」
体育館は三つあるとのこと。ここは一階はバスケット、二階はバレー、三階はテニスコートなど案内された。体育館と体育館の隙間に見えるのが室内プールだということだった。
「でかい」
「でしょ?」美佐子は体育館の一つに案内してくれた。「ここはトレーニング施設よ。うちの大学はスポーツ科学も研究してるからね。運動の解析とかね。実はわたしはこっちに興味持っててね。記録というか怪我しないように」
「怪我……」
「足の甲が慢性の炎症なの」
☆☆☆☆
「高校のときには断続的に怪我してたんだけどね。ひどいときは踏ん張れない。足の甲の指に繋がる骨あるやん」
「わたしさ、中学生とか高校生が整骨とか通いながら競技するの間違えてると思うねん」
たかせけんきゅうしつ
ひらがなで掲げられていた。
「お、美佐やん。どうしたん?」
若い黒縁メガネの男がいた。これはマラソンを趣味にしているなと思った。
「後輩連れてきました」
「試してみる?」
何を試すの?
礼子は不安定な台の上に立たされ、ルームランナーで走らされそうになったとき、美佐子が止めた。私服なのに汗だくになると。
「楽にして」
礼子は数枚のモニタの前にある丸椅子に腰を掛けた。美佐子が付き添いのようだ。
「重心が右に歪んでるかな。左の足が遊んでるんやないかな。とまあ、こんなことしてるねんよね。このままやると薬指付近に負荷かけすぎることになるで。細い骨やからな」
高瀬は、
「呼吸測定してみる?」
「センセセンセ」
「あ、ごめんごめん」
「モルモットやないんですから。聞きたいことあるから来たんですよ」
礼子は話しにくい。どうして走るんですかなど聞きたくはない。人それぞれだ。礼子は小学生のときのことを話した。高瀬は何かのデータを記した紙を渡してきて裏に「ぬ」を書いてと話した。できるだけ早くたくさん書くようにと言われ、美佐子と一緒に書いた。二人とも途中で「ぬ」がわからなくなった。
「これやないんか?でも雪の結晶が転がって見えたのはおもしろいな」
「ランナーズ・ハイですか」
「んなわけない」高瀬は冷蔵庫から麦茶を出してきた。「たぶん何かに気づいたんやな」
「マラソンとは関係ないと思うで。僕も知識としてはあるけど体験はない。これ、何?」
高瀬はペンを見せた。ペンと決めた上でわざと疑問も持たないように言っている。
「なぜならペンという共通認識がある方が話はしやすいから決めたにすぎん。たぶん二宮さんは共通認識に疑問を覚えたんやないかな」
「なぜうちはあんな経験したんですか」
「わからん。でも可能性はあるな」
高瀬の研究室を後にした。美佐子は練習に来るとき、記録や大会のことではなく別のことを考えていたことがわかった。いつも高瀬研究室でのことを考えているのかも。子どもたちがケアしながら記録に挑んでいるのは変だということに挑んでいるのだ。礼子がマラソン大会で経験したことを今の美佐子は経験している。
「常識を疑え」助手席で呟いた。「梅川さんはうちらと同じように走ってるように見えるけどそうやないんですね」
「何か難しいこと考えさせてしもた?」
「わたしは高校までのことしか知らないまま藻掻いていました。頭では科学トレなんてのはわかっていたんです。でも今日ちょっと見せてもろたものだけで知識は吹き飛びました」
「わたしは触知て必要やと思うねん」
「しょくち?」
「触れて知ること。わたしも高校のときまでは調べてみたよ。でも頭でっかちになってたんやなと思う。たぶん今もやけどね」
「実力の使い捨てなんてどうなんやろ」
「世界の潮流が使い捨てやねん。例えばフィギュアとかもそうやし、新体操なんてのも低年齢化してるやん。QOL知ってる?」
「生活の質ですか」
「現役引退したプロやオリンピック選手とか追跡調査してるんよ。わたしやないけど。自己破産とかおるんよね。怖いんよ。わたしら大人が消費してるんやないかなと思うねん」
「ここでやめたら諦めたと思われるし」
