マルチにご用心

荒木明 アラキアキラ

第1話

 卒業後疎遠になっていた高校時代の友だちから突然連絡が来た、「今週末久しぶりに会わないか」ということだ。田舎から上京し、三年目の冬のことだった。模範的で平凡な大学生である俺、多元千歳たもとちとせは、その模範的で平凡な日々に訪れたイレギュラーを無邪気に楽しみにしていた。

 約束の時間午後九時半にファミリーレストランに着いて彼の話を聞くまでは。


八雲やくも、それマルチだよ」


 ファミリーレストランの奥の角席。向かいのソファー側に座る八雲明飛やくもあきとは俺の言葉にまるでアメリカのホームドラマみたいに目を丸くする。その大袈裟な表情は高校時代に「隣のクラスのミキちゃんお前のこと好きらしいぞ」と聞いた時の表情と同じで、人は変わらないんだなと思った。八雲は変わっていない。それゆえに八雲の口からあんな話が出てくるなんてショックだ。


「えぇ、なんでぇ!?マルチじゃないよぉ。もう一回ちゃんと話聞いてみ」


 八雲はくせっけをふわふわと揺らして抗議する。八重歯には今食べているイチゴパフェの生クリームがついていた。彼の天性の人懐っこさに俺は圧倒されそうになるが、冷静に「おう、もう一回話してみ」と言った。


「まず今って不景気やん?」

「おん」


 俺はコーヒーゼリーのチェリーをのけてつついた。半透明に黒く濁るそれを口に運びつつ相槌を打つ。そして客がまばらな店内をなんとなく見回した。高校生のグループが一組とカップルが三組とパソコン開いてるのが五人と家族づれが二組。そしてマルチの勧誘を受けている俺。この店はレストランの看板を下げるべきなんじゃないか?なんてくだらないことを考える。


「そうなってくると、俺たちのようなビンボー学生は犯罪に手を染めてしまうだろ」

「ああ、そうだな」


 八雲が今やっているそれが犯罪まがいなものである、その先には犯罪がある。八雲にはこの皮肉は伝わらなかったらしい。オレンジ色の照明は机に淡い影を落としていた。


「それを救うビジネスなんよ、これはぁ」


 八雲はどんと紙袋を机に置いた。ゼリーの上のチェリーが揺れる。店内はコーヒーの匂いで充満していた。チェーン店のファミリーレストランにしては、ここのコーヒーは美味しいということで有名だ。無料でおかわりもできるので、長話にはありがたい。いや、マルチの話など聞きたくはなかったのだが。


「この栄養ドリンクはすごいぞ。俺はずっと飲んでんだけど、ガチめに一日三時間睡眠でいけんよ」

「プラシーボ効果もびっくりだな」

「プラシーボじゃないよ。千歳も飲んでみろ効くから」


 「いや俺寝るの好きやし」と答える。砂糖は入れないから使わないティースプーン。ブラックコーヒーの中に「俺十二時間寝たぜ今日」と自慢してきた高校生の八雲の顔が見えた。かき消すように俺はそれを飲み干す。


「まぁいいや。千歳が気に入らんでも、これが必要な人はいっぱいいる。だからこれは売れる。だから俺はこの百瓶を千歳に売るんよ。それで千歳は百瓶を売る。千歳がさばききれないなら他の人に売って、その人も売るんよ。現に俺も全然捌けんなって思って師匠に相談したら信用できるやつに頼めって言われたから、今日千歳と会ってる。あ、そんで千歳を紹介したら、千歳には五万、俺には一万入ってきて…」

「いやそこ!!そこが思いっきしマルチ」

「だからこれは若者を救うビジネス!!」


 八雲はばんと机に手を置いて立ち上がる。こちらに急いでやって来た、たぶん一つか二つ年上の美人な店員さんに「お静かに」と言われ、八雲は大人しく座った。カップルたちがこちらを見てひそひそと話し始める。非常に居心地が悪い。これでは無料のおかわりも気まずくてできないではないか。コーヒーカップの底を見ながら俺はため息をついた。


「てか師匠ってなに気持ち悪い」

「気持ち悪いゆーな。師匠はすごい人。俺が大学馴染めんくて、一人で煙草吸ってたら、声かけてくれたんだよ」


 カジュアルなジャケットを羽織る八雲の体は薄かった。もともと筋肉のある方ではなかったと思うが、少なくとも高校時代はこんなに骨ばってはいなかったと思う。ガチャガチャと他のテーブルやら厨房やらで食器の当たる音がする。


