第3話 小さな日常、新たな不安

 朝の光が、グリーンリーフ亭の窓辺を優しく照らす。

 アリーシャはベッドの上で軽く背伸びをした。昨夜は熟睡とまではいかないが、未来の研究所で機械的なベッドに眠っていたころを思えば、ずっと心地よく感じられる。

 35年前の世界――まだ国同士の戦争が大きく燃え広がっていない時代。この数日だけでも、アリーシャにとってはかけがえのない経験になりつつあった。


「朝食の支度ができてるよ。昨日の夕方に焼いたパンとスープを温めておいたからね」

 やってきたのは宿の女将。気のいい笑顔とちょっと甲高い声が、朝の空気を彩る。

「ありがとうございます、すぐに行きますね」

 アリーシャは小さく会釈をして部屋を出る。すでにパンと野菜のスープ、それに地元の果物を添えた簡単な朝食が食堂のテーブルに並んでいた。


 ふと、食堂の奥に視線をやると、兵士姿のマルクが待っているのが見えた。昨日も食堂で顔を合わせていたが、やはり朝から甲冑姿を見ると慣れない。

「おはよう、アリーシャさん。今日はゆっくり寝られた?」

「ええ、ぐっすり。まだ慣れないけど……落ち着く宿で助かってるわ」

 そう言いながら隣に腰をおろすと、マルクはどこか嬉しそうな笑みを浮かべる。


「実は今日はちょっと頼みがあってさ。兵舎で上官に、あのスリ騒ぎの一件をちゃんと報告したいんだ。アリーシャさんのおかげで解決したんだから、直接礼を言いたいって話で……」

「お礼だなんて……私、何も大したことしていないわよ」

「いやいや、それがなきゃスリ野郎は捕まらなかったって! で、朝食が終わったら兵舎に付き合ってくれないか?」


 どうやら、マルクの上官がアリーシャに直接会いたがっているらしい。スリの件で手柄を立てたこともあるだろうが、アリーシャの魔法に興味を持っているのかもしれない。

 正体を深く聞かれると面倒だけど……、とアリーシャは内心でため息をついた。しかし、いきなり断るのも印象が悪い。そこまで警戒されているわけでもない以上、最低限の顔つなぎはしておいたほうがよさそうだ。


「わかったわ。少しならお話に付き合いましょう」

「サンキュ! じゃあ食べ終わったら行こう」


 



---


 


 兵舎は、城壁のほど近くにある木造の施設だ。簡素な訓練場や武器庫が備えられ、常に数名の兵士が見回りや警戒任務をこなしている。

 入口付近で見覚えのある顔が出迎えてくれた。


「おお、マルク! そっちの女性が……例の?」

 門番のように仁王立ちしているのは、かつて城門でアリーシャを問い詰めた頑固そうな中年兵士――ランド軍曹。

「はい、彼女が今回の……」

「うむ。まあ、入りなさい」


 ランド軍曹は腕組みをしながらも険しい顔はしていない。アリーシャが控えめに頭を下げると、彼は「待っている者がいるから、ついて来い」と先導する。

 小さな廊下を抜け、奥の部屋へ入ると、いかにも精悍そうな壮年の男が机に向かって資料を確認していた。灰色の短髪に軽装の鎧。表情は真面目そのものだ。


「失礼します、隊長。マルクが連れてきました」

 ランド軍曹が声をかけると、男はゆっくり顔を上げる。


「おお、君が……。私はここの隊長、ベリックだ。今回のスリ犯逮捕に協力してくれたそうだな。礼を言う」

「はじめまして。アリーシャ・フェンブリックと申します。……でも、本当にちょっと助けただけですよ」

 アリーシャは控えめに挨拶を返す。ベリック隊長は優しげな眼差しで軽く微笑んだ。


「いやいや、マルクからも聞いている。魔法で足を絡め取って捕まえたんだろう? なかなかできることじゃない」

「昔、魔法の研究を少ししていたので……」

「ふむ。今のヴェルトナ町は人手不足でね。この近辺も治安が怪しくなりつつある。怪しい魔物の目撃情報も出始めている。君のような有能な人材なら、助力をお願いしたいところだ」


