第20話

「殴る権利?」

お互いの瞳が衝突した。それこそ、音が鳴ってもいいほど強く。

懺悔するように潤む蒼穹の双眸に、百道は息を呑む。

それは木漏れ日刺さるとある日のことだった。


鳳凰座の星霊。

それは猛禽類のマスクと漆黒の鎧を身に纏い、その炎は万物を再生する癒の炎とされている。人類が幾度となく挑み、されどその命を燃やし尽くすことが出来なかった伝説の一体。それが不死の意味を持つ星霊の概要だ。


いつの間にか一帯は瘴気の闇に包まれていた。

夜よりも深い暗中、囀る生物が囁くほど近く感じ、対照的に祭り囃子の大熱狂が異様に遠く感じる奇妙な静謐。

濃密な瘴気のベールが外界を隔絶し、まさに世界の終わりを思わせる暗黒空間を織り成している。

その中心に在わす、瘴気の権化。

「久しいな。偽りの平穏は楽しかったか?小僧」

その愚弄が滲んだ声帯に、百道の中で炉心の如く感情が渦巻き始める。

「メズスっ」

その名を口にすると、理性の箍が吹き飛びそうだ。

百道は歯噛みするが、押さえ切れない。

血潮がたぎり、溶岩のようにどろりとした幻力が胎動を始める。

百道はここ数週間、幻力を制限して過ごした。

それは──百道は知るよしもないが──普段無意識に浪費していた幻力を貯蓄する意味もあった。

二週間の貯蓄が、怒髪冠を衝く勢いで堰を破り、今、出力として実現する。

断絶呪幻の呪縛を強引に突破した幻力がのたうち、百道の周囲で火花が散る。

その溺れるほどの気を纏い、百道は叫んだ。

「メズスっ、いいや馬頭丸っ!貴様だけは許さないっ!!」

馬頭丸は──恋歌の容姿で──血の池を躊躇いもなく踏み抜いた。

その周囲に点在する血溜まりと肉塊は、太陽教徒のものだ。

彼らは、先刻生じた巨大な瘴気の膨脹に巻き込まれ、その強力すぎる力に消し飛んだ。彼らには己が身の不幸を嘆き耽溺する権利があるだろう。

そんな惨劇の渦の中、星霊は取って付けた賛辞を送る。

「先ほどは我ながら肝を冷やしたぞ。あれらの攻撃は正確にこの娘の左胸を貫いた。心臓を貫かれれば流石の我らも死を体験する。だが、幸というべきか、俺は生き残った」

星霊は──恋歌の顔で──飄々と笑う。

「どういう事だ。貴様は今、左胸を貫いたって──」

思い返せば、恋歌はしきりに右胸を刺せと訴えていた。

ごく稀だが、右に心臓を持つこともあるそうだ。

「まさかっ」

馬頭丸は──恋歌に似合わぬ悪女の嘲笑を湛え──己の右胸辺りに手をやった。

「左様。この娘の心臓は右胸にあったのだ。希有な事もある」

百道は唇を噛み締める。

恋歌はあの土壇場で、最善の道を訴えていたのだ。

星霊は背中に生やした二体一対の漆羽をはためかせ、ゆったりと空へ舞い上がった。

夜気を帯びたその飛翔は、檻から解放された鳥のような気高さを伴っていた。

星霊が夜空に九字を刻み、詠唱を始めた。

その呪文には聞き覚えがあった。

星霊に許される、星禍を誘発する術理。

「セイサイを起こすつもりかっ!?」

悠々たる詠唱の後、夜空に無数の光点が浮かびあがった。

白濁した淡い煌めきの数々は凶悪で暴力的な、不健康な白光を放っている。

それらが星でないことは明白だ。

極縮された瘴気の粒である。

「さて、百鬼夜行を始めよう。隠流・星縅し」

馬頭丸が腕を振るったと同刻、白光が流星の如く降り注いだ。

木に、川に、岩に、家屋に、土地自体に、吸い込まれてゆく。

まるで色水に黒を落とすように、瘴気が溶け混ざり、澄んだ万物の色を黒に汚す。

周囲が戦慄き始めた。

付随するように、百道の懐の幻石──星禍を探知する幻動機──が激しく震え始める。

