第9話 婚約
「さて、着いたよ。ここが理事長室だ。」
荘厳な扉の前でネルが立ち止まる。
「ここが……!なんというか、凄く雰囲気がありますね……!」
「ふふっ、そうだね。さて、それじゃあ行っておいで。帰りは……恐らくシトラさんが案内してくれるんじゃないかな?」
ネルは握っていたレリアの手を離し、ちらりと扉を一瞥した。
「ネルさん!今日はありがとうございました!!もし学園に入れたら、その時はまたよろしくお願いします!!」
頭を下げて礼をするレリアを見てネルは微笑み、一言またね、とだけ言って踵を返した。
レリアはネルの姿が見えなくなるまで頭を下げ、その後扉の方を振り返って深く息を吸った。
ネルが恐る恐る理事長室の扉を開けると、正面には高価であろう机と椅子があり、そこに小柄な女性が座っていた。
失礼します……と言ってレリアが足を踏み出すと、横から声がした。
「お疲れ様、レリア。学園見学は思う存分堪能出来たかしら?」
レリアが少し驚いて横を向くと、そこにはシトラが立っていた。
「シトラ!うん!色々見れて満足!」
レリアの返答にシトラは微笑み、レリアの手を握って机の前へと引っ張っていった。
「理事長。こちらが言っていたレリアです。」
シトラが小柄な女性にそう声をかけると、彼女はレリアを一瞥し、笑顔を見せた。
「君がレリアか!シトラから噂は聞いているよ!せっかくだし私と少し話をしないかい?」
レリアは突然の出来事に困惑しながら、何とか首を縦に振る。
「さて……単刀直入に、君はシトラのことが好きかい?」
「えっと、は、はい!大好きです!!」
「具体的にどんなところが?」
「えっと……いつも私を引っ張ってくれるところとか、困ったときに助けてくれるところとか、たまに見せてくれる笑顔とか、意外と寂しがり屋なところとか……わっ!」
シトラの好きなところを喋っていると、突然シトラに手で口を塞がれる。
「もう十分でしょう理事長。揶揄うのもその辺にしといてください……。」
耳を赤くさせながらシトラはそう言う。
「君の婚約者になるんだ、気になるのは当然だろう?むしろ全く聞き足りないのだが……。」
理事長の言葉にレリアは目を見開いて驚く。
「えっ、えっと、あの、今なんて言いましたか……?」
「うん?君がシトラの婚約者になるんだからもっと色々と聞かせてくれという話だったが。」
「こ、婚約者……?」
「あぁ。……待て、シトラ。もしかして伝えてないのか?」
理事長はシトラをぎらりと睨むが、シトラにそれを気にする様子はない。
「はい。伝える時間もなかったので。」
「はぁ……全く。レリアちゃんもこんなのに振り回されて大変だろう……説明するから少し待っていてくれ。」
理事長はそう言って机の上の何かを探し始めた。
やがて理事長が一つの本を手に取ると、それを開いて話し始める。
「さて、とりあえず現状の説明としては……君はシトラと婚約をするという話になっているんだ。なっているというか、シトラがそうした。飲み込み難いだろうが何とか納得してくれ。」
レリアは半ばパニックになり、よく分からなくなりながらもとりあえず首を縦に振る。
「というのも、王都では優秀な者は早めに結婚させるという風潮があってな。特に、シトラの様なものを結婚させずに野放しにするのは有り得ないのだよ。しかし、シトラは結婚なんかしたくないと強情でな……。」
シトラは抗議する様な視線を理事長に向け、レリアの手を少し強く握る。
「そこで、どうしても結婚させたいと言うなら一人しても良い人が居ると言われてな。それが君だったんだよ。」
理事長は本から一枚の紙を取り出し、それをレリアに見せる。
「これが契約書だ。ここに君の名前を書けば契約は成立となる。しかし……君が婚約を望まないのなら書かなくても良い。元々はシトラの我儘の様なものだからね。」
「無理矢理ここに連れてきてルールを押し付けてるのはそっちでしょう。我儘なのは理事長の方では?」
シトラは冷たい声色でそう言うが、理事長は気にする様子もなくレリアの事を見つめている。
「えっ、えっと……少し……シトラと話しても良いですか?」
「あぁ。構わない。というか、むしろ推奨するよ。」