 ベリック隊長はそう言うと、机の横に置かれている地図を広げて見せた。そこには、町の西側に広がる森と街道が描かれている。


「ここだ。最近、行商が襲われる事件が起きてな。報告によると、凶暴な魔物……ゴブリンや大ネズミなどが集団化し、わずかな食料や積み荷を略奪しているらしい。被害はまだ軽微だが、放っておくと大事になるかもしれない」

「そこを調査し、可能であれば魔物の群れを蹴散らす。……隊長、それをオレたちにやらせてほしいんです」

 すかさずマルクが立候補する。ベリック隊長は苦笑しつつ「気が早いな」と呟くと、アリーシャに視線を向けた。


「どうだろう、フェンブリック殿。君にも同行してもらえないか? もちろん、危険を承知のうえでのお願いだが」


 アリーシャはわずかにためらった。余計な注目を浴びたくはない。しかし、もしここで断ってしまえば、今後“町で動きづらくなる”可能性もある。さらに魔物の出没や被害を見過ごすのは心情的にも気が進まない。


「……いいでしょう。お力になれるなら」

 そう返事をすると、マルクは「よしっ!」と小さくガッツポーズを作り、ベリック隊長は安心したように頷いた。


「すぐというわけではないが、明日にでも5、6人の小隊を編成して向かう。ランド軍曹、準備を頼むぞ」

「了解しました、隊長」

 こうして、アリーシャの“ゴブリン退治”がほぼ決まってしまった。


 



---


 


 翌朝、町の西門近くに集まったのは、マルクを含む兵士4人と、アリーシャを加えた計5名。ランド軍曹は別件の指揮のため同行せず、実質マルクが中心となって現場をまとめることになるらしい。

 それでもマルクは「緊張するなあ……」と苦笑い。アリーシャは「あなたらしくやれば大丈夫よ」と軽く励ました。


「この街道をまっすぐ行くと商隊がよく利用するルートがある。そのあたりの森にゴブリンが出るって話だ」

 マルクが部下たちに地図を示しながら説明をしていると、「お嬢さん、護身用の武器は持ってるのか?」と兵の一人が尋ねてきた。

 アリーシャは腰に差した短めの杖を見せる。

「魔法が主体で戦うから、これがあれば大丈夫。……たぶん」


 兵士たちは好奇の目を向けつつも「頼りにしてるぜ、魔法使いさん」と冗談交じりに声をかける。彼らの警戒心は思ったほど強くなさそうだ。「同じ目的で一緒に戦う仲間」という認識らしい。

 出発前に簡単な点呼と装備確認を済ませ、いざ森へと入っていく。


 



---


 


