第33話

「よし、みんなで蟹鍋かになべしよー」

始まりは颯介の提案からだった。

「は?」

「ついに暑さで颯介くんが可笑しくなりましたか」

「鍋は普通、十二月とかにやるもんだろ。温度計見てみ」

「うわ高っ…」

壁に掛けられた温度計は軽く三十度を超えている。

「ねー、坂田はどう…やっぱ良いや」

緻密ちみつに半透明の光線を受ける具合はどう見ても一個の芸術品…!青磁せいじから生まれたようにつやつやしていて、つい手を出して撫でてみたくなる…西洋の菓子で君に勝るモデルは絶対にないよっ…!」

「羊羹を撫でようとするな!」

菓子皿に並べられた羊羹を見ながら写生帳に筆を走らせる坂田に虎太郎がツッコんだ。


「で、何でこうなる」

苛立ちげに仁王立ちした咲真は先程正座させた颯介と勇をじろりと睨みつける。

「みんなでするには大きい部屋が必要だろ?俺の家は狭いし、勇の家は前使ったし…てことで入谷の家でやろうって話になったんだけど…」

「おい待て、俺に確認しに来たか?」

「…まだです」

「だよな?」

咲真からは殺気が滲み出ていた。少しでも変なことを言えば殺されてしまいそうな、そういう気配。

「それで?俺に何か言うことがあるだろ?」

「ごめん」

「蟹は買ってきたから許して」

「おし颯介、表出ろ」

「誠に申し訳ありませんでした!!」

畳に手をついて土下座する颯介に憐れみの目を向ける勇。

咲真はその光景を見ながら大きなため息をつき、買い物組が買ってきた食材を台所へと運んだ。

その姿が見えなくなると同時に坂田が話しかける。

「おー、お疲れ」

「蟹が思ったより高かった......前回の件の料亭から謝礼として貰ったんだよね〜」

前回の件とは、上野の死ニカエリ事件のことだろう。

「あとで上司も来るそうですよ」

「ね〜、井上。あの蟹って官費かんぴで落ちる?」

「落ちません」

井上は笑顔のまま即答で返した。

「だよねー……」

一方その頃台所では、田中と虎太郎と柚が忙しそうに動いていた。

鍋に昆布でダシを取り、その間に野菜などを切っていく。調理組は忙しい。

「なぁ、椎茸って茹でなくて良い?」

「あとで鍋に突っ込むから今は良い」

「咲真さん、お米はもう炊いて良いですか?」

「ああ、頼む」

柚は井戸水をみに外に出た。その間、咲真は料理音痴の田中と虎太郎にテキパキと指示と注意を飛ばす。目を離せば怪我をしそうな虎太郎の包丁の持ち方が気になって仕方がない。

「虎!頼むから包丁を握らないでくれ、台所を血の海にするつもりか!?」

「僕を颯介と一緒にすんなよ!」

「…颯介はそら豆を煮詰めることが出来る分、お前より料理は上手だ」

「それ、料理って言わねーだろ」

などと軽口を交わしながら数十分。目の前には茹で上がった蟹。

「美味しそう!」

「夏でも蟹が売ってることに驚き」

「俺、柚ちゃんの隣が良いー!」

「安心しろ、そこはもう渉が座ってる」

「あ…」

「大山くん、そういう日もありますよ」

笑いを堪えながら勇の肩を叩く井上。

「まぁ…良いや。蟹食べよー」

「待ってました!!」

それからはもう宴だった。音寧の手伝いが戦場のような忙しさならばこれは、酔い潰れるまで終わらない宴のよう。

「あ、咲真の牛肉のしぐれ煮じゃん。これ美味いんだよなー!」

小鉢に手を伸ばし、嬉しそうな声を上げる勇。

「うわ、蟹だ、うめぇ!!」

柚の隣で蟹に目を輝かせる田中。

「あ、椎茸貰って良いですか?」

椎茸を探す柚。

「ここら辺にマッチ箱があったと思うんだが…」

マッチ箱を探す咲真。

「はぁ…なかなか良いモデルがいないんだよなー…ねぇ、何か良い題材ってある?」

酒を飲みながら感激の声を上げる田中に聞く坂田。

その時、颯介が顔を出した人に向かって声を上げた。

「あ、上司いらっしゃーい」

ひょっこりと顔を出したのはスーツ姿の男性だった。背は高く、男性にしては少し長めの黒髪をきっちり後ろに撫でつけている。どことなく知的な雰囲気が漂う風貌ふうぼうだ。しかし、右頬にはガーゼが貼られており、シャツにはシワが付いている。襟元のネクタイは取れかかっていた。

