第5話 旅立ちの朝
朝日が灰色の城壁を淡い橙色に染める頃、王都の外壁近くの広場は静寂と冷気に包まれていた。夜露で濡れた石畳が足元にひんやりとした感触を伝える中、ミーアは杖を握りしめて立っていた。小柄な体には微かな緊張が漂っているが、その瞳には期待の光が宿っている。
「早いな、ミーア」
落ち着いた声が背後から響いた。ミーアは振り返り、アルガスの姿を認めると、安堵したように微笑みながら軽く会釈をした。
「おはようございます。お待たせしてはいけないと思って早めに来たのですが……アルガス様も、お早いですね」
「ただの習慣だよ」
アルガスは肩を軽くすくめ、自然な足取りでミーアの隣に並んだ。
ミーアは手元の杖を少し握り直した。アルガスはちらりと彼女の小さな荷物に目をやる。
「……宿は、もう引き払ったのか?」
ミーアは驚いたように顔を上げたが、すぐに小さく頷いた。
「はい。昨夜のうちに荷物をまとめて、今朝退去しました」
「荷物が随分少ないな。何か置いてきたわけじゃないんだろう?」
「これで全部です」
ミーアは自分の小さな荷袋を少し持ち上げて見せた。
「もともと大した物を持っていませんでしたし、教会を出たときに必要最低限しか持ってこなかったので……」
アルガスはそれを一瞥し、小さく頷く。
「そうか。教会には……長くいたのか?」
「はい、物心ついた頃には修道院にいましたので」
その返事にアルガスは一瞬目を伏せた。短く息を吐き、冷静な口調で続ける。
「……長旅だ。慣れないことも多いだろう。だが、これは君自身の道を歩む旅だ。無理をする必要はない」
ミーアは一瞬驚いたようにアルガスを見上げた。彼の冷静な声には、どこか優しさが滲んでいるように感じた。胸の奥で小さな不安がふっと薄らいでいく。
「……はい。私、精一杯頑張ります」
彼女の言葉には、迷いを振り払おうとする決意が込められていた。
その時、遠くから軽快な足音と賑やかな声が聞こえてきた。
「おーい! 待たせたな!」
広場の静けさを破るグレオの元気な声に、辺りで羽を休めていた鳩たちが驚いて飛び立つ。大剣を背負い、豪快な笑みを浮かべた彼が手を振りながらやってきた。その後ろでは、エリスが眠そうに目をこすりながらついてくる。
「横で大きい声出すんじゃないわよ、脳筋バカ……」
「おはようございます、グレオさん、エリスさん」
ミーアが小さく会釈をしながら挨拶すると、グレオは声高に笑った。
「おはよう、ミーア! 今日はやる気がみなぎってるな! いいぞ、その調子だ!」
グレオが声高に笑いながら答えた。後ろを歩いてきたエリスは、欠伸を噛み殺しながらぼやく。
「おはよう。でも、朝早すぎるわよ……次からは、もう少し遅くしてくれない?」
そう言いながらも彼女の身支度には乱れがなく、髪の一房さえ完璧に整えられていた。
アルガスが一行を見回し、短く頷く。
「全員揃ったな。それじゃあ、いよいよ出発だ」
「おう! 魔王をぶっ倒しに行こうぜ!」
グレオが拳を振り上げるが、その勢いをアルガスが冷静な一言で制した。
「待て。大事なことを言い忘れていた」
「大事なこと?」
エリスが怪訝そうに首をかしげる。
アルガスは真剣な面持ちで皆を見回し、静かに口を開いた。
「僕たちの目的は、魔王討伐ではない」
「……ええっ?」
エリスが驚きで目を丸くし、グレオも困惑した表情を浮かべる。ミーアが恐る恐る尋ねた。
「そ、それって……どういう意味ですか?」
アルガスは、はっきりとした口調で告げる。
「まず、各地の魔物被害が本当に魔王の指示によるものかを確認する。それを調べた上で、魔王との交渉を試みる」