「……確かに、行商隊が通りそうな道だな」

 小一時間ほど歩を進めると、森の木々が途切れる場所に簡易的な街道が続いていた。車輪の轍の跡がうっすら残っている。

「何か気になる痕跡でも?」

 アリーシャは道端の草むらをかき分けながら、土の上に残った足跡を注視する。人のものとは違い、ゴブリンが履く破れた靴のような模様が何重にも重なっている。


「間違いないね……。ここで集団がうろついたんだと思う。でも、思ったより数が多そう……」

 マルクの表情が険しくなる。下手をすれば、十数体のゴブリンが一度に襲ってくる可能性がある。新米兵士ばかりの小隊では骨が折れるかもしれない。


「警戒して進みましょう。もし大群が来るなら、地形を利用して一網打尽にする方法を考えないと」

 アリーシャの提案に、マルクはうんと頷く。彼も兵としての訓練は受けているが、実戦経験はそこまで豊富ではない。アリーシャが主導してくれるのは心強いだろう。


 さらに数分進むと、やがて鬱蒼とした林の奥で何やら騒がしい音が聞こえはじめた。

「……うう、ガルル……」

 獣のようなうめき声。複数いる。アリーシャは杖を握りしめた。兵士たちも武器を構える。


「行くぞ!」

 マルクが意を決し、隊列を組んで木々の間を進む。視界が開けた先に、小汚い肌をしたゴブリンの群れが数匹うごめいていた。

 中には倒れた商隊の荷物らしき木箱を漁っている個体もいる。


「やっぱり、略奪してるのね……」

 ごくりと喉を鳴らす兵士たち。ゴブリンが5体、奥の方にも数体いそうだ。合計で10体前後かもしれない。

「やるしかないか……。アリーシャさん、援護を頼む!」

「ええ、わかったわ」


 ――そして、短いが激しい戦闘が始まった。

 兵士たちは盾を構えて前線に出て、ゴブリンの突進を受け止める。マルクは槍を巧みに繰りながら、視界の隙間から相手を突く。

 一方、アリーシャは中距離から**「捕縛の糸環(ほばくのしかん)」の応用魔法を展開し、ゴブリンの足元を絡めとって動きを封じたり、低威力ながら正確に当たる「衝矢(しょうし)」**という魔力の矢でカバーする。


「うわっ、増援か!?」

 奥の茂みから更に2〜3体が現れ、兵士の一人が囲まれそうになる。しかしアリーシャの衝矢が的確にゴブリンの脇腹を打ち、怯んだところをマルクが仕留める。


 小競り合いが続くうちに、何体かのゴブリンが「ギャッ」と悲鳴をあげて倒れ、残党は散り散りに森の奥へ逃げていった。兵士のうち一名が軽い切り傷を負ったが、幸い大きな被害はなかった。


「ふう……やったか……」

 マルクが息をつきながら、辺りを見回す。

「みんな無事か!?」

 軽傷者が「少し痛むが動けます!」と答え、ほかの兵士たちも無事を確認。アリーシャも血の気を下げるように深呼吸した。


「思ったより数が多かったわね……」

「うん。でも被害が小さくてよかった。アリーシャさんの魔法、相当助かったよ」

 マルクが感謝の眼差しを向ける。周囲の兵士も「魔法使いが一緒だと違うな」と口々に言う。


 アリーシャは穏やかな笑みを返しつつ、内心では別の不安に襲われていた。

 ――まだ何かいる。

 遠目に感じる違和感。ゴブリン程度の魔力ではない、もっと大きな“気配”が森の奥深くに存在する……そう感じるのだ。

 しかし、いまこの場で隊員たちに告げたところで、無闇に混乱させるだけかもしれない。兵士もほぼ新米のメンバーだし、これ以上の深入りは危険すぎる。


「少し奥を探るべきか……。いや、装備も整ってないし、ひとまず今日は帰りましょう」

 アリーシャは冷静に判断を下した。マルクも頷く。

「そうだな。一度隊長に報告して、改めて対策を練るのがいいだろう。残党の回収や、森の奥の調査も必要かもしれない」


 兵士たちは撤収準備を始める。打ち捨てられた木箱を確認したが、中身は穀物や衣類の切れ端が散乱している程度。被害が大きくなる前に対策を打たねばならないだろう。


 アリーシャは最後にもう一度、静かに森の奥を振り返った。

「(もしゴブリンたちが集団化している原因が、もっと強大な魔物や何かの呪術なら……?)」

 今はそれを確かめる余裕がない。彼女はわずかに胸騒ぎを覚えたまま、マルクたちの後を追いかける。


 



---


 