「そういう雰囲気にしてるんよ。もうこれは大人のわたしらが悪いねん。二宮さんは小学生のときにすべてのもんが壊れて意味がなくなる世界を体験したんやろ?その世界ではまた一つずつ新しい意味を決めていかんとあかん」
「面倒ですよね」
「そやねん。だから普通の人は現実に戻ること選ぶんやないかな。楽やもん。ハンドル、タイヤ、道、高速道路。決めてたら楽やん」
「うちには目標が消えた。誰かがぶら下げた目標はあるかもしれんけど」
「だからチャンスやないのかな。勢いだけで駆け抜けてきた世界から離れるとき」
「秋に記録会があるんです。うちとこは高校対抗駅伝は出られないけど、雪の京都走りたい」
「京都やなくて雪の京都なんや」
「手伝うで。卒論のために。これから二宮さん追いかけようかな。児童から思春期にかけてのアスリートの心理的変化。環境の強迫」
美佐子は一人で納得していた。
それから礼子は夏から秋にかけて部活動や合宿などトレーニングを繰り返した。整体師のケアも必須で万全を期していたが、どうしても県内での自分の立ち位置もわかるようになる。
もう雪の結晶は見れそうにない。
十二月、新聞社主催の全国高校駅伝を観ていた。塾のセンセは観ているのかなと考えた。
「受験とかで忙しいんやろうね」
「受験かあ」
美佐子から市民マラソンに登録したと連絡が来て、礼子は陸上部と野球部は強制参加だと返した。もし終わったら焼肉食べに行こうと誘われたので、母と一緒に行くことにした。そういうわけで市民マラソンに参加したのだ。
美佐子に、
「補欠の補欠でした」
と送信した。
「もう一年あるやん」
「さすがに三年生の秋まではどうかな」
何となく気持ちは晴れないまま、学期末の三者面談を終えて冬休み、クリスマス、大みそかと正月で年を越した。
一月に入った。
リビングのテレビでは、都道府県対抗女子駅伝が流れていた。礼子の住んでいる都道府県はほとんど映らないまま、下から数えた方が早いところでゴールした。
こんなもんかな。
突然、ランナーの姿もアナウンサーの解説もテレビも部屋も礼子の前にあるのだが、あのときと同じく気配が消えた。まさに小学生のときにゴールしたときと同じだ。何もかもが形だけになる。すべてから名前が消えたような思いがした。テレビはテレビに似たような箱でドアもドアなのか。自室へと入ると、ベッドも窓も勉強机も、参考書も同じだ。たった一人残されたのかもしれない。ベランダに出た。重苦しい空から雪が降りてきた。礼子は自分が世の中にポツンと立っている気持ちがして涙が出てきた。
川も山も言葉にできない。
サンダルはサンダルなのか。
わたしはわたしなの?
誰がわたしだと決めたのか。
空からは結晶が落ちてきている。そんなはずはないのに雪が結晶に見えていた。
飛べるような気がした。
ふと気づいた。
山はいつもの山、川はいつもの川、ベランダの柵は錆びていて、サンダルは褪せていた。
誰かに話すのがもったいない。
二月には市内の市民マラソンに出て、男子陸上部の選手に負けて二位でゴールした。
「ペース速すぎん?」
美佐子が言うので、
「彼に着いていこうかと」
野球部の同級生がいた。
「あの子はもたんで」
「五kmくらいまで」
途中まで美佐子もいた。彼女は五km以降からは風除けになってくれたが、おばちゃんは練習不足だということでペースを落とした。
「ごめんなさい」
「ありがとう」
ゴール後、
「見えた?」と美佐子。
「今回は見えなかった」と笑った。「美佐子さんは見えた?」
「焼肉が見えた」
二人でケラケラ笑いながら、二等賞にドラッグストア提供のテーピングなどの入ったケアセットとなぜかヘラブナ用の釣竿をもらった。
なぜあんなものが見えるのか?
たぶん、
「生きる世界なんてたくさんあるんたぞ」
と教えてくれてるんだ。
神様が。
ん?
悪魔?
道標がいるとき、また見えるはずだ。
おわり
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