「お前、煙草吸うんだ」

「ん?あぁ、よく言うじゃん、喫煙所でダチできるって。だから吸い始めた。最初のうちはマジでむせるし、なんでこんなもんにハマるのか意味分かんなかったけど、しばらく吸ってたら、もう今じゃさないと生きてけねーわ」


 「てかそんなこと言われたら吸いたくなっちまった。わりぃ、いったん席外す」そう言って八雲は紙袋を置いて喫煙室に入っていった。この店を指定したのは今どきのファミリーレストランに珍しく喫煙室があるからか。ひたすらに甘党で、ひたすらに真っすぐで、ひたすらに無知。それが八雲。絶対この話はヤバい。その行為自体が犯罪まがいなものだし、裏に何がいるか分かったものじゃない。今は絶好のチャンスだ。このままバックレて、連絡先も全部ブロックすれば、俺はこの件に関わらずに済む。


 掌に金属の冷たさ、机の下でなんども回す。それに書かれた数字はいまさら確認するまでもない。

『1』

 高校生の笑い声、カップに残ったチェリー、飲み干した苦いコーヒー。


――87――


「わりぃついでにウンコ行ってた…って千歳お前顔色悪いぞ。ウンコするか?」

「…ウンコウンコ連呼すんなバーカ」

「『ウンコウンコ連呼』ってイン踏んでんな」


 八雲はそう言って八重歯を光らせて笑った。「ばっかじゃねーの」と俺は言う。カップルがまたこちらを見てひそひそと話し始めた。


「なぁ俺さぁ、やっぱりその栄養ドリンクの話はこれ以上聞きたくないし、お前から買うのも、俺が誰かに売るのもできないよ」


 八雲の顔から瞬時に笑顔が消えた。こんな状況だと言うのに罪悪感を感じてしまうような顔だ。


「そっか、じゃ急に呼び出して悪かったな。ここの金は俺に払わせて」


 八雲はそう言って、底の生クリームをこそいごうと躍起になった。俺はパフェの器に残ったチェリーを落とした。八雲はやはりあの海外ドラマみたいなオーバーリアクションでこちらを見る。


「でも俺、お前の話なら聞きたいよ」


 我ながら臭いセリフになってしまった。これでよかったのか。もしまた間違っていたのなら…


「うぇ…?俺の、話?」


 八雲は落ち着きなくあたりを見回す。


「そう、お前の話。一回でも栄養ドリンク出してみろ。俺は今すぐ特大パンケーキ注文してやるぞ、お前の奢りだからな」


 「千歳甘いの嫌いじゃん」「今だけ甘党になる」と他愛無いやりとり。それから「えっと、じゃあまぁ話す、かぁ?」と八雲は後頭部を掻きながら話し始めた。最初の頃はぽつりぽつりと、高校時代の馬鹿をやった思い出かと思えば大学の教授に怒られた話など。あの頃より話が下手になったなと思った。それはあの頃の俺が幼かったからなのか。それとも八雲はマルチ以外の、お喋りを忘れてしまったからなのか。


「それでぇ!!デート三回行って、イケるかなって思ってうち呼んだらさ、『なんか…うん、なんかだね』って言って終電前に帰ったんだけど信じらんなくない」

「お前んち今どんな感じなんだよ」


 八雲は「どんな感じ言ってもな…」そう言って顎に手を当てて天井を仰ぐ。天井には偽物の木目が書かれている。確かデカルトは天井の木目に泊まるハエを見て座標の考え方を思いついたんだよな。


「あ、写真あるわ」

「おう見せてみ」


 八雲はスマホを取り出し、大量の写真をスライドしていく。高校の時、八雲はよく友だちのスマホを奪って勝手に自分の変顔をフォルダに残していた。いつしか、寄り目の写真があると金運が上がるとか、白目は判断能力が宿るとか、歯が見えてるのは護身になるとか変な噂が生まれた。現に俺のスマホにも白目をむく八雲の写真が残っている。

 しかし今の八雲のスマホは、栄養ドリンクの写真と、おそらく売り上げと思われる数字が書かれた白い紙、そして有名人とおそらく八雲が『師匠』と言っていた人間だと思われる知らない誰かのツーショットで埋め尽くされていた。