 夕方に町へ戻り、兵舎で簡単な報告を済ませると、隊長のベリックも「よくやった。被害が少なく済んだのは幸いだな」と安堵した。

 ゴブリン集団をある程度撃退できたことで、街道の安全は一時的に取り戻せそうだ。しかしアリーシャは隊長に付け加える。

「もしかしたら、もっと大きな存在が裏にいるかもしれません。森の奥を、あまり甘く見ない方がいいと思います」

 ベリックは真剣な表情を浮かべて頷いた。

「了解だ。日を改めて調査隊を組織してみる。君も手を貸してくれると助かるが……」

「ええ、可能な範囲で協力させていただきます」


 そう言いながらも、アリーシャは心のどこかで「ここに深く関わり続けていいのか?」と自問していた。

 彼女の本来の目的は“世界の滅亡を防ぐ”ことであって、一地方の魔物退治に没頭するつもりはなかった。とはいえ、放っておけば人々が苦しむ。それを見過ごすのは気が引ける……。

 結局、目の前の問題を解決しながら進むしかないのだとアリーシャは悟る。小さな歪みが、いずれ大きな戦争や滅びに繋がってしまう可能性もある。


 



---


 


 グリーンリーフ亭に帰り着いたころには、すでに陽がオレンジ色をまとい始めていた。

「今日は大変だったわね」

 宿の女将が、そっとお茶を差し出してくれる。ふわりと心安らぐ香りが鼻をくすぐった。

「本当に、少し休まないと……」

 アリーシャは椅子に腰を下ろすと、一気に疲労が押し寄せてきて、思わずため息をつく。


 すると、背後からひょいとマルクが顔を覗かせた。甲冑を脱いでラフな服装に戻っている。

「お疲れさま。ケガとかしてない?」

「ありがとう、大丈夫。そっちこそ……だいぶ頑張ってたわね」

「ああ。最初はどうなるかと思ったけど、アリーシャさんが援護してくれたおかげで助かった。ほんとに……ありがとう」


 そう言いながら、マルクは微妙に照れくさそうな顔を見せる。よく見ると、彼の腕には細かい擦り傷が残っていた。

「ほら、ちゃんと手当して。私が少しだけ治癒魔法をかけてもいい?」

「え? あ、お願いできるなら……助かる」


 アリーシャは手のひらをかざし、淡い光を放つ**「癒しの火種(ひだね)」**と名付けた魔法をかける。治癒力は高くないが、小さな傷程度ならじゅうぶん回復させられる。

 マルクは不思議そうに腕を見つめ、「あ、痛くなくなった!」と目を輝かせた。


「すごいな……アリーシャさんって、攻撃も治癒もできるんだ。いったいどんな所で修行を……」

「それは、企業秘密というか……ちょっと特別な研究所でね」

 アリーシャは苦笑いしながら言葉を濁す。マルクは「ふーん……」と首をかしげるが、それ以上は追及しなかった。


 しばしの沈黙。宿のラウンジには、他の宿泊客の話し声や調理の香りがほんのりと漂っている。

 落ち着いた時間が流れると、アリーシャはふと今日の森で感じた不安を思い返す。もっと強大な魔物、あるいは何者かの干渉――その正体を突き止めなくては、この町もいずれ危機に陥るかもしれない。

 だが、いまは深く考えすぎても仕方がない。彼女は息を吐き、マルクに軽く微笑んだ。


「今日はゆっくり休みましょう。また明日から、町の平和を守るために、いろいろ考えなきゃ」

「……うん」

 マルクは頷き返し、どこか名残惜しそうに立ち上がる。

「じゃあ、また明日。何かあればいつでも呼んでよ」


 アリーシャは彼の背中を見送ったあと、少しだけ胸を押さえた。

 そこには言いようのない暖かさと、どうしようもない孤独が同居している。

 ――この世界で誰かと心を通わせることは、きっとこれからもあるだろう。けれど、彼女には“35年後に戻る”という逃れられない運命がある。

 どんなに今を大切にしても、いつかはすべてを振り切って去らねばならない……その思いに胸が苦しくなる。


「……私が選んだ道、だものね」

 小さく呟き、アリーシャは立ち上がった。

 今日という一日が終わり、また明日がやってくる。この小さな町での生活は、まだ始まったばかりだ。だが、もうすでに戦いの予感と、未来を変えるための使命が彼女の足を急かしはじめている――。


 

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