「お邪魔しまーす」

「お土産はー?」

「八つ橋」

「「ありがとうございます!!」」

「いや、君達に渡してないからね?」

「え」

固まる颯介と勇。そんな二人を素通りし、「今日はありがとうね〜。はい、郷里の実家から届いた八つ橋。日持ちしやすいよ」とお土産を咲真に手渡している上司。

「その怪我はどうしたんですか?」お猪口ちょこを持ちながら尋ねる田中。

「それがねぇ。飲み屋で管巻くだまいていたら、たまたま隣に座った人と喧嘩になっちゃって。喧嘩を吹っかけた人は今頃、医者のお世話になっているんじゃないかな?」など、物騒なことを大して気にしていない様子で話していると、柚に気付いたのか会釈をする。

「君が望月柚ちゃんだね?」

「は、はい」

「私は佐々木正義まさよしよわいは四十四。よろしくね」

佐々木と名乗る上司は柚と握手をした。手を大袈裟に振る。

その時、ふと―――その男の目に一瞬、冷たく鋭い光が宿った気がした。

柚が信用に足る人間か冷静に値踏みするような、否、相手の人間心理を透徹とうてつさせ見透かす雲上の仙人のような―――

しかし、瞬きひとつのうちに仙人の視線は消え、佐々木は気の抜けた笑顔に戻った。

見間違いか、目の錯覚か。

その刹那、「お前ら少しは手伝え!!」という怒号が飛んできた。

虎太郎は怒号を飛ばしてお盆を持ちながら入り口に立っている。

だが、気分が高揚した大人達は聞く耳を持たない。

「お前ら、いい加減にしろー!!」

「何しているんですか…」柱に寄りかかりながら自由奔放にくつろぐ同僚達を見守る井上。

「田中君、実は相談があってね」

「何ですか?娘さんの恋人を撃退することについては相談しないで下さいね」

「え…何で分かったの!?」

「いや、貴方がおれに相談することと言ったらそれくらいでしょう」

「えー、他にもあるよ。それに、田中君しか既婚者がいなくて」

何故かニコニコとした表情で話す。

「普通、部下に言いますかね…。他の相談内容は?娘さん関連以外でお願いします」

「例えば…例えば…あ、なかったね」

開き直った佐々木。

「だって、急に好きな人できたから紹介したいって言われてー、可愛い喜美子きみこの頼みなら一度…って思って会ったんだよ。そしたら」

「酷い方だったんですか?」

「逆だよ、相手はしがない文士の青年だった。礼儀も悪くないし、人相も悪くはなかった。―――まぁ結婚は認めてないけど」

喜美子というのは娘の名前だろう。

話の内容は、柚が理解するには難しい内容だった。

「確かに文士なら将来が不安ですし気持ちも分かりますが…娘さん、何歳でしたっけ?十七、十八くらいなら嫁いでも良い年齢ですよね?」

「手塩にかけて大事に育てた喜美子を名も売れていない文士風情においそれと渡せる訳ないじゃないか」

「子離れして下さい」

これは…なかなかのカオスっぷりであった。

不意に、思い出したように坂田が言った。

「そういえば、帝國ホテルの盗難騒ぎは解決したんだって?」

坂田の持っていた新聞には大きく『帝國ホテル二現ル窃盗犯、逮捕』の文字が書かれていた。

「犯人は死ニカエリに化けていた人間だったな」

「そこを張り込み中の虎に捕まった訳ね、理解理解。はっ…着想は悪くないと思うけどね」

鼻で笑い、坂田は新聞を畳の上に放る。

「これで心置きなく帝國ホテルのレストランに行けるな!」

「僕より渉の方が嬉しそうだな」

「まぁ骨董品が好きな奴には天国なんじゃね?」

「え、待って!私それ聞いてないよー?」

上司は焦りの表情を浮かべたまま固まる。本当に知らなかったようだ。

「誰も上司に報告していなかったのかよ…」咲真が眉間を指で摘んでため息をついた。

「懐かしーな、これ」

逃げるように田中がタンスの上に置いてあった写真立てを手に取った。写真には幸福そうに微笑む二人の姿があった。

『東京帝國大学卒業式』と書かれた看板の前で、同じく詰襟に金ボタンの制服に身を包んだ級友達と肩を組みながらカメラ目線の咲真と田中。

「お前ら同期だったのか!?」

「大学か…俺はひたすら課題の絵を描いてたな…」

「そっか、坂田くんの出身校は東京美術学校でしたね」

美術学校という単語に柚は納得する。何回か坂田の描いた絵を見たが、どれも上手だったのだ。墨一色で描いた黒猫や薄い色合いのイチョウの木など、美術の教科書で紹介されそうな絵ばかりだった。