 二年前の四月で八雲は指を止めた。引っ越した日に撮ったであろう部屋の写真だ。


「うわぼっろ」

「いや確かにぼろいけど、今は間接照明とか置いてあっておしゃれだから」


 それはよく心霊の背景になってるような部屋だった。色の抜けた畳。茶色い壁、黄ばんだカーテンレール。


「お前畳の部屋に関節照明置いてんのかよ」

「ダメかよ。女の子は間接照明が好きなんだろ」


 畳にちゃぶ台に、敷布団に突然現れる間接照明。思い浮かべただけでミスマッチだと分かる。間接照明もきっと肩身の狭い思いをしているに違いない。


「畳のまんまじゃ中途半端でしかねーだろ。普通に合ってなくてダサいわ」

「そんなハゲはダサいけどスキンヘッドはカッコいいみたいな話なん?」


 ハゲをあまり言うと、将来自分に帰ってくるぞと言いかけてやめた。それこそ自分に返ってきそうで恐ろしい。


「例えはまぁ意味わからんけど、なんつーか。必死感がキモいんじゃね?余裕見せろ余裕を」

「中途半端なのに必死感なのかよ。ムジュンだムジュン」


 八雲はテストで点が取れるタイプではなかったがこういう時だけ頭が回る。あの頃から地頭は良いんだろうなと思っていた。そういえば、大学はどこに行ったのだろう。一人暮らしをしているし、今日ここで集まったんだから俺と同じように地元を離れ、東京の大学に来たんだろうが。俺は気になって「そういえば八雲って大学どこなん?」と聞くと、聞いたことのない名前が返って来た。彼は「知らないだろ?マジで底辺だから」と自嘲気味に笑った。俺はどうしていいか分からず口元を引きつらせる。


「俺、現役んとき地元の国公立落ちてさ。でなんか結局そこに落ち着いてたわ」


 「そっか」俺はその後に続く言葉を探す。まるで宙のハエを追うように視線を彷徨わせる。しかしそのハエは木目の上に止まることはない。


「うっわーやっべー。俺高校の友だちに初めて受験の話とかできたわ」


 八重歯が光る。店の壁にかかった時計は15°ほど傾いていて、その長針が動くたびに落ちそうだ。今は午後10時30分。パソコンを開いているのが何人かいるだけであとはもう帰っていた。


「うちの授業やべーよ。英語のビー動詞から始まんの。教授もなんか可哀そうで見てらんないよ。出席率低すぎだし」


 いつの間にか端にのけられていた紙袋。八雲の顔が良く見える。


「高校ならさ、学校で話しかけて、学校で仲良くできたじゃん」

「そうだな」

「てか俺らもそうだよな。なんだっけ、なんで仲良くなったんだっけ」


 八雲には友だちがたくさんいた。大切な友だちだと思っているのは俺だけで、八雲からしたら大勢の内の一人でしかないんだろう、ずっとそう思っていた、嫉妬ではなくて、線引きのようなもの。だから忘れていても無理はないとすぐに納得ができる。だって本当に他愛もないことだから。

 高校の入学式後のホームルーム。『せんさい?え、お前何年生まれ?』と声をかけてきたクラスメイト。騒がしくて、無礼で、鬱陶しくて、そして構わずにはいられないやつ。それが八雲。席が前後になった時は、俺が椅子漕ぎして、背もたれを彼は掴んでいた。

『なぁせんさーい。ザビエル見たことある?』

『ねーよ』

『なぁザビエルのハゲ方っておもろくね?』

『あれはトンスラっていう髪型な。ハゲじゃねーよ』

『え、見たことあるん?』

『なんでそうなる』

 帰り道、アイスを食べながら歩き帰る。八雲が突然「あっ」と叫んだ。道路に白い小さな塊が見えた。八雲はすぐに走り出した。俺は八雲の手首を掴む。田舎だからって調子に乗った速度を出すトラックが通り過ぎていった。その白い塊は宙に飛ぶ。そう、子猫のように見えた白い塊はただのビニール袋だったのだ。心臓が解放されたように脈を打つ。二人で向かい合って、そしてぷっと吹き出した。

 夏の風が吹いている時は、どうしてもこれから冬がくるなんて信じられなくて。あの一瞬はまるで永遠のように繰り返されていて。そして突然終わりを告げられる。


「大学入ってからはさ、バイトしたら全部生活費と学費で消えちゃうし、サークルとか旅行とか飲みとかそんな余裕なかったんだよ。そしたら、友だちできねーんだな」


 一周で、順応できるほうがおかしいのかもしれない。

 

