第3話 犯罪の多様化
「恋愛感情のもつれ」
というものから、殺人事件に発展することも少なくない。
今の時代であれば、
「殺人事件にまで発展しないとしても、立派な犯罪」
というものも結構あったりする。
それだけ、
「世の中というのは、歪んできた」
ということになるのであろう。
そういう意味では、
「犯罪というのは、多種多様化してきた」
といってもいいだろう。
特に、世紀末から、新しい世紀に移り変わった頃、世の中がだいぶ変わってきたといってもいいだろう。
いや、
「一つの時代が終わった」
という意味では、ある意味、
「それぞれの節目の時に、世の中が変わってくる」
ともいえるわけで、何か不思議な感覚に襲われ、
「皮肉なことだ」
ともいえることもあったりする。
その一つが、
「昭和が終わった頃」
といえるのではないだろうか?
実際にその形が見えてきたのは、
「平成になってから、少しして」
ということであるが、その兆しというのは、昭和の頃からあったのだ。
その一番大きな社会現象としては、
「バブルの崩壊」
というものではないだろうか?
昭和のオリンピック前後から、いろいろあった。
そもそも、オリンピック前というのは、前述の、
「公共事業がたくさんあり、会場設営だけではなく、道路や鉄道などといったインフラの整備」
これは、
「開催国のメンツ」
という、それこそ、学校などで、授業参観があるということで、先生がシナリオを作って、父兄に、
「学校教育はちゃんとしている」
と思わせるための、
「よそ行きの授業」
を見せたり、逆に今度は、先生が家庭に赴くという、
「家庭訪問」
というものでは、
「家では、ちゃんとしている」
ということで、
「親がシナリオを作って、先生を欺く」
ということだ。
それこそ、
「子供だけが、それぞれの思惑に踊らされている」
ということで、それを子供が分かっているのかどうか。
「親も先生も分かっているのだろうか?」
と考え、
「第三者の目」
というもので見ると、
「これほど滑稽なものはない」
ということになるだろう。
今の時代には、なかなかそういうものもなくなってきただろうから、ピンとする人も少ないかも知れないが、
「昔がよかったのか悪かったのか?」
というのは、難しい判断となるのではないだろうか?
これが、平成の時代になってくると、学校では、
「いじめ問題」
というのが、深刻な問題になってきた。
昭和の頃にも、
「苛め」
という問題はあった。
しかし、それは、一時期のもので、次第に和解することが多かったのも特徴だった。
というのも、昭和の頃の苛めというのは、
「虐められる側にも、何らかの理由というものがあった」
ということである。
虐める方とすれば、
「それを分からせる」
という意味でのいじめだった場合が多く、虐められる側が成長するとともに、自分の悪かった部分が分かってくると、和解ということになるのだ。
しかし、平成になってからの苛めというのはそうではない。
虐められる側に、その理由があるとは限らないからだ。
しいて理由があるとすれば、
「見ていてむしゃくしゃするからだ」
という、虐められる側からすれば、それこそ、
「理不尽極まりない」
ということになるのだろう。
これは、虐める側が、
「いたたまれない状況になっているからだ」
ということも言えるのではないだろうか?