でも、どれだけ頭を捻っても坂田健一という画家は思い出せなかった。

「坂田さんって画家なんですか?」

「画家志望だった警察」

どうやら描いた絵は世には出していないらしい。勿体ない。

「気に入ったなら、何か描いてあげようか?」

「良いんですか!?」

「まぁ…」

俺の気が乗ればだけど…という呟きを聞いて嬉しくなった。何描いてもらおうか…やはりここはたまを描いてもらおうかなど考えを巡らせていたら、「俺は松山中学校!こう見えて愛媛出身なんだよ、知ってたー?」と、颯介が身を乗り出して言う。

「お前、愛媛だったのか!」

「初めて知った…」

「勝手に会津あいづの方かと思ってたわ、すまんね」

「中学校…?」

松山中学校と言われても、いまいちピンとこない。中学校卒業といえば十五歳だ。その年齢で社会に出ることが出来るなんて…柚は密かに尊敬した。だが、旧制中学校というのは今でいう高校のような場所である。

「あ、そうそう。昴は穏やかそうに見えるだろ?でもな、東京専門学校の講演会で一尺の鉄扇てっせんをぶん回して演説したって逸話持ってるから…人は見かけによらないよな」枝豆を頬張りながら話す虎太郎。

東京専門学校は今の早稲田大学のことらしい。彼の言う『一尺』とは、柚の目分量だと約三十センチくらいの長さだ。

「え…マジですか?」

「まじまじ」

「僕達は出身大学が同じですもんね」

「おう。同期じゃねぇけどな」

蟹を食べている井上を見やる。相変わらずニコニコと人当たりの良い笑顔を浮かべていた。

「それとも上司が海軍省で働いていた時、国費で軍艦を買おうとしたけど断念した話が聞きたいか?」

「どこで聞いた話だよそれ!!…少し気になるけど」

すかさず田中がツッコむ。

「ははっ、よく知ってるねぇ」上司はわざとらしく胸を張り、お猪口を軽く揺らして続けた。

「英国製で性能も申し分ない。パワーは三百馬力、速さは最大十六ノットだったんだけどねぇ」

言葉とは裏腹に、その目は少年のように輝いていた。

どうやら本気で軍艦の購入を夢見ていたらしい。

「元新聞記者を舐めるなよってことだ!」

虎太郎はトンっと自分のお猪口に注いだ徳利を机に置き、「で、どうよ?」と柚に問いかけた。

宴はまだまだ終わらないようだ。


うちわ片手に扇ぎながら、縁側に座ってぼんやりと月を見ていた。

月が満ちるまであと一週間。一週間経てば自分は現代に戻る。長いようで短い一ヶ月半の明治旅行だった。

(こうやって、いつか…思い出になっていくのかな?)

現代に帰って、元の生活に戻れば、この時代で過ごした日々も少しずつ薄れていくはずだ。長い夢を見ていたと自分に言い聞かせて、たまに学校の授業で明治時代の話題が出た時に思い出しながら、少しずつ時間をかけて記憶の蓋を閉じていく。

そうなることを、ずっと望んでいたはずだった。

「隣、良い?」

「良いですよ」

隣に座る勇。酒をかなり飲んだのか頬が赤い。

「蟹、美味かった?」

「はい、美味しかったです…」

心做しか声が小さくなる。何でだろう、とても悲しい気持ちになる。この時代に来て幾度となく助けられた。

衣食住を提供してくれて、この時代のことも教えてくれた。本当に勇に拾われて良かったと柚は思う。咲真の家に不法侵入したことは今でもよく覚えている。

(ああ、私、勇さんのことが好きなんだ…)

でも、そう気付いても、柚は口には出さない。出してはいけない。言葉にすれば、余計悲しくなるから…。

本来、交わることのなかった時代。ずっと現代に帰りたいって思ってた。けど、沢山の人達と出会って、そのことを一瞬でも忘れてしまう出来事もあって、本当に楽しかった。

「勇さん」

「ん?」

「ありがとうございます」

伝えられない言葉は、隠してしまおう。

ふと顔を上げ、勇は少し欠けている月を見上げた。

「どういたしまして」

勇は言葉の意味に気が付いたのか気が付いていないのか柚には分からないが、嬉しそうに返事を返した。

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