「交渉? 本当にそんなの通じるのか?」
グレオが眉をひそめて問い返す。
「それを確認するために調査する」
アルガスの声は一切の迷いを感じさせなかった。
「くれぐれも、冷静さを欠いた行動はしないでくれ」
「なんで私を見て言うのよ。ちゃんとするってば」
アルガスの指摘に、エリスは呆れ顔で反論した。ミーアはアルガスを見つめながら口を開く。
「では、その調査というのは……」
「魔物被害が多い地域に赴いて、その原因を調べることになる。グレオ、広域の地図はあるか?」
「ああ、ちょっと待ってろ」
グレオは背負っていた荷物を下ろし、中から折りたたまれた地図を取り出した。厚手の紙でできたそれを広げると、国内の街道や地形が細かく記されている。
「まずは、西のティルヴァランを目指そうと思う」
「ティルヴァラン?」
エリスが興味深そうに地図を覗き込む。
「確か、帝国との交易が盛んな街よね。そんなとこでも被害が出てるの?」
「ああ。それに道中の街を含め、被害報告がここ半年で急増している。原因を探るには最適だ」
アルガスが指先で地図を軽く叩く。
「なるほどね。じゃあ、まずそこに行くとして……」
エリスが顔を上げ、アルガスにじっと目を向けた。
「旅費とか色々、お金は足りるの?」
「問題ない」
そう言いながら、アルガスは腰の鞄から一通の書簡を取り出した。国章を模った封蝋が押されたそれは、確かな権威を示している。
「これを各地の政務庁や教会に見せれば、必要な物資や資金を補充できる手はずだ。宿・食事・消耗品・装備品など、旅に必要な経費は基本的にここから賄う」
「す、すごい……抜け目ないですね……!」
ミーアが感嘆の声を上げる。
「……あんたまさか、国王に対しても……」
封蝋を見つめながら、エリスが呟く。
「事実を説明して、納得していただいただけだが?」
書簡を鞄にしまいながら、アルガスは平然と答える。
「ほんと、こいつ……」
エリスは呆れ顔でアルガスを見た。
「だが、それでも資金が不足する可能性は高い。その場合は魔物討伐の依頼を受けるなり、臨機応変に対応する」
アルガスが冷静に続けると、グレオが興味津々といった様子で手を挙げた。
「なあ、アルガス。その『旅に必要な経費』ってさ……酒代も含まれるのか?」
「含まれない。飲みたければ自腹で飲め」
「チッ……」
短く舌打ちをしつつも、グレオは軽く笑って肩をすくめた。
「とはいえ、活動中の給金は出す――あまり多くはないがな。それに、魔物討伐の報酬などは、個別の貢献度に応じて分配しよう」
「おおっ! それならまあ、なんとかなりそうだな! 討伐もやる気出るし!」
グレオは上機嫌に拳を握り、やる気をアピールする。そんな様子に、隣のエリスがふっと息を吐いた。
「……給金まで出るとは、なんか色々と『勇者の旅』っぽくないわね……。現実的っていうかさ」
エリスが肩をすくめて呟いた時、アルガスは淡々と返す。
「理想を掲げて、足元の算段を忘れたら意味がない。現実を無視した旅に、何ができる」
その即答に、エリスは思わず口を閉ざした。
だが次の瞬間、ミーアがそっと口を開く。
「……でも、私は……とっても『勇者の旅』らしいと思いますよ」
ぽつりと放たれたその一言に、アルガスは不意を突かれたように目を瞬いた。
「……どこがだ?」
ミーアは柔らかな笑みを浮かべたまま、まっすぐアルガスを見上げた。
「街を巡って、人々の困りごとを聞いて……少しずつ問題を解決していく。伝承の勇者様って、剣で敵を倒すだけじゃなくて、誰かの心に寄り添ってくれる存在だと思うんです」