虐める側とすれば、
「自分が家出迫害を受けている」
という場合もあるだろう。
そこまでひどくはなくとも、
「両親の仲が悪く、いつも喧嘩をしている」
などということで、ストレスがたまりに溜まって、それを抑えることができなくなり、結局、
「弱いものに、ストレスをぶつける」
ということになるのだろう。
だからと言って、
「虐められる人間はたまったものではない」
ということになるだろう。
確かに、家でのストレスを、家で解消させるわけにはいかず。結局、学校で、
「弱い者に向けられる」
という構図になるのだ。
だから、
「相手は誰でもいい。自分で気に食わないと思った相手であれば、それでストレス解消になる」
ということで、実際にストレス解消になっているのかどうかは分からないが、
「それしかない」
として、他が見えなくなってしまうと、自分の中では。
「苛めに対しての大義名分を考える必要はない」
と思うかも知れない。
本当は、
「家庭のストレス」
というものが理由にならないとは思うのだが、まわりで同じような苛めというものがたくさん出てくると、
「皆やっていることではないか」
ということで、それが、大義名分となるのだろう。
本当であれば、
「自分がされて嫌なことを、他の人にする」
というのは、精神的にはきついことだろうが、それを感じさせないようにするのが、
「集団意識」
というのだとすれば、
「社会現象」
となったことを、その原因を探るという検証をすることもなく報道する
「マスゴミ」
というのにも、責任の一端はあるかも知れない。
特にその時代あたりから、社会では、
「バブル崩壊」
というものがあった。
それまでは、
「やればやるほど、成果が形になって現れる」
という時代であった。
しかし、その成果というのは、実際には、
「実態のないもの」
つまりは、
「実態のないものを、書類上の成果」
ということで示しているのだから。結局は、どこかで、
「化けの皮が剥がれる」
ということになるだろう。
だから、
「バブル」
つまりは、
「泡のごとく」
ということで、泡が消えてしまうと、残るのは、
「バブルの正体」
ということで、その正体は、
「実体のないもの」
だったのである。
そうなると、すべてに連鎖していることで、
「一つの歯車が狂うと、自分に関係のあるところがすべておかしくなってしまう」
ということになる。
つまり、バブル経済というのは、
「歯車が、すべて噛み合っているというように見せていただけで、本来は、そんなことなどあり得るわけではない」
ということだったのだ。
要するに、
「すべてが幻だった」
といえるだろう。
だから、バブルが弾けてから、現実を見ると、
「どうして、バブルなんて信じたのだろう?」
あるいは、
「どうして、誰もこんな簡単なことに気づかなかったのだろう?」
と思ったことだろう。
中には気づいた人もいたかも知れないが、
「それを言ったところで、誰が聞いてくれるというのか?」
ということである。
もし、それを、
「経済評論家」
などと呼ばれる人たちが考えているのだとすれば、それこそ、
「大きな罪だ」
といえるかも知れない。
しかし、中には、
「下手にそれを提唱したとしても、今はまだ平和な状態なので、誰も信じないだろう」
ということで、今までの歴史から考えると、
「あまりにも突飛で、世間を惑わすようなことをいうと、ろくなことにはならない」
というものである。
「それでも地球は回っている」
と言ったガリレオなどがいい例というもので、ある意味、世間を惑わすようなことを言えば、必ず、
「政治家などに、都合の悪い連中がいたりして、握りつぶされる」
ということは分かり切っている。
そして、
「世間を騒がせた罪は重い」
ということで、少なからずの制裁を受けることになるだろう。
少なくとも、
「社会的制裁」
というのは受けるであろう。
「評論家であれば、その地位ははく奪され、世間を騒がせた男ということで、誰からも信用されないということにされてしまうに違いない」
それを考えると、
「俺が、何も先に声を出さなくとも、誰かが言ってくれる」
という他力本願になってしまう。
もし、最初に自分がそれを提唱し、他の人がその後押しをしてくれなかったら。
「俺は、ただの人柱ではないか?」
と思うだろう。
いや、
「人柱であれば、世間は自分の言い分を信じてくれるであろうが、この場合は、完全にその話も人間性もすべてを打ち消されるのだから、完全な犬死だ」
ということになるに違いない。
それは、あまりにも理不尽で、そんなことになるかも知れないというのに、誰が、率先して口にするだろうか?
