ホメオスタシスの定理
うつぼ
ホメオスタシスの定理
物事には必ず原因があり、その理由がある。原因と理由の探求こそが困難な状況を打開するために必要なことだ。人類は思考と熟考を重ね、進化してきた。それが今の人類なのだ。
二〇八九年、我が家の台所で起こっていること。信じられないだろうが、目の前にあれがいる。あれが。
Gである。
そう、Gとはゴキブリのことだ。
名前を呼ぶのもおぞましい。その生物種は驚異的な身体能力を誇る。LED蛍光灯に黒光りする羽が不気味な影を描き、縦横無尽に滑空する。黒き稲妻の如きスピードで床を滑っていく。平坦にデザインされた胴体は僅か数ミリという極狭な隙間も苦もなくすり抜ける。スパイク棘を備えた脚で天井を走るという重力を無視した荒技も簡単にやってのける。時折脚を止め、触覚を動かす仕草、可愛らしくもなく気色悪い。
人類を凌駕する身体能力を持つGは恐竜が覇者として君臨した時代より生き残り続けている。億の時間を進化も退化もなく、生き残るシーラカンスは生きた化石と賞賛されるが、Gは忌み嫌われる。
二〇五九年、当時の厚生大臣が宣言し、国民は歓喜の声を上げた。有名なG絶滅宣言である。「この世界からあのおぞましいGがいなくなりました。国民の皆様、どうかご安心ください」、大臣の名前も思い出せないが、自分の成果であるかのような誇らしげな笑顔が記憶に残っている。
人類はあの姿をもう見ることはないと安堵の息を漏らす。あのおぞましいと大臣が表現したようにGの存在自体が人類には許せない。Gを忌み嫌い、その姿が目に映るだけで不快なのだ。
Gが持つ驚異的な身体能力の最たるものはいかなる環境下でも生存しうる環境適応性と爆発的な生命力だ。
脳を巨大化させ高次脳機能を得た人類は猿からヒトへと進化を果たした。その脳を武器に忌み嫌うGを殲滅しようとする。ただ不快だから。いや、生物種としての劣等感がそうさせたのかもしれない。
ありとあらゆる残虐なGの殲滅方法、ゴキブリホイホイ、殺虫剤スプレーから毒餌剤、全て人類の高次脳機能で考えられたもの。毒餌剤など残虐極まりない殺し方だ。嗜好性の高い匂いでGをおびき寄せ、毒餌を食らわせる。Gの仲間の死骸も食べるという習性からその亡骸が毒餌となり、子々孫々まで殺し続ける。毒餌を設置された領域では必然的にGがいなくなる。その予定だった。
しかし、Gの爆発的な生命力、繁殖サイクルの速さが毒餌による殲滅力を凌駕する。Gは毒餌を喰らい、その成分情報を遺伝子上に刻み、体質を変異させた。毒耐性の高いGの誕生。これは進化だ。一方、頭蓋骨という物理的な外形により制限された人類は脳をこれ以上巨大にはできず、進化の歩みを止める。
あらゆる環境に適応でき、短期間で耐毒性を得るという進化を見せるGが進化を止めてしまった人類により絶滅させられるなどあり得ないこと。それ故、Gが絶滅した理由は他にあった。
陰湿な研究室とヨレヨレの白衣が似合う学者がテレビ画面で場違いな脚光を浴びながら言葉を綴る。
「ガイア理論によるホメオスタシスがGを絶滅させた」と。地球を巨大な生命体と考えるガイア理論。地球上の生物は地球の意志により存在を許されている。地球にとって必要であるか、不必要であるか、それがガイア理論の礎。たとえ人類であっても不必要な存在だと判断されれば、簡単に絶滅の道を選択する。それほどまでに地球という生命体は巨大な力を持つのだ。
ホメオスタシスとは生体恒常性。その生体が生命機能の危機を感じた時、特定のホルモンを分泌する。分泌されたホルモンは受容体と結合し、生命機能が維持される。地球がGという生物種に危惧を感じたからホメオスタシスを実行した。ただし、分泌するのはホルモンではない。Gを滅ぼすべく刃だ。