「そんな時にさ、師匠に会って。金ないし、一人だしっていう俺をさ、組織に歓迎してくれた。何回か顔出して、そのうちに俺の居場所はここだって思ってさ。それで入会金の50万かき集めて、払ったわけ」

「なぁ、師匠も、その組織も、お前を騙そうと…」

「俺だって気づいてんよそんくらいっ!!」


 八雲は唇を噛んでいた。かさつき皮の捲れた唇に、八重歯が刺さり、血が出ていた。


「気づいてんよ、気づいてんよ。でも、でもっ。俺の必死で出したもう返ってこない50万とか、肺ダメにして出会った人とか、優しくしてくれた人の笑顔とか、自分で選んだ居場所とか、全部、全部嘘だって思いたくないじゃんかよっ!!」


 震わせた拳に、涙がぽつりぽつりと落ちた。最初はおしゃれで伸ばしているのかと思ったが、その不器用にどこかしこがぴょんと跳ねている結び方からして、髪は余裕なく中途半端に伸びてしまったらしい。

 不器用に、必死に、中途半端に、生きて。


「戻れない選択とか失ったものとか帰れない居場所とか、そんなんばっかになってんだよな」


 手の内の金属を滑らせる。八雲は泣きながら、俺の言葉を聞いていた。


「マジで、なんなんだろうな。ゴミみてぇな世界だよな」


 数字は『1』から『0』に変わっている。どうせ帰れない居場所だったんだ。


「でもさ、俺、高校の入学式の日にお前に話しかけられて、それでなんか、それまでの選択も肯定できたし、失ったものも全部いいやって思えたし、新しい居場所ができたような気がしたんだよ」


 俺は言いながら、自分の耳の先が赤くなるのを感じた。こんな恥ずかしいこと二度と言いたくはない。しかしそれと同時に、もしこれが間違っていても、この言葉を伝えられて良かったと、この選択を肯定できるなと思った。


「八雲、ごめん。俺お前のことなんも考えずに全否定してた。その師匠とか、組織とかってのは、俺にとってのあの日の八雲と変わらんのかもしんない。

でも、話聞いてる限り、やっぱりそれはマルチ商法で、お前にとっても社会にとっても良くないことだ。だから、俺、お前を助けたいよ」


 喋りすぎた。すっかり喉が渇いてしまっている。コーヒーカップを持ち、傾けるがそこには何もなかった。そうだ結局おかわりをし忘れていた。


「千歳、俺んこと助けてくれんの?」


 八雲の目は涙のせいで潤んでいた。俺は頷く。


「こーゆー勧誘したのは俺が初めて?」


 俺の質問に今度は八雲が頷く。別の人を巻き込んでしまっていなくてよかったと安堵する。


「ていうか本当、ごめん。こんなことに、勧誘して。俺、分かってたんだ、だから他の人巻き込むのはためらってたんだけど、でもやんないと組織にいられなくって、それで…ごめん言い訳だわ」


 八雲は机に当たって音がするまで頭を下げた。何が若者のためのビジネスだ。金銭、精神全てを使って若者をコントロールし、搾取する、醜悪なシステムだ。


「なぁ…。また飯誘ったら、千歳、来てくれる?」


 組織との繋がりを切ったら、社会との繋がりがなくなってしまうのではないかという恐怖、それが八雲を縛り付けている。


「お前のおごりな」


 俺はそう言って笑った。八雲も笑った。吹くだけで肌が切れてしまいそうな冬の風。


「俺さ、今日の夢に、千歳が出てきたんだよ。千歳に手首掴まれて、何言っても無反応で、なのに離してくれないっていう意味わかんない夢」

「お前の中の俺はどういうイメージなんだ」


 「でもそういうことじゃんね」と八雲は言った。彼は高校時代の友だち五人ほどに連絡をしたらしい。しかし返って来たのは俺だけだったそうだ。


「本当に、ありがとう。明日のゴミにこの栄養ドリンク百瓶出してやるわ」


 そう言った直後に俺はあることに気がついて「あ」と言った。そしてラストオーダー一分前、午後10時59分に呼び鈴を押す。八雲はそこで気がつき「あ!!」と大声を出した。「お静かに」のお姉さんが不機嫌そうにやってくる。申し訳なさがこみあげてくるが、今更引けない。俺はメニューを開く。


