政宗シリーズ4 その後の佐助 修正版

飛鳥竜二

第1話 小原の老人 修正版

 23年に発表した「その後の佐助」の修正版です。実はPCの操作ミスで編集作業ができなくなり、新しいページで再開したものです。表現や文言を一部修正しております。もう一度読み直していただければと思います。


空想時代小説


 片倉小十郎で有名な宮城県白石市の郊外、蔵本に小さな墓地がある。そこには田村定弘とその奥方(阿菖蒲)の墓があり、その傍らに名もない小さい墓が2つある。ひとつは奥方の父である真田信繁(幸村)の墓といわれている。そしてもう一つが墓守りであった男の墓だという。名を佐助というそうだ。


 時は江戸時代。徳川の政権が安定してきた家光の時代。背が丸まった80才前後の小柄な男が、みちのく白石の里の小原にある川ぞいの温泉につかっていた。ここ小原は「目に小原」といわれる秘湯である。年老いた人間にとっては体にいい。また洞窟内に温泉がわいているので、人目を避ける人間にとっては好都合である。

 男は、この小原と白石城下の中間にある炭焼き小屋にいた。炭作りを生業としている。年の割には、足さばきが素早く、山道を苦もなく歩く。時に、物音に反応し、木陰に隠れることはあるが、何もないことを確かめると、また歩みを始める。

 夕刻には、いつものように墓地についた。落ち葉をはらい、墓石を手ぬぐいでふき、手を合わせる。これがこの男のいつもの行動だった。墓の主は田村定弘とその奥方阿菖蒲。田村定弘は政宗の正室愛姫(めごひめ)の父、田村清顕の孫養子。愛姫の甥にあたるが、実際は従弟である。小田原の戦いに田村家は参陣せず、秀吉から改易となった。これは政宗から小田原への参陣は不要と言われたためであり、田村家の重臣たちは政宗に反発し、佐竹氏へ降っている。

 定弘は、愛姫の親戚であるので、政宗の重臣片倉小十郎の家臣として迎えられた。そして大坂の陣で、2代目片倉小十郎は真田信繁の娘阿梅と阿菖蒲を連れ帰ってきたのである。後日、阿梅は片倉小十郎重長の後室となり、阿菖蒲は田村定弘の正室となったわけである。阿菖蒲は一男一女を産み、60才近くまで生きたと言われている。

 二人の墓の傍らに無銘の小さな墓がある。これは阿菖蒲が父真田信繁のために建てた墓と言われている。もちろん遺骨があるわけではないが、墓の下には桐箱に入った遺髪が入っている。佐助が大坂夏の陣の際に、真田信繁から託された遺髪である。

 

 時はさかのぼって大坂夏の陣。道明寺の戦いで敗れた真田信繁は佐助とともに、天王寺近くの安居神社の境内にいた。

「佐助、今まですまない。わしはもう終わりじゃ。もう動けん」

「殿、そんな弱気にならず、今までにもつらい時が何度もありました。それを乗り越えてきたではございませんか」

「いいのだ。佐助。充分戦った。敗れたとはいえ、真田の名はいつまでも残るであろう。気になるのは奥とその子どもたちだ。佐助よ。奥と子どもたちを頼む」

 と言って、毛髪をひとつかみし、脇差しで切り取った。その毛髪と脇差しを佐助に差し出し

「これを奥と子どもたちに渡してほしい」

「殿ー!」

「ほれ、敵がせまってきた。急いで立ち去れい」

 佐助は人の気配を感じ、信繁のいる大岩の陰に隠れた。


「そこの将、名のある武将と見た」

「よくぞ参った。我こそは真田左衛門佐。我を倒し、手柄とせよ」

「ナヌ! 真田とな。これは好機。いざ尋常に勝負!」

 信繁は最後の力を振り絞って立ち上がり、刀を抜いた。3太刀ほど交わすことはできたが、疲労困憊の体は長くもつことはなく、敵の応援に来た武士に槍で突かれ、首をとられてしまった。佐助はそれを見届けると、京へ向かった。涙がとめどなく流れ、ほほを伝っていた。

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