試験
沢田和早
試験
日曜日、いつものように先輩のアパートで昼食を済ませた僕は、一年中出しっ放しになっているコタツ机の上にテキスト、ノート、筆記用具を並べた。
「じゃあ先輩、頼みますよ」
「任せろ。俺に依頼した時点でおまえはすでに大船に乗っているのだ。はっはっは」
コタツ机の向かいに座り、尊大な顔をしてふんぞり返っているのは僕の先輩だ。
先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。
同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。
「こんなことで先輩の手を煩わせるのは不本意なんですけど、明日の試験を落とすとマジでヤバイんです。よろしくお願いします」
「うむ。おまえが単位を落として留年してしまってはわざわざ浪人生活を送っておまえと同級生になった俺の努力が無駄になってしまうからな。惜しむことなく協力してやろう」
わざわざ浪人生活を送ったなんて、普通の学生が言ったら負け惜しみにしか聞こえないが、先輩の場合はまったくそんなことはない。
先輩は幼少期から神童と言われるほどの天才で、世界中どこの大学でも合格確実と太鼓判を押されるほどの高校生だったからだ。
それなのに敢えて一年浪人し、おまけに僕と一緒にさほど偏差値が高いわけでもない地方の大学に進学した理由は今に至るまで謎のままだ。
「どうしてこんな大学にしたんですか。先輩ならもっといい大学に行けたでしょう」
「そりゃおまえと同じ大学に通いたかったからさ」
入学直後のこの回答は単なる冗談としか思えなかったが、今になってみると本心だったのではないかという気がしないでもない。
考えてみると先輩には友人と呼べる人物は僕しかいない。小学生の頃から先輩は一人でいるか僕といるか捕まえた青大将をリボン結びにして校長先生の首に掛けようとしているか、そんな姿しか見たことがなかった。
大学生になった今でも僕以外の友人はいないようだ。もし僕とは別の大学に行っていたら、きっと一人ぼっちの学生生活になっていたことだろう。それは人付き合いが苦手な僕にしても同じなので、先輩の選択は僕にとっても有難いことだったと言える。
「じゃあ、さっそく始めましょう。明日の試験範囲はここからここまでなんですけどノートの持ち込み不可なんですよ。どの部分をどんな風に重点的に勉強すればいいか、ご教授ください」
「全て覚えればよい。以上だ」
一言で終わってしまった。なんだか嫌な予感がする。
「えっ、それだけですか?」
「それだけだ。文系でも理系でも試験なんてもんは範囲を全て丸暗記すればそれで終了だ。頑張れ」
そう言うと先輩は寝転がって本を読み始めた。後悔の念がひしひしと押し寄せてきた。いったい僕は先輩に何を期待していたんだろう。こうなることはわかっていたはずなのに。
「覚えればいいのはわかりますけど、僕の頭は先輩みたいに優秀じゃないんです。範囲全部丸暗記なんか無理ですよ」
「だったらヤマを掛けて部分的に覚えればいい。満点は無理でも及第点くらい取れるだろう」
「それだって無理です。僕の記憶力が壊滅的に貧弱だってことは先輩だってわかっているでしょう」
「やれやれ、世話の焼ける奴だな。ならこれをやる」
先輩は起き上がるとポケットからボールペンと絆創膏を取り出した。ボールペンは赤黒の二色ペン。絆創膏は幅が三センチほどの大判サイズだ。
「いや、ボールペンは持っていますしケガはしていないので絆創膏も不要です。そもそも試験勉強とは何の関係もないでしょう」
「ふっ、相変わらず見る目のない奴だな。これはただのボールペンではない。暗記パンならぬ暗記ペンである」
それから先輩の長い説明が始まった。昔、辞書のページを破って食うことで暗記をしようとした学生がいた。それを改良して未来猫型ロボットは暗記パンという秘密道具を開発した。今回先輩が開発した暗記ペンは消化吸収という手段ではなく神経を刺激することによって直接脳細胞に情報を叩き込むという代物なんだそうだ。詳しい解説はまったく理解できなかったので省略するが、使い方は次の通りである。
一 絆創膏を首の後ろに貼る。
二 息を止めてボールペン黒の先端で体の一部を刺激する。呼吸が停止している間に知覚された内容は、絆創膏から発せられる記憶細胞励起電気信号によって脳細胞に蓄積され、呼吸が再開された時点で記憶の蓄積は停止する。
三 蓄積された内容を想起するには、ボールペン黒で刺激した部分をボールペン赤の先端で刺激すればよい。つまり黒が記憶入力、赤が記憶出力である。
「息を止めている間しか覚えられないんですか。そんなのせいぜい一分程度でしょ。意味がないですよ」
「そうでもないぞ。最大使用回数は十回だからな。つまりトータルで十分間の内容を覚えられる。それも確実にだ。記憶力貧弱なおまえにとっては十分価値があると言えるだろう」
むむ、確かにそうかもしれない。しかし先輩の説明を鵜呑みにするのは危険だ。これまで先輩の珍発明によって何度煮え湯を飲まされたことか。記憶を蓄積するのではなく記憶を消去されてしまう可能性だってあるのだ。
「本当に覚えられるかどうか試してもいいですか」
「いいぞ。さあ覚えろ。ナモー ラトナトラヤーヤ ナマハ……」
「ちょっと待ってくださいよ。まだ準備ができていません」
