水面に謳うは獣憑

金色わんこ

獣憑の世界

序章 孵化

第1話 神隠し


 落ちる、落ちる、落ちる。

 手を伸ばして抗うも掴むのは希望なんてものではなく空虚で絶望的な冬の空気。

 溢れる涙で滲む瞳に映るのは光の灯る摩天楼。

 落ちるからだとは正反対に、聳え立つそのビル群は雲一つない真っ暗な空に浮かぶたった一つの月目掛けて今まさに伸びているような錯覚に陥る。


(どうしてこうなったのだろう)


 今日は至って普段通りの日常を過ごしていたはずだった。

 けたたましく朝を告げる目覚まし時計に寝起きの一発をたたき込み、寝ぼけたまま顔を洗って朝食にトーストとバターを食べる。

 中央値ど真ん中であろう朝を越えた後は適当に身だしなみを整えて、適当に大学に行って、適当に学ぶ。


 やや怠惰かもしれないが単位の管理に不足はなく、極々一般的な人生を送る一般的な学生だとそう己を評価していた。


 それがどう道を踏み外してしまったのだろう。


(そうだ、狐を見かけて)


 実に美しい狐だった。

 寒さに備えて膨らんだ体毛は混色の無い「黄金」という二文字がまさしく似合う輝きを放っていた。

 そんな体毛だけで金塊に相当する魅力を持った野狐が都会の中心にいたのだ。気にならないわけがない。

 さらにどうにも己の事を見ていたようだった。琥珀色の瞳を収めた切れ長の狐目を妙に人間っぽい仕草で流すように向けられた時、ついて来いと言われたような気がした。

 

 今になって思えばその時点で何か変だった。

 人通りのある道の真ん中にいたその狐に己以外気が付かなかったのだ。

 そしてしゃなりしゃなりと歩く狐に、光に誘われる虫のように付いて行ってしまった。


 路地裏に入り、右に左に付いて行く。

 暗くて汚い都会の裏の顔に怖気付かなかったかというと嘘になる。

 しかし、暗闇の中その狐が輝いて見えた。美しい狐が道標のように思えたのだ。


 数分か数十分か。誘われるがままに歩いていると狐が突然駆け出して角に消えた。

 こんなところでほっぽりだされたらたまったもんじゃない。もう帰り道などわからないところまで来ているのだ。

 焦燥感に締め付けられて狐と同じように走り出して角を曲がって、言葉を失った。


 そこには茜色に染まった。失われつつある里山の風景が広がっていた。

 二畳の庭とかではない。見渡す限りの暖色に色付いた木々が生い茂り、足裏から感じる落ち葉の絨毯の柔らかさは本物のよう。

 日本人の遺伝子に刻み込まれた風景だからだろうか。田舎生まれ山育ちでもないのに懐かしさが心の中に溢れ出し、意識が朦朧としてきて、ただ立ち竦んでいた。


 そこから先は何があったかわかっていない。

 女の人の声がしたと思ったら背中を押されていて。

 一歩踏み出した先には地面がなくて。


(あぁ、それでも思い出すのは夕焼けの原風景)


 死が近づいているのだろう。時間が引き延ばされて走馬灯が脳裏を駆け巡っていく。

 己にも大切な家族や友がいる筈なのに思い出すのはさっき見たばかりの風景だけ。でも、それでも冷えていく身体は満たされていく。

 全く、不思議な経験だ。きっとこれが狐につままされるというのだろう。

 

(願わくば誰も巻き込みませんように)


 若い女の悲鳴が聞こえて地面が近いことを悟り、目を閉じてその時を待つ。

 暗闇に包まれて無限に感じるコンマ数秒の後、脱力した成人男性の肉体は堅い地面に打ち付けられ、原形をとどめることのできないそれらは飛び散って醜い血肉の花を描く……ことはなく油の張った膜を突き破るようにアスファルトを通り抜けて消えた。


「なんで悲鳴がでちゃったんだろ……恥ずかしい……」


 身投げをした成人一人が突如として姿を消した。

 落下中の彼を目撃した人も大勢いただろうにまるでそんなこと自体なかったかのように日常へと不自然に路線を変更されていく。

 落ちる彼に気付いて悲鳴を上げた彼女だってもう何に驚いたのか覚えていない。

 

 この日一人の男が存在ごと姿を消した。

 

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