最後の試験【デジタル・メモリーズシリーズ】

ソコニ

第1話  最後の試験



加藤洋子(42歳)は、教室に立ちながら深いため息をつく。2045年、彼女は都内の進学校で数学を教えている。来年度から完全導入される「全自動学習評価システム」の試験運用が始まっていた。


「先生、この問題の解き方がわかりません」


教室の後ろから手が上がる。声の主は村上翔太。数学が得意な生徒だが、最近は成績が下降気味だった。洋子は彼の横に立ち、タブレットの画面を覗き込む。


「ここで躓いているの?」


画面には複雑な方程式が表示されている。翔太の視線は画面に釘付けだ。


「はい。AIアシスタントが示してくれた解法が、どうしても理解できなくて...」


洋子は翔太のタブレットを借り、自分の端末と接続する。すると、翔太の学習履歴が詳細に表示された。問題の取り組み方、つまずきのパターン、思考の過程まで、すべてがデータ化されている。


そこで洋子は気づいた。翔太は公式を暗記することに重点を置きすぎていた。理解より記憶に頼ろうとする傾向が、グラフとして明確に示されている。


「翔太君、ちょっと考え方を変えてみない?」


洋子は、翔太の目の前で一つの図を描き始めた。


「この方程式は、ただの記号の羅列じゃないの。これは、ある現象を数学的に表現したものなのよ」


図が完成すると、翔太の目が少し輝いた。


「あ、これって...波の動きを表しているんですか?」


「そう!その通り!」


洋子は満足げに微笑んだ。これこそが、彼女が教師として大切にしてきたもの。生徒の「わかった!」という瞬間に立ち会えることが、この仕事の醍醐味だった。


しかし、その喜びも束の間。職員室に戻ると、システム移行についての新たな通知が届いていた。


『教員各位

全自動学習評価システムの完全移行に向けて、以下の準備を進めてください。

1. 授業内での個別指導の段階的削減

2. 評価基準のデジタル化完了

3. 教員介入度の数値化報告』


画面を見つめる洋子の表情が曇る。


確かに、新システムには利点がある。24時間365日、生徒一人一人の学習状況を完璧に把握し、最適な教材を提供できる。成績評価の公平性も保証される。そして何より、教員の業務負担が大幅に軽減されるという。


だが、本当にそれでいいのだろうか。


その夜、自宅で過去の授業記録を見返していた洋子は、ある生徒の学習データに目が止まった。3年前に担任していた安藤美咲。成績は振るわなかったが、諦めずに質問に来ていた生徒だ。


洋子は、美咲との一つのやり取りを鮮明に覚えている。


「先生、私、きっと数学の才能ないんです」


放課後、泣きながら相談に来た美咲にかけた言葉。


「才能?そんなものに頼る必要はないわ。大切なのは、自分の頭で考え続けること」


その後の美咲は、少しずつだが確実に成長していった。最後の定期試験では、クラスの平均点を超えることができた。


しかし、新システムの評価基準では、美咲のような「成長の過程」は数値化できない。効率と最適化を追求するアルゴリズムは、個々の生徒の努力や挑戦を評価対象としないのだ。


次の日。


「加藤先生、ちょっとよろしいですか」


校長室に呼ばれた洋子を待っていたのは、教育委員会からの視察官だった。


「新システムへの移行が、予定より大幅に遅れているようですね」


淡々とした口調で、視察官は洋子の教育方針について質問を始めた。なぜ個別指導の時間を減らさないのか。なぜシステムの推奨する解法以外を教えるのか。


洋子は真摯に答えた。


「確かに、新システムは優れています。でも、教育は単なる知識の伝達ではありません。生徒一人一人の可能性を信じ、寄り添い、共に成長していく過程こそが重要だと考えています」


視察官は黙って洋子の言葉を聞いていた。そして、意外な提案をした。


「では、実証実験をしませんか」


その提案は単純だった。洋子のクラスと、完全自動化されたクラスで、半年間の学習効果を比較する。数値化できる学力の向上だけでなく、生徒の学習意欲や創造性まで、総合的に評価するというものだ。


洋子は即座に承諾した。


それから半年。厳密な比較検証が行われた。結果は意外なものだった。


基礎学力の向上という点では、両者に大きな差はなかった。しかし、応用力や問題解決能力、そして何より「数学を学ぶ意欲」という点で、洋子のクラスが明確な優位性を示したのだ。


特に注目されたのは、成績下位層の変化だった。自動化クラスでは、成績の二極化が進んだのに対し、洋子のクラスでは、着実な底上げが見られた。


この結果を受けて、教育委員会は方針を修正した。全自動システムは導入されるものの、それは「教員の判断を支援するツール」として位置づけられることになった。


新学期が始まる前日。洋子は職員室で新しいシステムの設定をしていた。画面には、一人一人の生徒の学習履歴が表示される。しかし今度は、そのデータは教員の裁量で柔軟に解釈し、活用できるようになっていた。


洋子はふと、自分のデスクに貼っている付箋に目を留めた。それは、卒業した美咲からもらった言葉だった。


『先生の授業で学んだのは、数学だけじゃありません。考え続けることの大切さを、教えていただきました』


洋子は微笑む。テクノロジーは確かに進化する。しかし、教育の本質は変わらない。それは、一人の人間が別の人間の成長に寄り添い、共に学び合う営みなのだ。


明日からまた、新しい生徒たちとの学びが始まる。洋子は、その時を心待ちにしていた。


教室に差し込む夕陽が、彼女の横顔を優しく照らしていた。


(終)

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