第5話  雪を織る人



村では、祖母のことを「雪を織る人」と呼んでいた。


大きな織機に向かう祖母の指先は、八十を過ぎた今でも驚くほど繊細だ。真っ白な糸を紡ぎ、透明な糸を織り込んでいく。そうして出来上がった布は、まるで雪の結晶のように光を透かし、風に揺れるたびに淡い虹色を放つ。


「この布を織れる人は、百年に一人しか生まれないんだよ」と祖母は言う。「そして、その人にしか見えない糸を使うの」


私は小さい頃から、祖母の仕事場で過ごすのが好きだった。誰にも見えない糸で、目に見える布を織る。その不思議な光景に、心を奪われ続けてきた。


今日も祖母は黙々と織り続けている。織機を踏む音が、静かな木造の家に響く。窓の外では、今年最初の雪が降り始めていた。


「あと三日」


突然、祖母がつぶやいた。


「私の仕事は、もうすぐ終わるの」


その言葉に、私は思わず息を呑んだ。確かに祖母は年老いていた。でも、まだまだ元気なはずだ。


「おばあちゃん、何を言って」


「違うの」祖母は優しく微笑んだ。「私の役目が終わるの。次は、あなたの番」


そう言って祖母は、織機から立ち上がった。今まで見たことのないような、凛とした表情。


「実はね、私たちの仕事は、冬の訪れを作ることなの。この布で空を覆うと、雪が降り始める」


私は言葉を失った。幼い頃から見てきた祖母の姿が、突然違って見えた。


「でも、なぜ私が…」


「あなたにも見えるでしょう?この透明な糸が」


確かに私には、祖母が空中から掬い取るように紡ぐ透明な糸が見えていた。それは当たり前のことだと思っていたのに。


「明日から、編み方を教えるわ。冬が近づいているもの」


その夜、私は不思議な夢を見た。大きな空の下で、無数の透明な糸が舞い落ちてくる。その一つ一つが、雪の結晶に変わっていく。


翌朝、祖母は約束通り、私に織り方を教え始めた。透明な糸の集め方、織機の踏み方、布を織る時の呼吸の仕方まで。


「最後に大切なことを教えるわ」と祖母。「この仕事は、決して重荷に感じてはいけないの。冬は厳しいけれど、春の訪れに必要なもの。雪は自然からの贈り物。私たちは、その贈り物を形にする手伝いをしているだけ」


三日目の夕暮れ、祖母は最後の布を織り上げた。それは今まで見た中で最も美しい布だった。


「さあ、一緒に空に投げましょう」


私と祖母は、山の頂に布を持って上った。夕陽が沈みかける中、祖母は布を大きく広げ、風に託した。


布は風に乗って、ゆっくりと舞い上がっていく。そして空いっぱいに広がると、無数の雪の結晶となって、静かに降り始めた。


「きれい…」


私の頬に、冷たい雪が触れる。見上げると、祖母の姿が少し透明になっていた。


「おばあちゃん!」


「大丈夫よ。私はこれから、雪と一緒に旅をするの。でも、また会えるわ。冬の朝、最初の雪が降る時」


祖母の姿は、雪の中に溶けていくように消えていった。けれど不思議と、悲しくはなかった。


今、私は織機に向かっている。指先に絡む透明な糸。踏み板を踏む音。織り上がっていく白い布。


窓の外では、新しい冬の訪れを告げる雪が、静かに降り続いていた。

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