「種は撒いた。これより星禍は互いに脅威を高め、星獣へ至り、この地を阿鼻叫喚の地獄絵図へと描き変えるだろう。」

状況を克明に理解したその上で、百道は狙いを定めた。

「関係ないんだよ‥‥貴様を殺せば済む話だ」

「うむ?」

遙か上空で、星霊が怪然とする。

一撃を貰うなど微塵も想像していない様子だ。

星霊は侮っていた、天才と謳われる少年を。

「無駄だ。人は飛べぬだろう」

百道は腰を低く落とし、全身をこれ以上無いほど強張らせた。

滾る幻力を脚へ集中させる。

腿が流血する。高密度な幻力に筋繊維が悲鳴を上げているのだ。

百道は

構わず踏み込んだ足が、大地を凹ませる。

「恋歌をっ!かえ──せっ!!」

土煙を起こし、百道はすっ飛んだ。

その脚力は驚異的だ。

瞬時に天空のメズスへ躍りかかる。

百道は大太刀を下から上へ、強引に振り上げる。

逆袈裟斬りだ。

「むぐっ!?」

それは百道の生涯で最も鋭く洗練された、まさに一生に一度放てるかどうかの一撃。メズスの華奢な肩口を容易に断ち切った。

泣き別れた半身が地に墜落した。

夜空に浮かんだ光点が霧散した。

星霊が負傷したことにより、セイサイの進行が収まったのだ。

だが所詮それは一時的な中断に過ぎない。

その証拠に、下半身の切断面が傷の修復を始めた。

断面から血の糸が伸び出て傷口を縫い合わせるように繋ぐ。傷が見る見る内に塞がっていく。その再生速度たるや、以前の比ではない。瞬時のことだ。

メズスもまた、相当のパワーアップを得ているようだ。

百道にとって、非常に不気味な事に思えた。

「ふん、小僧。見ないうちに僅かだが腕を上げたな」

メズスは余裕の表情を貼り付けている。

「俺とて賢者だ。セイサイの対策は心得ている。永続的にダメージを与えることでセイサイの進行を止め続ける事が定石だ。逆に言えば、わずかでも隙を与えれば。術理セイサイも再開される。つまり俺の役割は、その隙を与えないことだ」

星滅隊として、この星霊に“セイサイ”を再開させてはならない。

星霊と少年は再び刃を交えた。



「殴る、権利?」

「うん。多分だけど百道さんは私を殴る権利があると思う」

恋歌はそういうが、少なくともその様な権利を持ち合わせた覚えはない。

百道は小首を傾げる。

「唐突だな。何か訳でもあるのか?」

「ううん。私にも分からない」

「なんだそれ」

「そうだね、私も自覚ある」

恋歌は冗談めかしく笑った。

しかしその瞳は真剣そのものだった。

「百道さんももう分かってると思うけど、私さ、目が覚めてから暫くの間、それまでの記憶が無かったんだ。自分が誰で、何者で、どんなふうに生きてきたのか。これまでのことが全然思い出せなかった。今も、全てを思い出せているわけじゃない」

記憶喪失。

百道含め誰も言及はしなかった。

「すまない、嫌な気にさせたなら謝る」

すると恋歌は石を啄んだ雀のように目を丸め、それから「違う、違う」と首を振る。

「じゃなくて、これは私の話。目覚めてから暫く引き籠もってた間に少しずつだけど思い出していった。名前に誕生日、最初の記憶、親の顔、昔の思い出、などなど。押し入れの中を下から順に整理するみたいに、徐々に。まだ全部を思い出せたわけじゃないけど、大方は思い出せたんじゃないかな」

彼女は眉間の皺が影を落とすほど表情を歪ませた。それこそ、彼女の食いしばる歯音が聞こえてきそうな程だ。これ程感情を剥き出しにした恋歌を、初めて見た。

「──そして、酷く混乱した」

「混乱?」

「だってここの景色は私の記憶とまるで違う。それこそ、全部が一度リセットされたみたいに、人も街も風景も、何もかもが全くの別物。けど言語は同じだし、なんだか気味が悪くて、夢なら冷めてって腐ってた」