「『イチゴの冬、豪華三段重ねパンケーキ』を一つ」


 十分後、パンケーキは到着した。閉店二十分前、店には俺たちしかいない。俺は甘いものが得意ではないので、クリームをよけながら食べる。そしてそのよけられたクリームの塊を八雲が食べていた。


「なぁ、俺、千歳の話聞きたい」


 俺が切り分けたパンケーキをかっさらいながら、八雲はそう言った。


「別に俺面白い話ないよ」

「俺だって別に面白い話じゃなかったし…」

「畳に間接照明はギャグだろ」


 「もーうるさいなぁ」と八雲は口を尖らせる。そしてその目に不安を宿す。不信感、あの部屋に置かれた間接照明のような、肩身の狭さ。


「…じゃあ、俺が、最近見た映画の話していい?」


 八雲はソファー席に座り直す。そんなに真剣に聞かれてもな、と俺は苦笑いをする。


「2011年、ある物理学者がこの世界に座標を作った」

「座標?物理学者?あー何、SF?」

「まあちょっとサイエンス要素はあるな」


 興味がない素振りを見せないように頑張っているのが丸分かりだった。


「時は飛んで3011年」

「飛び過ぎじゃねっ!?千年?千年飛んだん?」

「一旦黙って聞けよ」


 八雲はむっと口を閉じる。


「また別の物理学者が、ある装置を完成させた。量子力学的分岐点反覆装置という名前で、金属でできた小さな三角錐のもの」

「致死量の漢字なんだが」


 俺はカバンからペンを取り出し、机の上にあるナプキンを一枚とって『量子力学的分岐点反覆装置』と書いた。「よく覚えてんな」と八雲は笑う。


「それには二つの数字盤があって、それぞれ座標を書き込める残り回数といくつ分岐したかの回数が表示される。左側のボタンを押せば、座標を書き込んだ時空間に好きな回数だけ転移ができる」

「要はタイムリープものってことか…?」


 俺が「ちょっと違うな。多元宇宙論って知ってるか?」と言うと、八雲は「知るわけないだろ」と肩をすくめる。俺はもう一枚ナプキンを取り出して、そこに『多元宇宙論』と書く。「いやだから、漢字で書かれても分からんて。てか千歳の苗字と一緒じゃん」八雲は全くピンときていないらしい。俺は『多元宇宙論』と書いた上にルビを振った。『マルチバース』と。


「マルチ…!?」

「そこに反応すんなよ。まぁとにかく、人の選択の数だけ宇宙が分岐するって考え方だ。よく分かんなかったら、まぁとりあえずへーそうなんやーでいい」


 八雲はわざとらしく「へーそうなんやー」と言ってパンケーキを食べた。


「それで、この映画の主人公はその装置を作った物理学者の五歳の息子なんだ。それで、何も知らないそのガキはある日ボタンを押してしまう」

「面白くなってまいりましたー!!」


 八雲は、てっぺんのイチゴを取っていいものだろうかとこちらをうかがう。俺は頷いた。八雲はたとえ首を振っていたとしても食べていただろうなという勢いでイチゴにフォークを突き刺した。


「冒頭覚えてるか?2011年に座標があっただろ。それで、その主人公は2011年、彼からすると千年前にたどりついてしまうんだ」

「うわ、最悪すぎるなそれ」


「そう、最悪なんだよ。そこから彼は色々あって、左を押せば一個前に書き込んだ座標に行けて、右を押せば座標を書き込めることに気がつく。そして左ボタン、分岐の繰り返しには限りはないけど、右の、座標を書き込める回数には限りがあることに気がつく。それは最初に書いてあった数字、5回だった」


「それで、その主人公はその装置で一周で引けたら奇跡とも言えるようなことを起こして、成長し、十年後、高校に入る」

「え、じゃあ入試何回でも受けれるん?」

「ああ、入試前にボタンを押せばな。だけど、主人公はしなかった。主人公が使ったのはスムーズに児童養護施設に入ったりするためだな」

「カッケーな主人公」


 八雲が目を輝かせているので、俺は「まぁ別にそんな高尚な考えがあったわけじゃないけどな」と言った。


「それで高校に入る頃には残りは2回になってた」

「2回か…ん?今思ったけど、その主人公は千年後に戻らないのか?」

「戻らないんじゃなくて戻れないんだよ」


 俺はナプキンにペンでグリグリと丸を描いた。


「主人公は3011年に座標を書き込んでないから」


 八雲は「あ、そっか」とフォークを置いた。それはまるで、茶化そうとしたわけではなく、本当に間違えて友だちの失敗をもう一度聞いてしまった高校時代の八雲だった。


「主人公は、その装置を持っているがゆえに、現状に疑問を抱きながら生きてるんだ。そんな生活で一人の友だちが出来て、それで、高校時代、その友だちを救うために一回使う」

