意義のある無意味
マリの部屋に入ると、そこには以前から変わらない光景が広がっていた。机の上には、ノートやペンが雑然と置かれ、壁際の本棚には、すっかり読み込まれた古い本が並んでいる。ただ、その空気には何か張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「久しぶりだな、マリ。なんだかんだで、直接会うのはずいぶん久しぶりじゃないか?」
タケルは軽い調子で話しかけたが、マリはちらりと振り返るだけで返事をしない。彼女の目はどこか疲れていて、口元には微かに苦笑が浮かんでいた。
「プリント、これ。先生から頼まれた。」
タケルは鞄からプリントを取り出し、机の端にそっと置いた。マリはそれを一瞥しただけで、また自分のノートに視線を戻す。彼女の手元には、何やら言葉がびっしりと書き込まれているノートがあった。
「何書いてんだ?」
タケルが尋ねると、マリは少しだけ迷ったようにしてから、小さな声で答えた。
「詩…」
その一言に、タケルは少し驚いたような顔をした。炎上してから、彼女がもう何も書かなくなったと思っていたからだ。
「まだ書いてるのか?」
「うん。でも、これはもう誰にも見せられない。ただ、自分のために書いてるだけ。」
マリは淡々と答えるが、その声には明らかに悲しみが滲んでいる。
タケルはその言葉に少し胸を締め付けられるような気持ちになった。マリの書いた詩の「檸檬色の悲しみ、どこか甘くて酸っぱい涙の味」という表現が、「涙の主成分からそのような味はしない」と炎上し、追い詰められたのを知っている。だが、彼女がそれでも書き続けていることが、どこか儚くも力強いと感じた。
「俺さ、詩も物語なんて意味ないと思ってたんだよ。昔、じいちゃんから聞かされても、所詮はデマの温床だろって。でも…マリ、なんでそれでも書いてるんだ?何のために?」
タケルは、自分でも意外なほど真剣な声で尋ねていた。
マリは少し目を伏せ、ペンを握りしめたまま静かに答えた。
「何のためか…分からない。でもね、書くことで私は生きてるって感じられるの。物語や詩なんて、この世界ではもう意味がないものかもしれない。でも、意味がないからこそ、そこに何かがある気がするの。」
その言葉にタケルは返す言葉が見つからなかった。ただ、自分がこれまで感じていた虚しさと、どこかで似ているものを彼女が抱えているのだと気付いた。
マリがふいにノートを閉じ、タケルをじっと見つめた。
「タケル、お願いがあるの。」
「…なんだよ?」
「君も何か書いてみて。」
その言葉にタケルは目を丸くした。
「俺が?無理だろ、そんなの。物語なんて書いたことないし、だいたい俺、物語の意味なんて分からないし。」
タケルは戸惑いながらも拒否するが、マリは真剣な眼差しを崩さなかった。
「タケルだって、この世界のこと、変だと思ってるんでしょ?だったら、少しでいい。物語がどういうものだったのか、自分の言葉で書いてみて。それだけでいいの。」
その懇願に、タケルはしばらくの間沈黙していた。だが、彼女の真剣な表情に心を揺さぶられ、やがて深いため息をついて答えた。
「分かったよ。でも、期待すんなよ。」
その夜、タケルは部屋で初めてノートを広げた。ペンを手に取るが、何を書けばいいのかまったく分からない。ただ、目を閉じてみると、ふいに祖父の言葉や、かつて聞いた「物語」の話が脳裏をよぎった。
「物語って、一体なんだったんだろうな…」
そう呟きながら、タケルはペンを動かし始めた。最初はぎこちなく、何も書けない自分に苛立ちすら感じたが、やがて心の中に浮かぶ小さなイメージをそのまま文字にしていくことができるようになった。
気づけば、タケルは夢中になっていた。自分が生まれる前の世界には、想像の翼でどこまでも広がる物語があった。それは現実の枠を超え、どんな制約もなく、ただ自由に紡がれていた。そんな世界を思い描きながら、タケルは物語を書き続けた。
翌日、タケルはマリの家を訪れ、自分の書いたノートを差し出した。
「書いてみたけど、これでいいのか分からない。」
マリはそのノートを受け取り、静かにページをめくり始めた。タケルは恥ずかしさで俯いていたが、やがてマリの小さな笑い声が聞こえて顔を上げた。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「タケル、これ、とってもいい物語だよ。」
マリは心からの笑顔でそう言った。その瞬間、タケルは物語を書く意味が少しだけ分かった気がした。
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