遠い目をする恋歌に魅入り、百道は「そうだったのか」としか返せない。

「けど、同じ景色もあった。あの森は、相変わらずだった」

あの森とは、学び舎に隣接する裏山。

鬱蒼と茂った木々が陽光を遮り、まるで洞窟のような、厳粛な雰囲気を醸す森。

しかし、透き通った静寂の中に抱きしめられたような温かい気配が潜んでいる。

かつて朱雀が羽を癒やしたとされる森だ。

恋歌はその風景を眺めていた。

窓から吹いた蕭々とした風が彼女の紅蓮毛を流す。

「ここに来ると何か思い出すと思ったんだけど、全然何も感じない。私が薄情なのか、百道さんのおかげなのか。ううん、きっとその両方。酷い話だけど、なんだか凄く落ち着いてる」

その自虐はどこか投げやりで、その蒼穹の瞳は何か薄暗いものを隠したように陰っている。

彼女の言いたいことが見えた気がした。

朱雀恋歌、土地神・朱雀、そして学び舎・朱雀校。

恋歌とこの地には深い紫があったのだろう。それらは過去となった。

歳月は無情にも彼女の知る場所を全く違う風景へ塗り替え、図らずしも彼女の日常を奪った。

時間は巻き戻せない。それが自然の摂理だ。

意図せず時を超えた恋歌にとって、その事実は到底納得できるものではないはずだ。

受け入れられない不条理に敗れ、それでも果敢に挑み続けた。

物憂げに揺れる恋歌の横顔が──年下だというのに──酷く大人びて見え、あぁ、と百道は息を漏らす。

──アンタは一体、どれだけ。

「恋歌は‥‥これから、どうしたい?」

「わからない。私はどうしたいんだろうね。そろそろここにも慣れてきたし、この世界で生きていこうかな」

百道は告げた。

「それはきっと‥‥いいことだと思う」

え?、と恋歌が困惑の声。

我ながら安易なことを言っている自覚はあった。

「辛いと思うのは立ち向かっている証拠だ。恋歌は必死に、現実を受け入れようと闘った。だから、アンタは強い」

百道は恋歌を真っ直ぐに見据えた。

恋歌は何と言ったのだっただろうか。


夜闇に金と黒の閃跡が舞い踊っている。

瘴気と浄気が溢れ、乱れ、醸し、不協の調律を交換しあっている。

大太刀と羽が何度も、幾度も衝突を繰り返し、その度に周囲の地面が砕け凹み、空間が悲鳴を上げる。

大太刀が片翼をはじき返し、舞い散る羽矢が無慈悲にも生身を削る。

星霊の堅牢な鎧が砕け、百道の身体から血が噴き出す。

それでも二者の戦いは終わらない。

百道の大太刀が音速の円弧を描き、メズスの大羽が強かにしなる。

鍔迫り合いの瞬間、甲高い轟が夜気を裂いた。

「恋歌を、返せっ」

百道が大太刀を振り放った。

メズスは翼の斬撃を打ち込む。

「さて、いつまで持つかな?」

メズスは余裕綽々と笑む。

だがその言葉とは裏腹に、瞳の奥には怪然が巣くっている。

「そんなにこの娘が大事か?」

「黙れ‥‥殺すぞ」

百道の声には息を呑むような迫力があった。

星霊の力は途方もなく膨大だ。

星座を保有するに至った星禍は他と一線を画す力を持っている。

一塊の人間である百道とは元々持っている幻力に差がありすぎるのだ。

だが。

百道は、一時的にその怪物と対等に渡り合っていた。

それがメズスの思考を痺れさせていた。

人間は、体を動かせば体力が減り、傷を負えば戦えなくなる生き物だ。

というのに。何度衝突を繰り返しても、この人間は止まらない。

度重なる剣戟により、隊服は裂け、流血箇所を数え始めればキリがないだろう。激痛が身を刻んでいるはずである。

──何故倒れない。

既に死んでいてもおかしくない傷を負っているはずだ。

なのに何故倒せない。

そもそも羽虫程度のゴミのはずだ。

──何なのだ、この少年は。

「メズスッ!!」

百道を突き動かすものの正体は単なる怒りだ。

されど、純粋で強大な、恨み骨髄に徹する怒り。