「残り一回じゃねぇかよ。こいつやっぱかっけーな」


 俺は「だからそんな高尚じゃないんだけどな」と笑う。


「そんで、その残り一回を、主人公はずっとずっと御守りのように持っていた」

「まぁそうだよな。だっていつかその千年後に戻れるチャンスが来たら何度もチャレンジしたいよな」


 二人の間の『イチゴの冬、豪華三段重ねパンケーキ』はなくなっていた。やはり口の中が甘すぎる。コーヒーを飲みたい。


「それで、大学生になって、その友だちが、またピンチになる。で、主人公は悩んだ挙句に最後の一回を使う」

「やっぱかっけー!!それで、主人公はその友だちを救うんだよな」


 「そうだよ」そう言おうとして、喉が詰まった。砂糖、それこそ致死量の砂糖、それが俺の喉を絞める。


「…ラストは、よく分からないんだ。その選択が正しかったのか、分かるのは何年も後、分からない時だってある。それに、それにこれはタイムリープじゃないから…」


 パフェの器に取り残されたサクランボの種。ところどころにまだ赤い実がついている。多元宇宙論。それはどの分岐の先に生まれた宇宙も、平等に存在しているからこそ移動ができるということ。


「分岐の数だけ、様々な苦しみ方をする友だちがいて、それを何度も何度も主人公の納得のいく結末を引くまで生み出し続けるのは、結局主人公の自己満足だったんじゃないかって…」


 今この瞬間も、何十もの彼が苦しんでいる。所詮、分岐は逃げだ。俺は目の前の八雲からも逃げるように視線を机に落とした。


「正しいことって何…」


 体の中身が全部逆流してくる。押し殺してたため息とか咳払いとか嫌悪とか涙とか。カップの中は空っぽだ。コーヒーで全部、自分の中に戻したいのに。


「千歳、でもさ、それ。その分岐の数だけ苦しんでる主人公もいるんだよな」


 俺ははっと息をつめて、八雲を見る。八雲は窓の外を見ていた。


「それって、なんか。ゴミみてぇな世界だな」


 窓の外は、都会特有の肌に当たればすぐに溶けてしまう、幻のような雪が降っていた。街路灯の光に当てられ、ちろちろとその姿を輝かせている。しかしその周りはやはり都会で、一面が灰色である。複雑に絡み合ったパイプ、ガムの張り付いた地面。

 ゴミみてぇな世界で、一瞬だけの輝きを望んで、何度でも、何度でも。


「お客様、大変申し訳ないのですが閉店のお時間となりましたので、お帰りの支度をお願い致します」


 「お静かに」のお姉さんがやってきて、そう言った。15°曲がった時計は、16°くらいになっている気がする。時刻は11時30分。俺らはあわただしく帰り支度をする。栄養ドリンク百瓶が、持ち上げたりなどするたびにだぷだぷとうるさい。

 結局、勘定は割り勘にした。


「俺マルチから、どうにかして抜けるから、生きてたら、飯行こう」


 ファミリーレストランは俺たちが出るなりわざとらしくシャッターを閉めた。やはり外には雪があった。八雲が一音一音を発するたびに白い息が漏れる。


「待ってる」


 俺は待つことしかできない。


「あ!!千歳!!」


 手を振って別れ、反対の方向に数歩歩き、コートの上に雪が乗っては消えてを繰り返した中、八雲の声に振り返る。


「俺、その映画観たいんだけど、なんてやつー!?」


 鼻先が赤い。

 騒がしくて、無礼で、鬱陶しくて、そして構わずにはいられない。

 不器用に、必死に、中途半端に、生きて。


「『マルチにご用心』ってやつ」


 「なんだそれ、ダッセーな」と言うのが聞こえた。俺は「うるせぇ」と呟く。

 今だけは、どんなことになっても、俺はこの世界を肯定できる。

 そんな気のする、ある冬の日の話だ。



 





 


 

 














 


















 







 

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マルチにご用心 荒木明 アラキアキラ @ienekononora0116

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