雪女に焦がれる

蟹場たらば

恐ろしき恋

     雪女郎ゆきじょろうおそろし父の恋恐ろし   中村草田男



 子供の頃から、僕は冬が嫌いだった。


 僕が住んでいるのは、東北の志賀間しがまという田舎町で、他所よそよりも夏が短く冬が長い。それでも――というか、おそらくそのせいで――僕は冬を厭悪えんおしていた。


 刺すような冷たい空気も、憂鬱になるほど長引く夜も、生活の妨げになる雪も氷も、何もかもが好きになれなかった。


 特に雪! 雪は白くて美しい。舞う雪は儚げで、ふぶく雪は勇壮で、降り積もった雪は荘厳で、そしてそのどれもが美しい。だからこそ、僕には雪が恐ろしかった。


 雪に生活圏を覆い尽くされれば、何もできなくなってしまうから、僕たちは雪かきや雪下ろしをしている。だが、いつかその美しさに心奪われて、雪に抗うのをやめてしまいはしないだろうか。それどころか、雪に敗北することを望むようにさえなるのではないか……


 馬鹿げているとは思いつつ、僕はそんな空想を止めることができなかった。雪を見る時、僕はいつも美しさの奥に隠された恐ろしさを見ていた。


 しかし、だからといって、志賀間を離れようとまでは思わなかった。


 高校二年生の冬、学校から三者面談の知らせを受け取った日のことである。僕はその意志を、つまり就職は地元でする気だと、父に伝えた。


「……彼女でもできたのか?」


 生まれ育った土地だから愛着がある。雪遊びにまつわる楽しい思い出だってある。恋人こそまだいないが、親友と呼べるような男友達ならいる。


 けれど、そのために地元に残ろうとは考えていなかった。


 僕が考えていたのは、父のことだった。


 まだ物心つく前に、僕の母は亡くなっていた。その上、父は再婚もしていなかった。子供だって僕しかいない。


 だから、僕が就職でこの家を出たら、父はこれからずっと一人きりで暮らすことになるかもしれないのだ。


「俺のことは気にしなくていいよ」


 母親がいないことの埋め合わせだろうか。玩具おもちゃが欲しいと言った時、少年野球をやめたいと言った時、これまでも多くの場面で父は僕の自由にさせてくれた。


 そのため、この時も、父の返答を言葉通りに受け取って、その優しさに対して僕は優しさで応えることにしたのだった。


「まぁ、父さんが老後に僕のところに来たっていいわけだしね」


「…………」


 嬉しさや気恥ずかしさから黙り込んでしまった――わけではないようだった。僕への気遣いから口にしないだけで、父の顔には拒絶の感情がにじんでいた。


 僕の冬嫌いに関係しているのかもしれないが、厳密には僕の生まれ故郷は志賀間ではないらしい。父は上京して就職し、母と結婚もして、僕が生まれたあとになって、転職してまで志賀間に戻ってきたのだそうである。


 僕と違って、父さんは故郷のことも冬のことも好いている。だから、志賀間から離れたくないんだろう。


 僕がそう結論づけた直後のことだった。


「少し歩かないか」


 不意に、父から散歩に誘われてしまった。


 ただ、もうとっくに日は沈んで、外はすっかり真っ暗だった。


 それどころか、雪までちらつき始めていた。


「今から?」と一応確認してみると、「ああ」と念を押してくるので、それ以上はもう反対しなかった。父の口調に、何か覚悟や決意めいたものを感じ取っていたからである。


 父の決意は、その足取りからも感じられた。ただの散歩なら、明確な行先はないはずだろう。だが、父はどうやら山の方へと向かっているようだった。


「……お前の母親のことなんだけどな」


「母さんがどうかしたの?」


「お前が小さい頃に死んだって言ったけど、あれは嘘なんだ」


 衝撃を受ける一方、僕は腑に落ちたような気持ちにもなっていた。


 これまでに、僕は一度も母の墓参りに連れて行ってもらったことがなかった。だから、「墓が志賀間ではなく東京にあるから」とか、「母のことを思い出させたくないから」とか、父が誘ってこない理由をいろいろと予想していた。けれど、そもそも母はまだ死んでいなかったのだ。