それを思えば、
「口は禍のもと」
ということわざがあるが、まさにその通りであろう。
そんな、
「余計なこと」
を口にすると、必ず、社会的にも、人間的にも、消されてしまうということになりかねないと思えば、誰が口にするというのか。
しかも、あくまでも、想像ということで、
「本当にバブルが弾けるかどうか分からない」
といえるだろう。
「ゼロというものがないのだから、100%というのもありえない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「限りなくゼロに近い」
ということからの発想であるということが分かる。
これは、
「合わせ鏡」
のような発想で、
「前と後ろに置いた鏡には、永遠に、自分の姿が写っている」
というもので、これは、
「次第に小さくなっている」
ということであるが、この合わせ鏡というものが。
「永遠」
つまり、
「無限」
ということであれば、
「絶対にゼロにはならない」
ということである。
つまりは、
「整数から、同じ整数をずっと割り続けても、絶対にゼロにはならない」
ということで、これを表現するとすれば、
「限りなくゼロに近い」
ということになるであろう。
つまり、この、
「限りなくゼロに近い」
という発想は、
「無限」
あるいは、
「永遠」
というものに繋がっていくということに違いない。
だから、
「どんどん小さくなっていくものが、限りなくゼロに近いということで絶対にゼロにならないのだ」
とすれば、
「どんどん大きくなるものとすれば、今度は、絶対に100%になることはない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「風船が破裂するのは、100になったから破裂する」
という考え方もあるが、逆に、
「破裂したから、100だったんだ」
ともいえるだろう。
ただ、これは、同じことであり、ただ考え方の順序が違うということで、
「理解するための手段に過ぎない」
といってもいいだろう。
ただ一つ言えることは、
「破裂した」
つまりは、
「バブルの崩壊」
というのが、
「その世界が無限ではなかった」
ということの証明であり、
「こんなことは当たり前のことではないか?」
と見ていた夢から覚めると、まず間違いなく誰もが思うことだろう。
つまり、
「バブルというのは、夢だったのだ」
ということである。
夢を追いかけることが、本当であれば、いいことなのだが、夢を追いかけたことで、このような最悪の事態に結びつくということであれば、
「夢にもいろいろな種類がある」
ということになる。
そもそも、夢というのは寝ている時に見るというものではないだろうか?
起きている時に見る夢は、
「実現可能な夢」
というものと、
「実現可能ではない」
という夢がある。
後者であれば、
「夢を見ているだけで、夢がかなわなくとも、生きる支えになる」
という場合であれば、
「大いに夢を見ればいい」
ということであるが、逆に、
「どうしても叶わないと、まわりに大きな迷惑をかけることになる」
というところまで進んでしまっていれば、
「後戻りもできない」
ということになり、結局、
「叶えられない夢であっても、それは、まわりを巻き込んではいけない」
ということになるだろう。
そういう意味で、
「夢を見るのはいいが、それを人に押し付けてはいけない」
ということになる。
それは、親子関係であっても同じことで、そんなことをしていると、
「押し付けられた方はストレスをためるしかできず、それを他の人にぶつけることで解消しようとする」
ということになり、結局それが、いじめにつながるのだろう。
夢に限らず、会社で理不尽なことがあれば、
「家庭に仕事を持ち込んではいけない」
ということが分かっているから、その話をしないようにしようと思っても、結局、大人もそれを抑えることができず、子供にぶつける。それが負の連鎖ということになり、
「苛めという問題を引き起こす」
という悪循環を生むことになるのだ。
バブルが弾けてからというのは、会社だけではなく、家庭の問題も大きく変化してきたといってもいいだろう。
特に、
「バブルが始めると、それまでの、働けば働くほど儲かる」
という、数学的には当たり前のことだったものが、そうではなくなってしまった。
許容範囲であった大きさが、膨れ上がりすぎて、破裂してしまったわけで、今度は働けば働くほど、漏れる方が大きいということで、
「売り上げが上がらないのに、経費ばかりかかる」
ということになり、今までであれば、
「最悪儲からなくても、損をすることはない」
ということであったが、今度は、
「損をすることはあっても、儲かるということはない」
ということで、
「奈落の底に叩き落される」
といってもいいだろう。
それがバブルの時代というもので、そうなると、