「おっと、そうだったな。よし手伝ってやる」
先輩は首の後ろに絆創膏を貼ってくれた。ボールペンをノックして黒軸の先端部を露出させる。結構尖っていて痛そうだな。
「刺激するのはどの部分でもいいんですか」
「いいぞ。目でも鼻でも舌先でもな」
取り敢えず左手親指の付け根にしておこう。ボールペンの先端を押し付け、大きく息を吸って止める。
「どうぞ!」
「ナモー ラトナトラヤーヤ ナマハ アーリヤーミターバーヤ……」
合図と同時に先輩が喋り始めた。時計を見ながら息を止め続ける。一分が過ぎた。苦しい。ゆっくり息を吐き続け一分三十秒ほどで諦めた。
「はあはあ。先輩、もういいですよ」
「よし。次は赤軸の先端で記憶を出力してみろ。ほれ、これが今、俺の喋ったサンスクリット語だ」
差し出された紙には意味のわからないカタカナが羅列している。これがなきゃちゃんと記憶されたかどうか判定できないもんな。
「やってみます」
赤軸の先端で親指の付け根を押した。すぐさま頭の中に先輩の声が聞こえてきた。
「おおお!」
感動の声が漏れてしまった。紙に書かれた通りの言葉が頭の中で響いている。本物だ。この発明は大成功だ。信じられない。先輩がこれほどまともなモノを作り出すなんて。
「再現されています。頭の中に先輩の声が、紙に書かれた言葉が、僕の中で再現されています。凄い。先輩、凄いですよこれは」
「そうだろう。俺の凄さがわかっただろう」
「はい。これで明日の試験は満点は無理でも及第点は取れそうです」
「今一回使ったから残り九回使用可能だ。どこを記憶すべきかよく吟味して使うように。それから絆創膏は貼ったままにしておけ。はがすのは試験が終わってからだ」
「わかりました」
それから僕はこの記憶ペンを使って重要と思われる九カ所を記憶した。
翌日、自信満々で試験に臨む。刺激した部分は左手五本指の付け根と第一関節だ。
「おっと、さっそく出たか」
ヤマが当たった。ここは人差し指第一関節で記憶した内容だ。さっそくボールペンの赤軸で刺激する。頭の中にテキストの文章が再現される、はずなのだが、
「あれ?」
再現されたのは先輩の声だった。僕らが通っていた小学校の校歌を歌っている。そう言えば僕が暗記している最中に暇だなあとか言いながら歌っていたっけ。
「なんてこった。テキストの内容じゃなくて先輩の歌を記憶してしまったのか」
気を取り直して別の場所を刺激する。今度はラジオ体操をする先輩の姿が再現された。そう言えば暇だなあとか言いながら僕の目の前で体操をしていたっけ。
「くそ。今度こそ」
だが次に再現されたのは煎餅を食べる先輩の姿だった。腹が減ったとか言いながら僕が持参した手土産の煎餅を食べていたっけ。
「どうなってるんだよう」
半ば諦めながら残りの部分を刺激する。どれもこれも脳内に再現されるのは先輩の声、先輩の姿、先輩が書いた文字、先輩の屁の臭い、そんなモノばかりだった。僕は暗記ペンをへし折った。それからは脳みそを絞れるだけ絞って試験に取り組んだ。
* * *
「ほほう、つまり大成功だったというわけだな」
翌日先輩に報告するとこんな言葉が返って来た。得意げな顔をしているので余計に腹が立つ。
「どこが大成功なんですか。暗記したかったテキストの内容は一文字も再現されなかったんですよ」
「だけど俺の声や姿はちゃんと記憶されていたし再現されたんだろう。大成功じゃないか」
「記憶したいモノが記憶されていないんだから大失敗です」
「いや、違うな」
先輩の得意げな顔がにんまり顔に変わった。
「暗記ペンは使用者が一番興味を抱いているモノを暗記するようにプログラムされているんだ。つまり記憶入力中のおまえが一番関心を持っていたのはテキストではなく俺だったのだ。だから俺を記憶してしまった」
「そ、それは……」
言い返せなかった。そりゃ目の前で校歌斉唱されたりラジオ体操されたり煎餅食われたりしたら、関心がそちらに向かうのは仕方ないだろう。
「それがわかっているのなら部屋の隅で静かに寝ていてくれればよかったのに。どうしてあんなに目立つようなことばかりしていたんですか」
「おまえがどれほど真剣に取り組んでいるか試してみたんだ。あれくらいで気が散るようではどんなに一所懸命試験勉強をしたところで無意味だぞ」
有難くも耳の痛い忠告だ。そして確かにその通りだ。僕は少々甘えすぎていたのかもしれない。
「わかりました。これからはもっと真面目に試験に臨みます。為になるご教示、ありがとうございました」
「うむ。わかればよろしい」
今回は完全に先輩にやられてしまった。しかし暗記ペンがまったく役に立たなかったわけではなかった。再現されたのは先輩の声や姿ばかりだったのだが、それを引き金にしてテキストの内容も思い出せたからだ。
昔の曲を聴くと当時のことを思い出すことがある。子供の頃食べていた料理を味わうと懐かしい光景が蘇ることがある。それと同じで、再現された先輩に付随して記憶したかったテキストの内容も脳内に蘇ってきたのである。そのおかげでなんとか及第点が取れたし単位も落とさずに済んだ。終わり良ければ全て良し。今回は無条件で先輩に感謝することにしよう。
試験 沢田和早 @123456789
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