 しかし、母が今も生きているのだとしたら――


「お前の母親はな、俺のせいで家を出ていったんだよ」


 父の唇がこわばっているのは、何も寒さのせいばかりではないようだった。



          ◇◇◇



 あれは、俺がまだ十四の時のことだった。


 お前も知っての通り、俺は今、夏は農業を、冬は林業をやっている。これはお前の祖父、つまり俺の親父の影響だ。一人じゃあ作業が大変だったのか、それとも俺に跡を継いでほしかったのか。休日はよく手伝いをさせられてたからな。


 冬場に林業をやるのは、寒さで作物が育ちにくくなるからってだけじゃない。雪のおかげで、木が土で汚れにくくなったり、木を運びやすくなったりするからなんだ。だから、その年の冬も、俺は親父と二人で山に入ることになった。


 ところが作業中に、予想外に吹雪いてきちまってなぁ。勢いは強いし、山奥にいたしで、家に帰るのは難しそうだった。それで俺たちは山小屋に避難して、一晩やり過ごすことにしたんだ。


 こんな災難は慣れっこらしくて、親父はすぐに寝ついたみたいだった。だけど、俺は寒さと不安でなかなか眠れなかった。しかも、ようやく眠れたと思ったら、今度は物音で目が覚めちまった。


 戸を開ける音だったらしい。山小屋に、女が入ってきた。


 女は色白だった。女は若々しかった。その上、小さな町だっていうのに、女はまったく見覚えのない顔をしていた。


 女は何か目的があって山小屋に来たらしい。迷うことなく親父のそばに歩み寄ると、頭の横で膝をついた。それから頬に手をそえて、覗き込むみたいに顔と顔とを近づけた。


 その頃には、お袋はもう死んでたからな。俺は最初、女は親父の情婦か何かで、夜這いでもしにきたのかと思った。でも、そうじゃなかった。


 女は白い息を吹きかけたんだよ。


 その瞬間、親父の顔は真っ白になった。顔から血の気が失せたんだ。そういうのは以前に見たことあったから、すぐに凍死したんだって理解できた。


 それに突然のことだったから見逃してたけど、女は何故か白装束を着ていた。とてもじゃないが、雪山を歩けるような格好じゃない。


 昔話や怪談で有名だから、お前ももう女の正体が分かったんじゃないか? あの時の俺もそうだったよ。


「ああ、これが雪女か」ってな。


 恨みつらみで人を殺してるわけじゃあないんだろう。親父の次は、俺の番みたいだった。雪女は同じようにそばに座ると、俺の頬に手をそえてきた。


 ただ親父と違って、俺は起きてたからな。だから、息を吹きかけられる前に、雪女と目が合った。


「あなた随分若いわね。それに綺麗な瞳をしているわ。だから、見逃してあげる」


 俺の目を見ながら、雪女は確かにそう言ったんだ。


「その代わり、今日のことは誰にも話してはダメよ。もし話したら、その時は今度こそ命はないから」


 ……多分、「だったら、僕に話したらまずいんじゃないか」とか、「やっぱり雪女なんて嘘なんじゃないか」とか、お前はそう思っただろう。それについてはあとで説明するから、今はとりあえず続きを聞いてくれ。


 翌朝、目を覚ました時、親父は死んでいた。俺の通報で医者や警察が調べたけど、やっぱり死因は凍死だった。もちろん、吹雪のせいってことになったけどな。


 本当のことを言っても、どうせ信じてもらえるはずがない。それに、もし秘密を話せば殺されるって約束だった。そう考えた俺は、雪女のことを警察にも親戚にも決して真実を打ち明けなかった。


 代わりに、俺はこの志賀間から、雪女から逃げるように上京していた。


 高校を卒業したあと、林業は継がずに東京の会社に就職した。不慣れなデスクワークを勉強して、客や上司に愛想を使うことも覚えた。


 それからしばらく経ったある年、春になって新入社員が入ってきた。その中には同じ東北出身の女子社員もいた。同郷ということもあって、俺たちはすぐに打ち解けた。


 その人が、お前の母さんだ。


 信じてもらえないかもしれないけど、当時は母さんの方が俺に惚れててな。結婚も俺が押しに負けるみたいな形で決まったんだ。


 だけど、俺たちの夫婦関係はそう長くは続かなかった。


 昔話みたいに、母さんの正体が実は雪女だった――ってわけじゃない。もっとも、ある意味ではそうだったんだけどな。


 志賀間を離れたあとも、俺が雪女のことを思い出さない日は一度だってなかった。お前が生まれて自分が父親という立場になると、親父を殺したあの女のことが、ますます気になるようになった。