私が居ると話しにくいだろう、と言って理事長は部屋の外に出た。
「えっと……シトラ?その、婚約って……」
レリアにそう尋ねられてもシトラは答えるどころか目も合わせようとせず、明後日の方を向いてただ手を強く握る。
「シトラは……私と婚約出来た方が嬉しい?」
「……好きにすれば良いわよ。」
「私はシトラが喜ぶ様にしたい。だから、教えて?」
シトラは暫し沈黙した後、下を向いて口を開く。
「……もうレリアと離れたくないから、出来た方が嬉しい。」
レリアは暫く逡巡したが、やがて納得した様に一つ頷いた。
「……シトラ、何だか少し変わったね。昔はなんというか……もっと素直だったのに。」
「……のよ。」
「え?」
「分からないのよ。レリアに対してどう振舞ったら良いのか。」
シトラはそう言うと繋いでいた手を離し、理事長を呼びに行ってしまった。
レリアは口を開いてポカンとしながら、完全に婚約するという体で話が進みそうなことに少し頭を悩ませた。
「——それで、話は終わったのか?レリアちゃん、君はどうするんだい?」
レリアは久しぶりに誰にも握られていない手に寂しさを感じながら、深く息を吐いて真っ直ぐ理事長の方を向いて口を開く。
「シトラと……婚約します!」
その言葉を聞いた理事長は満足そうに頷き、レリアに契約書とペンを差し出した。
「ここに名前を記入してくれれば婚約成立だ。……そういえばレリアちゃん。君は確かこの学園に入りたいんだったね?」
「はい!ここはシトラも居るし、色んなことが出来そうなので!」
「そうかい。ならば君は中々苦労するね。」
「えっと……なんでですか?」
レリアはペンを止め、理事長の話を聞く。
「いやなに、シトラは中々に人気が高くてね。ほら、シトラは良い見た目をしているだろう?それに、彼女と婚約出来れば将来安泰だからね。だから、君は中々に妬まれるだろうな、とね。」
レリアが予想だにしていなかった婚約のデメリットに少し後悔をしかけたが、ちらりとシトラの方を見て、その考えを消し去った。
「シトラと一緒なら何が起きても大丈夫です!ね、シトラ!」
「……そうね。何が起きても守るから。」
理事長は二人を見て深く頷き、余計なお世話だったな、と口にした。
「よし、契約書も書けたようだな。これで晴れて君達は婚約関係だ。別に何か義務が発生する訳でもないが、各々その関係に相応しい行動を取ってくれ。」
理事長は契約書を丁重に本の中に仕舞うと、改めてレリアの方を向いた。
「シトラが変な虫に引っかかったら堪らないと気を揉んでいたのだが、君とシトラが婚約してくれて一安心だ。私に感謝されても仕方が無いと思うが、ありがとう。」
理事長に頭を下げられ、レリアは困惑する。
「か、顔を上げてください!えっと、その、本当に戸惑いましたけど、シトラとずっと一緒に居るっていうのは変わらないので!」
「ははは、そうか。……うん。本当に君なら安心だ。シトラのことをよろしく頼むよ。理事長としてだけではなく、シトラの育て親としてね。」
「はい!!!……うん?育て親……?」
「あぁ。王都に来てからはずっと私がシトラの面倒を見ていたんだ。いやぁ……本当に最初の頃は大変だった。魔法を教える度に教えた魔法で攻撃されるんだからな。他にも……」
「その話は今良いでしょう!……行こう、レリア。」
「えっ、う、うん!!」
スタスタと外へと歩いて行くシトラに慌ててレリアは着いていく。
理事長はその様子を微笑みながら見つめていた。
その姿はまるで本当の親の様であった。
「……ねぇ、シトラ。私の前でも緊張しないで良いんだよ?」
レリアはシトラの後ろを歩きながらそう声をかける。
「……どういうこと?」
シトラは立ち止まってレリアの方を振り向く。
「理事長と話してる時、ちょっとだけシトラは楽にしてた。でも、私と話してる時は何だか緊張してる気がする。」
シトラは暫く黙り込んだ後、再びどこかへ歩き始める。
「……私はレリアみたいに器用じゃないの。」
そう小さく呟いたシトラの声は、レリアには届かなかった。
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