「売り上げが見込めないのだとすれば、経費を抑えるしかない」
ということで、まずは、
「残業をなくす」
ということであった。
今までのように、事業拡大が望めないのであれば、残業をする必要もないわけで、
「定時には帰る」
というのが当たり前になったのだ。
そして、並行して行われたのが、
「リストラ」
と言われる、一種の、
「クビきり」
ということである。
ただ、そうなると、
「せっかく残業をなくし、手当てを支払わなくていい」
ということなのに、人員が減ってしまえば、そのしわ寄せは残った人にうつるということになる。
しかし、
「残業手当は払いたくない」
ということになると、今度は、
「サービス残業」
ということで、
「残業していない」
ということにするという、
「残っても地獄」
ということになる。
それでも、絶対に無理はくるというもので、
「実際に、業務が回らないようになる」
ということになると、今度は。
「人を雇わなければならない」
となるのだ。
そうなると、人件費がどうしても引っかかってくる。
そこで考えられたのが、
「バイトやパートに、今まで正社員がすべてやってきたことを任せる」
というやり方である。
雑用や、資料作りの中での清書のようなところがそうであろう。
それが、
「非正規雇用」
というもので、そのうち、同じ社員といっても、
「嘱託社員」
であったり、
「契約社員」
というものを含めた、いわゆる、
「派遣社員」
というものが出てくることになるのである。
派遣社員というのは、派遣会社から派遣されているということで、バイトなどに比べれば、相手が会社相手ということで、
「何かあった時の保障や責任の所在をハッキリさせることができる」
ということで、
「バイトやパートに比べれば、割増ということになるが、それでも正社員ほど高くないということで、時間とともに、非正規雇用というものが、当たり前という時代になってきた」
ということであった。
今の時代であれば、
「派遣社員」
などというのは当たり前というもので、働く方としても、
「決まった時間、会社で拘束されるだけ」
ということで、特に女性など、子育てという問題がある人には、働き方としては、ありがたいといえるのではないだろうか。
何といっても、女性が社会進出してくる時代で、しかも、旦那の稼ぎだけでは、やっていけないという時代になってきた。
バブル崩壊から、給料の何割かカットになったり、ボーナス支給が停止した会社も結構あった。
それよりも、倒産という憂き目に遭っている会社もたくさんあるので、まだその会社で働けるというだけ、マシだといってもいいかも知れない。
世の中で変わってきたことというと、前述の、
「犯罪の多様化」
ということで、いわゆる、
「サイバーテロ」
などという。
「コンピュータや電話を使った詐欺」
というものが流行してきたりした。
ネットが流行り出した頃は、ホームページの偽物を作り、リンクで誘導させ、そこが、
「課金サイトだ」
ということを巧みに偽装し、
「相手から請求が来て、払ってしまった」
ということも日常茶飯事であるというものであった。
さらには、
「コンピュータウイルス」
なるものが蔓延る時代になると、コンピュータに侵入され、個人情報を盗まれることで、「そこから勝手に課金させられる」
というものである。
また、別の犯罪として、
「ストーカー」
というものが流行り出した。
これは、昔からあったことではあるが、犯罪とまでは行かなかったもので、世紀末くらいから、それが犯罪化してしまったことから、
「ストーカー」
という名前も使われるようになり、
「犯罪性が多様化している」
ということの代表のようになってきた。
「好きになった人の家を確かめる」
というくらいであれば、決していいこととは言えないが、それだけでは、犯罪とは言えない状態だった。
しかし、それがエスカレートしてしまい、無言電話を夜中に掛けたり、家の前に、差出人不明で、プレゼントなどが置かれていたりと、ストーキングをする人から言わせれば、
「別に悪いことをしているわけではない」
という言い訳をするだろう。
無言電話は、迷惑行為であり、犯罪ということであれば、曖昧なところだが、
「迷惑行為でも、犯罪となる」
ということを分かっていない人は、逆に、
「犯罪にならなければ、迷惑行為でもしてもかまわない」
と思っているのだろう。
それがストーカー行為というもので、当時は、取り締まるだけの法律はなかった。
何しろ、
「いきなり犯罪として増えたことだった」
ということだからである。
社会問題となると、それに対応する法律の整備が、急務ということになる。
ストーカーというものが、法整備の対応となると、今度は、
「個人情報保護」
という問題も絡んでくるようになるのだった。
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