それに呼応するように溢れる幻力が、百道という少年を、星禍を駆除する兵器へ変じさせているのだ。

「恋歌を、恋歌を、恋歌を、恋歌をっ、返せっ!」

その炉のような感情を幻力に変え、百道は猛威を振るう。大太刀を振り抜いた。メズスも翼を振るい迎撃する。

二人を中心とする空間が揺らいだ。高密度の幻力同士のぶつかり合いが激しい衝撃波を喚んだのだろう。轟っ!!と周囲を薙ぎ払う。

百道の身体に裂傷が走った。

隊服が弾け、顔にも亀裂が走る。

だが止らない。

眼球を見開き、獣の様に吠え、

「恋歌を、がえせぇええっ!!」

「ぐっ」とメズスが狼狽えた。

大太刀が羽を弾き返す。メズスの身体が、ふわりと宙に浮いた。

百道は踏み込み畳み掛けた。

無論もう片方の翼が行手を阻む。

百道はその片翼を斬撃で弾き、返す刀で斬りかか──百道は後退を余儀なくされた。

「ちっ!!」

もう片方の羽が弾けたからだ。

鞭のように高速でしなる翼が、ここから先立ち入るべからずと大地に線を刻んだのだのである。

更に、メズスは片羽を荒れ狂わせた。

ベキっ、ごごごっと、超度で暴れる翼が無闇矢鱈に周囲を引き裂く。

百道は煌めくように駆ける。

狂気的な翼の攻撃を紙一重で躱し、翼の有効範囲の内側に滑り込む。

百道はそのまま猛突進、拳を握る。

「むっ!?」

「おっ‥‥おぉおおお!!!」

頬を打つ打撃。清々しいほどのクリーンヒットである。

骨が砕ける鈍い音と共に、メズスは後方の木にめりこんだ。

「はぁ、はぁ、はぁっ‥‥どうだ!」

メズスはすぐに起き上がった。

「ふむ。良い拳、ではあるが、この程度では死なんな。話にならない」

「元よりそんなことはわかっている。だが、星座紋はどうだ?俺たちにとって瘴気が毒であるように、貴様らにとって浄気の攻撃は毒のはずだぞ」

「それこそ愚問だ。この程度で我らの星の意味は揺るがない。もう十年修行し直せ」

メズスが太々しく肩を聳えさせた。

「それよりも、いいのか?そんな全力で殴ってしまっては、器が壊れかねんぞ?」

百道も同じように肩を聳やかす。

「傷はどうせ再生するだろう?ならば問題ないな。貴様を駆除し、恋歌を取り戻した後で謝れば良い話だ」

百道は──希望的観測に身を委ね──拳を硬く結ぶ。

「待っていろ、恋歌。必ず助ける」


夜見の通信幻石に通信が届いた。

震える石面を見て、夜見は柳眉を顰める。

普段から散々こき使われているわけだが、ここ数ヶ月は輪をかけて酷い。

夜見は無言で幻石を切った。隣のアザミが片眸を濁らせる。

「いいの?出なくて」

「いいんです。非番なので」

「本当に?あの人、ああ見えても、昔は軍神って称えられたすごい人よ。あとで怒られないかしら?」

「別に今更です。それよりも、次はあれを食べましょう。かき氷です」

それでもアザミは心配顔だ。

だが、今日は少し、というか猛烈に。嫌な予感がするのだ。

と、今度は月美の通信石が震え始めた。

二人して目配せする。

「何かあったのかなぁ?夜見、どうしよっか?」

「はぁ、別に出てもいいわよ。もう私無関係だし」

「じゃあ、出るね。困ったら助けてね」

と月美が通信を取る。

「おお、ようやく繋がった」

石から聞こえた声は誠司からだ。

「あ、もしもし誠司さんですか?こんばんは、月美です」

「あぁ、こんばんは」

孫娘と祖父のような挨拶が通信石越しに繰広げられる。

「それで今日はどうかされましたか?」

「緊急事態じゃ。して月美、近くに夜見か時雨はおるか?」

ご指名に、夜見は半目になりつつ通信を替わる。

「‥‥何ですか?」

「夜見、急で悪いがお主らの力を借りたい」

声の抑揚は代わらぬが、やや切羽詰まったような印象を受けた。

しかし夜見の態度は変わらず素っ気ない。