 それで仕事が休みの日には、母さんに隠れて志賀間に戻って、山の中を歩き回るようになったんだ。


 ただ雪女の手がかりは、そう簡単には見つからなかった。あせる内に、だんだん志賀間と東京を行き来する時間が惜しくなってくる。それどころか、仕事をする時間さえ惜しくなってくる。


 だから、俺は母さんに切り出したんだ。「志賀間に帰って林業をやりたい」って。


 話を聞いて、母さんは激怒していたよ。


 それも田舎に引っ越すのが嫌だとか、収入が減るのが嫌だとか、そういう理由からじゃなかった。


 休日出勤や接待っていうのは嘘で、俺がこっそり志賀間に戻っていたことを、母さんは知ってたらしい。そのせいで、俺が妻子を放り出して、地元の女と不倫していると誤解したみたいだった。


 浮気男の子供を育てるのが嫌だったのか。それとも、子供がいれば俺が再婚できないと思ったのか。俺に愛想を尽かした母さんは、お前を残して家を出ていくと言い出した。


 だけど、それでも俺は、「雪女を探してるだけだ」とは言い返せなかった。それは、秘密を話せば殺されるからってだけじゃない。


 母さんの誤解は、満更間違いというわけでもなかったからだ。


 雪女を探す時、俺は真相を確かめたいとか、親父の仇を討ちたいとか、そんなことは少しも考えていなかった。ただ彼女にまた会いたいという一心だったんだ。


 白い肌。柔らかな指。澄んだ声。冷ややかなような寂しげなような瞳…… たった一度会っただけの相手なのに、俺はどうしても彼女のことを忘れられなかった。


 最初、逃げるように東京へ行ったのも、本当は彼女が怖かったからじゃない。彼女に会いたがっている自分が怖かったからだったんだ。


 さっき、「ある意味では母さんは雪女だった」って言ったよな。あれは彼女に似ていたから結婚したって意味だったんだ。


 ここまで聞けば、どうして俺が彼女の話をしたのか、もう分かっただろう?


 約束通り俺を殺しにくるなら、あの人にまた会えるからだよ。



          ◇◇◇



 雪女がいると本当に信じているのか。どういうつもりで母と結婚したのか。どういうつもりで僕を生ませたのか…… 言いたいことはいくらでもあった。


 けれど、僕はただ父の言葉を繰り返すことしかできなかった。


「あの人……」


 そう口にした時の父の声は、ぞっとするほど甘やかだったからである。


 雪女が存在するかどうかは分からない。だが、雪女に焦がれる父の想いは、間違いなく存在しているのだ。


「父さんはそろそろ行くよ」


「え?」


 僕は思わずぎょっとする。


 父の指差す先にあったのは、山へと続く道だった。それも雪の積もった、もう道とは言えないような道だった。


「一緒にいると、お前を巻き込むかもしれないからな」


 雪女の姿を見たら、僕まで殺されてしまう。父はそう考えたらしい。


 確かに父は、夫や親という立場を捨てて、一人の人間としての感情に殉じようとしている。けれど、胸の片隅に、まだ一欠片ひとかけらだけ父親としての感情を残していたようだ。


「いや、もう最後だから、本当のことを言うよ。お前は若い。顔もいい。そんなお前を、あの人に会わせたくないんだ」


 父の眼差しからは、もう我が子に対する優しさは消え失せていた。ただ自分より年下の男に対する嫉妬と憎悪とが浮かび上がっていた。


 そして、その奥底には、雪女への恋慕があるようだった。


「あの人には、俺だけを見てほしいんだ」


 そう言い残すと、父は雪山へ、いや雪女のいるところへ歩き出す。後ろ姿が徐々に小さくなり、最後には完全に見えなくなる。


 僕に残されたのは、父の足跡だけだった。


 しかし、その足跡さえも、降りしきる雪によって少しずつ消えていってしまったのだった。






(了)

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