刃の正体はバキュロウイルス。
バキュロウイルスとは節足動物に寄生し、感染領域を広げるウイルス。ゾンビウイルスとも言われる。
バキュロウイルスは宿主の遺伝子情報を複製し、その行動まで支配する。感染した芋虫は操られ、陽光当たる葉の上まで登る。陽光の下、芋虫は死に絶えるが、死骸の中でバキュロウイルスは増殖を続ける。バキュロウイルスが感染するのは同一生物種のみ。他の生物には感染しない。死骸の中で増殖し、鳥などの生物を媒体とし、ひたすらに感染を繰り返し、領域を広げていく。まるでそれが生きる目的であるかのように。
Gにしか感染しないバキュロウイルスがこの地球に生まれた。芋虫と同じくバキュロウイルスに感染したGはその遺伝子情報が複製され、行動を支配される。冷蔵庫の隙間からGは緩慢な動きで姿を現す。あの驚異的な身体能力は見る影もない。人類はGのおぞましい姿に怯え、嬉々として叩き潰した。叩き潰されたGは体液を撒き散らし、バキュロウイルスの感染領域が広がっていく。
世界中でGが緩慢に這い出てきては叩き潰される現象が起きていた。他の生物であれば大虐殺と呼ばれるであろう。しかし、この痛ましい行為に同情的な感情が生まれることはない。
Gが世界から消えた。「Gの絶滅、これは人類の成果ではない。ガイア理論によるホメオスタシスの成果だ」、そんな言葉で学者は誇らしげに幕をおろした。
ともあれGがいなくなった世界であのおぞましい姿に恐怖を感じることはなくなった。学者が語ったガイア理論によるホメオスタシス、何故Gを絶滅させる必要があったのか。その理由を人類が知ることはない。Gに怯える必要のない世界は穏やかで平和だ。人類は地球という巨大な生命体に感謝した。
三〇年前のG絶滅宣言とガイア理論によるホメオスタシスを思い出す。目の前で緩慢に動くG、黒色に光る羽がはカサカサと音をたてる。「なぜお前がここにいるんだ」、言葉と同時に覚える恐怖と嫌悪感。感情がマーブル状に混じり合い、本能的に新聞紙をくるくると丸めさせた。距離を置いての一撃必殺。古来からある原始的で確実な殺し方だ。バキュロウイルスに感染したG、緩慢な動きに丸まった新聞紙が聖剣エクスカリバーの如く振り下ろされた。
おぞましい姿と高い身体能力により人間から忌み嫌われたG、新聞紙に付着するGの体液、薄っぺらいボディの割に逞しい大腿、スパイク棘を持つ鋭角な脚、三十年ぶりに現れたGは痙攣し絶命する。その死骸をトイレットペーパーでくるくると巻いて水洗トイレに投げ入れる。
ここはGのいない穏やかな世界だ。だが、一匹見つけたら百匹はいるという世にも有名なGの格言をふと思い出した。心に生まれる恐怖と不安。エクスカリバーの如き新聞紙を何本も用意し枕元において俺は眠った。
物事には必ず原因があり、その理由がある。Gは原因も理由も求めない。ガイア理論によるホメオスタシスに抗う生存意志。バキュロウイルスに冒されながらも生きるため、その身を動かす。この冷たい世界で最後のGは操られようと生き抜くために抗い、儚く散った。
人類は愛玩動物として犬猫を特別に可愛がる。トンカツとして豚を養殖し美味しく食べる。Gをおぞましい存在と認識し忌み嫌い殲滅する。人類もホメオスタシスに乗っ取り、他の生物種を選別する。
そもそもGを殲滅する刃はバキュロウイルスだけではない。嬉々としてGを叩き潰した人類も刃の一つ。次に殲滅されるべきは人類でもおかしくない。全ての生物種がガイア理論の下、ホメオスタシスに支配されている。
了
ホメオスタシスの定理 うつぼ @utu-bo
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