「今日私ら非番なんですが」と、年配者への気遣いは皆無。

「手当は弾む」と誠司は言う。

それ程切迫した事態なのだろう。

きっと厄介事に違いない。そのお鉢が回ってきたのというわけだから、本当に面倒な街に流れ着いてしまったものである。

夜見は何度目かも分からぬ溜息をつく。

「それでご用件は?」

「毎度で済まないな」

「御託は結構です、もとより期待はしてません。電話越しの焦りようから察するに、私らが動かないと詰む事案なのでしょう?」

誠司が一呼吸置いて厳格に告げた。

「恋歌という少女について、それと黄道12星座の星霊について、その関連が紐解けた」

用語を聞いて、夜見は憮然に語気を乱す。

「ちょっと、どういうこと?黄道12星座。それに恋歌?ちゃんと分かるように説明して」

「ならば率直に行こう。彼女の中に眠る星霊が目覚めた。至急現場に急行してくれ」



舞い散る火花。

金属が何度も打ち合い、甲高い音が鳴り響く。

目にも留まらぬ応酬が夜中に閃を残した。

しかし、獅子奮迅の戦いを見せていた先ほどとは打って変わり、百道の動きは鈍い。

「最初の威勢はどうした?」

メズスが翼を轟っ!と叩きつけ、烈風を喚ぶ。

それは瘴気の波動となり、辺りを吹き飛ばした。

「がふっ!?」

ダメージを負いつつも百道は構わず大太刀を一閃。

しかしメズスは天へと飛翔。

「貧相な攻撃だな」

背の大羽を大きく羽ばたかせる。

翼の先端から暴風が発生する。

それは風の矢だ。凄まじい速度で襲いかかる。

「っ、土式・土幻壁っ!」

咄嗟に百道は大地に手を打ち付けて、術理を作動。

百道の前方の大地が大きく隆起。縦長の土壁を形成する。

「そんな薄膜で防げると思うなよ、小僧」

メズスがニヤリと口角を歪ませた。

「っ‥‥!」

──何か来る。

そう直感した百道は、突発的に後退。

恐らく、翼に何らかの術理を仕込んでいたのだろう。

案の定だ。

暴風がうねり、渦巻き乱気流となり、そして竜巻を形成。

駒の如く回転し、大地を削ぎ始めた。

耳障りの悪い旋削音と破砕音。

つい先刻まで百道がたっていた足場が木っ端微塵に粉砕されていた。

間一髪だった。もし直撃していたら百道は挽肉だ。

命の危機に瀕し、呼吸が浅くなる。

「ほら次だ。行くぞ」

夜空に浮かんだメズスが身を捩り、翼を捻っていた。

翼が虚空を殴り、がばっ!と透明な壁に近い衝撃波が放たれる。

百道は咄嗟に横に飛び移り攻撃を回避した。

「っ、このままではっ」

ふと、百道の膝が笑い出し、膝小僧が地にひれ伏す。

纏っていた幻力がたちまち霧消し、総身からごっそりと力が抜け落ちるこの感覚。

「なっ、もう、なのか!?」

百道の体力が限界を来たした証だ。

百道がメズスと渡り合っていたこの数分は、言わば火事場の馬鹿力によりだ。

だがそれは生身の人間が馬に勝負を挑むようなものであり、いずれ競り負けるのが必至。元来、人間と星霊では内包する幻力に差がありすぎるのだ。

最も、百道の敗因はまた、別の所にあるのだが。

「あれほど弱かった小バエがよく戦ったものだ。だがこれまでだな」

侮蔑の嘲弄。メズスが翼を弓形に構えた。

「永遠に眠るがいい」

百道の歯が、カチカチと音を鳴らす。

それは恐怖から来る行為ではなかった。

百道は手ずから屠れなかった屈辱を噛みしめ、「確かに俺はここまでだ」と空を指し示した。

夜空に、短身痩躯の影が揺らめいている。

「選手交代だ」

「──何っ!?」とメズスが頭上を仰ぎ見たその瞬間。

「ふんラァ!!」という怒声と共に、陽光のような煌めきが走り、半瞬後メズスに何かが炸裂した。百道の目には、足蹴のように見えた。




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