高2の夏、君と超えた一線
せな
第1話 教室で始まる微熱
四月、高校二年生になったばかりの私は、新しいクラスの名簿を手に、少し緊張しながら教室の扉を開けた。まだほとんど知らないクラスメイトたちが、それぞれに新しい環境への期待や不安を抱えているのが、教室に満ちる独特の空気から感じられた。自己紹介、担任の先生の指示による席替え……四月の最初は、それだけで目まぐるしく過ぎていく。
中学からの親友とはクラスが離れてしまい、私は少し心細い気持ちを抱えながら、自分の席に着いた。周りを見渡すと、初日からグループで盛り上がっている人たちがいて、どうにも輪に入りづらい。自分から声をかける勇気もなくて、昼休みには一人で机に突っ伏していた。そんな私に、何人かのクラスメイトが「大丈夫?」と声をかけてくれた。
「新しいクラス、慣れた? 何か困ったことがあったら、いつでも言ってね」
「ありがとう。うん、まだちょっと緊張してるけど……」と答えると、「じゃあ、今度一緒にランチでもどう?」と、快活な笑顔で誘ってくれる子もいた。少しだけ気持ちがほぐれたけれど、それでも心の奥には、まだ拭いきれない不安が残っていた。
席替えで私の隣になった彼は、どこか静かで落ち着いた雰囲気をまとっていた。大声で笑うこともなく、積極的に人の輪に溶け込もうともしない。ただ、静かに周囲を見渡している。まるで、周囲の喧騒とは別の場所にいるような、そんな印象だった。最初は「少し無口な人なのかな」と思っただけだったけれど、いつの間にか、彼のことが気になり始めていた。
四月も終わりに近づいたある朝、少し早めに登校してみると、教室には誰もいなかった。ただ一人、彼が黙々と黒板や床を掃除していた。その姿は、誰かに頼まれたわけでもないのに、自分の役割をきちんと果たそうとしているようだった。周りが騒がしい時でも、彼はいつも変わらず落ち着いていて、その姿を見ていると、なぜか心が惹かれていった。
「同じクラスなのに、どうしてあんなに静かな存在感なんだろう…」
そんな疑問が頭の片隅にあるものの、彼と直接話すきっかけはなかなか訪れない。休み時間に友人から「隣の席の人、あんまり喋らないよね? でも、優しいって噂だよ」と聞くと、ますます彼のことが気になってしまう。彼のことをもっと知りたい、という気持ちが、日ごとに大きくなっていった。
ある日の授業中、プリントに書き込もうとして筆箱を開けたとき、手が滑って消しゴムを床に落としてしまった。慌てて拾おうとしたら、隣からスッと手が伸びてきて、消しゴムを差し出された。
「落ちてたよ」
短い言葉だったけれど、彼の声は優しく響いた。私は「ありがとう」と返すのが精一杯で、その瞬間、軽く目が合っただけで胸が高鳴った。まだ名前も知らないのに、どうしてこんなに意識してしまうんだろう。彼の指先が、ほんの一瞬だけ私の手に触れたような気がした。その時の、微かな温もりが、なぜか頭から離れなかった。
それからというもの、休み時間になると、彼の姿をこっそり目で追うようになった。自習時間に一人で黙々とノートを取る姿、昼休みに賑やかな教室の隅で本を読んでいる姿。彼はいつも一人でいるけれど、決して寂しそうには見えなかった。むしろ、自分の世界を大切にしている、そんな印象だった。
そんなある日の放課後、クラスメイトたちと「六月になったら紫陽花を見に行きたいね」と話していた。写真映えする有名なお寺があるらしい。
「いいね、行ってみたい」と私も言ったけれど、結局、みんなバイトや塾の予定が合わず、計画は立ち消えになってしまった。ショッピングモールやファミレスで「どうせならみんなで行きたいよね」と話していたけれど、誰もスケジュールが合わない。
「せっかく楽しみにしてたのに……」と、私が小さく呟くと、少し離れた席でカバンを整理していた彼が、こちらに近づいてきた。
「もしよかったら、紫陽花……一緒に行く?」
まさか彼から誘われるとは思っていなかったので、驚いて言葉を失ってしまった。彼は少し目をそらしながら、「予定がダメになったみたいだから……その、もしよかったら、だけど。」と、少し照れくさそうに付け加えた。まだ数回しか言葉を交わしたことがないのに、なぜか胸がじんわりと温かくなるのを感じた。彼の声は、いつもより少しだけ優しく、そして少しだけ緊張しているように聞こえた。
家に帰ると、リビングで母がテレビを見ていた。「ただいま」と声をかけると、「おかえり。今日は遅かったわね」と、いつものように返事が返ってきた。
「ちょっとクラスの子たちと話してたんだ。えっと、紫陽花を見に行く計画があったんだけど、みんな都合が悪くなっちゃって。そしたら……隣の席の人が誘ってくれたんだよね」
母は少し驚いたように目を丸くした。「そうなの? へぇ、なんだかいいじゃない。気をつけて行ってきなさいよ」と、軽い調子で言った。それだけのことなのに、私の胸はドキドキして止まらなかった。友達でもない男の子と二人で出かけるなんて、今まで想像もしていなかったからだ。もしかしたら、少しだけ期待しているのかもしれない。彼ともっと仲良くなれるかもしれない、と。
翌日、彼に「土曜日の朝、駅で待ち合わせでいいかな?」と聞かれた時、私は少し緊張しながらも「……うん、行きたい」と答えた。すると、彼の表情がパッと明るくなり、「じゃあ、楽しみにしてる」と、自然な笑顔を見せてくれた。その笑顔に、また胸がドキリとした。彼の笑顔は、どこか安心感を与えてくれるような、そんな気がした。
教室で始まった、この微熱のような気持ちは、これからどんな風に膨らんでいくのだろう。私は、自分でも抑えきれないワクワク感を抱えながら、カバンを肩にかけた。夏が近づくにつれて、彼の存在が、私の世界をゆっくりと変え始めている。それを感じながら、紫陽花の季節が待ち遠しくてたまらなかった。
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