言葉は穏やかだったが、どこか芯のある口調だった。
「だから……アルガス様の旅は、ちゃんと『勇者の旅』だと思います」
その純朴な言葉に、アルガスは僅かに表情を曇らせた。視線がふと遠くなる。
(伝承の勇者……か)
かつて教会で論争した記憶が、脳裏に浮かぶ。
『伝承をなぞるだけの存在にはならない』と断言したあの日の自分。
だが今――こうして仲間と共に旅立とうとする姿は、皮肉にもその伝承に似ている。
「僕はただ、道理に基づいて行動しているだけだ」
アルガスは淡々と答えた。
けれど、その声には――わずかな迷いと、自分でも気づかぬ色が、滲んでいた。
「へえ、否定はしないんだ」
エリスがにやりと笑みを浮かべる。その視線はどこか挑発的だった。
「伝承にあるような、勇者の巡礼だの儀式だのに興味はない。僕は僕自身の道を行くつもりだ」
アルガスの声は冷静さを取り戻していたが、どこか硬さが残る。
「……照れてるわね」
エリスの呟きに、アルガスの眉間に皺が寄った。
「いいじゃねえか、勇者様!」
グレオが大笑いしながらアルガスの肩を叩く。
「俺たちで、新しい伝説を作ろうぜ!」
「……ほら、馬車の時間に遅れるぞ」
アルガスは不機嫌そうに顔を背けながらグレオの手を払いのける。その仕草には、どこかぎこちなさが感じられた。
一行が広場を歩き出す。
まだ朝靄の残る広場には、朝市の準備を始める商人たちの姿がまばらにあった。荷車を引く男、布を広げる老婦人、果物を積み直す少年――皆、それぞれの仕事に集中していて、四人のことなど気にも留めていない。
誰も手を振らない。声をかける者もいない。
国の命運を背負った者たちの旅立ちとしては、あまりに静かで、あまりに日常に埋もれていた。
エリスがふと立ち止まり、口を尖らせる。
「っていうか、勇者の旅立ちってこんなもんなの? もっとこう……パレードとか、人が集まってお祭り騒ぎになるもんじゃないの?」
その言葉に、アルガスは肩を竦めながら淡々と答えた。
「全部断ってる。人目を引く演出に時間と労力を割く意義が感じられない」
「えーっ、面白くなーい」
エリスがあからさまに不満げに顔をしかめると、横でグレオがニヤリと笑う。
「エリス、目立ちたかったのか?」
「そりゃそうでしょ!」
エリスは当然だと言わんばかりに胸を張る。
「勇者の旅って言ったら、そういうのがセットでしょ! みんなの声援を受けて出発して……っていうの、ちょっと憧れてたのに……!」
「……ひとりでやってろ」
アルガスは冷たく言い放ち、足を止めることなく歩き続ける。
「なによそれ!」
エリスは頬を膨らませて抗議したが、アルガスは全く意に介さず、グレオは横で肩を震わせていた。
そのやり取りを聞きながら、ミーアは小さく苦笑した。ふと、立ち止まって後ろを振り返る。遠くに見える白亜の尖塔――ルクシス教会の聖堂が、朝の陽光に淡く輝いている。
目を細め、祈るように一瞬だけ見つめた後――ミーアは再び一行を追って小走りに駆け寄った。
***
広場を後にした一行は、待機していた馬車に乗り込んだ。馬車の車輪が石畳を離れ、草原を踏みしめる音が微かに耳をくすぐる。朝日の光は柔らかく、旅立つ彼らを包み込んでいた。
アルガスは窓の外に広がる景色を見つめ、静かに呟く。
「僕たちは、ただ剣を振るうだけじゃない。真実を暴き、答えを導き出す――それが、この旅の使命だ」
その言葉に、他の三人は何も言わなかった。しかし、胸の中にはそれぞれの決意がしっかりと宿っていた。
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