春(過去)

 ――かつての春。


 うららかな陽射しの中、部下になったばかりのリーフに対して上司は言った。


「ここには人間の醜悪が広がっている」


 上司のクラウスが、ピラネージ廃墟館の西塔バルコニーから眼下の景色を見渡した上での一言だった。

 何度も聞いた話だったので、隣に控えていたリーフはそうですねと相槌を打った。

 山を切り拓いて建てられた館からは全てが一望できる。風にさらされて落ちた屋根、割れた窓、折れた柱が壁に突き破り、石垣は崩壊して、幾つかの建物は土砂に埋もれている。

 そこには放棄された町があった。


「なんという破滅的眺めだ。一瞥するだけで私の美的感覚を致命的に損なわせる」

「だから、ボクが更地にしましょうかと言ったのに。今からでもハンマーで粉々にできますよ」

「だが、これでいい。安寧の中から新たな美は生まれない。私たちは至美の世界の途上にいる。この醜悪な光景を前にして、私の美的創造力は働くのだ」

「そうは言いますけど、毎日毎日死んだ町を眺めては愚痴を聞かされるボクの身にもなってください」

「む、そんなに言っていたか?」


 滔々とうとうと持論を語っていたクラウスが振り返って首をかしげた。

 そうですとリーフは頷きながら、考え込む上司の横顔を眺めた。

 美を語るだけあって、相変わらず彫刻のように端正な顔をしている。優美な線を描く輪郭に、高級シルクのようにシミも皺もない滑らかな肌、頬に影を落とす硝子細工のような繊細な睫毛。肩甲骨まで伸ばされた常磐色エバーグリーンの髪は整髪料を塗らずとも艶やかに揺れている。

 肩にかけたジャケットと一緒にさらさらと風に流される髪はレースカーテンのように上品で目を引いた。しかし、その優美さは女性的なものではなく、首筋や肩も力強く、厚底ブーツを履いているリーフより上背も大きい。

 下層市民生まれのリーフに審美眼というものは備わっていないが、一目見てこれが本物の美しいものか感動した。宝石なんてろくに知らないが、きっとこの上司のほうが美しい。

 リーフは自分の朽葉色ラセットブラウンの髪に触れた。指を滑らせようとして途中で引っかかる。グローブをしているせいだと言い訳するが、軽く摘まんだ毛先はどう見てもばさばさ、しかも埃っぽい。

 さっきハンマーで不要なものを叩き壊してきたせいだろうかと考える。そういえば、肌もガサガサと乾燥している気がする。

 自分の頬をつねったり、撫でたりしているリーフに気づいたクラウスがやめたまえと厳しい口調で制止する。


「肌、特に顔はむやみに触れるものではない。過度な刺激は肌荒れの原因となる。美しくないだろう」

「……別にいいですよ。ボクは女として生きていませんから」


 リーフは顔から手を離して、気にしていないというようにつんと顎を上向ける。

 身長を誤魔化すための厚底ブーツ、細い身体の線を隠すための詰襟の服、肩に届かないぐらいに無造作に切った髪は紐で一つにまとめて、声を低くしてボクと名乗るリーフの姿は、一見して女性には見えないだろう。

 だから関係ないと言うリーフに、クラウスは彫刻のように感情のない美しい顔で首を横に振った。


「女だろうが、男だろうが、何者だろうが関係ないだろう。私を見て、男だから美しくないなどと君は言うのか?」

「クラウス様が美しいことを否定する気はないですよ。でも、クラウス様はクラウス様という枠というか」

「もちろん、私は私であるがゆえに美しい。しかし美に枠はない。美は万物に宿るのだ。そこは、私の部下である君にはしっかり理解してもらわなければ」

「しかし、クラウス様、全てが美しいなら土砂に埋もれた町を醜いと嘆く必要はないでしょ」

「いいや、矛盾などしていない。万物に美は宿り得る。美の可能性、美のイデアは全てのものが持っている。だが、必ずしもその美を生かし、育て、開花させているとは限らない。この眼前の光景のように、美を損なって醜悪なる有り様を見せることもある」


 クラウスは嘆かわしいといった口調で、静かにまたバルコニーからの光景を睥睨へいげいする。

 ここは、元は山間の穏やかで小さな保養地であったらしい。しかし、見栄っ張りの成金商人が土地を買い、山を切り崩して自らの大豪邸を建築しようとしたのが不幸の始まりとなった。山肌を削られて保水力を失った山は、大雨によって崩れ一晩で全てを埋もれさせた。

 残ったのは崩壊した街と土砂崩れから奇跡的に一部助かったピラネージ館。全ては放棄されてしまい、荒らされ、少し前まで追い剥ぎや積荷の強奪を行う犯罪集団が根城にしていた。本来は自然豊かな美しい場所であったはずなのに。

 そこを、クラウスとリーフが二人で壊滅させたというわけだった。


「ああ、美意識のない人間のせいでこの醜悪なる風景がつくりだされている。美意識さえあれば、ここにまだ美があったはずだ」

「なるほど? まあ、あのならず者どもには美意識の欠片もなかったでしょうね。もうちりになってしまってますけど」

「私が言っている美意識のない人間とは、このピラネージ館を建てた成金商人のことだ。もちろん、あの無法者たちの醜悪さも目に余るものだったが」

「そうなんですか? このピラネージ館は、一部崩壊していても綺麗ですよ。美しい館を建てた人ですから、美意識はあったのでは?」

「そう勘違いする人間のなんと多いことか。……いいか、リーフ、私の言葉をきちんと胸に刻んでおくんだ」

「はあ」


 よくわからないなと生返事をしたリーフを咎めて、クラウスがもう一度厳しく名前を呼んできた。

 仕方ないので、リーフも従順なる部下として姿勢を正した。それを見て、よろしいと頷かれる。


「つまりそういうことだ、リーフ」

「……え、何がですか? ボク、クラウス様の美声に聞き惚れて意識でも飛んでました?」

「違う。美意識とは欲望ではなく姿勢、自制心、信念であるということだ。金に飽かせて美しい館を無計画に建てるというのは、あまりに考え足らずの欲望任せな醜い行為だ」

「クラウス様の話はいつも難しいです。学がないボクではよくわからない」

「そうやって考えを放棄するのはよくない。リーフ、折角姿勢を正して聞いたのだから、その内容について思考を巡らせたまえ。それこそが美への一歩だ」

「はあ……」


 この人のこういうところが苦手だとリーフは内心首をすくめる。貴族の坊っちゃんとして育てられたクラウスは一つ一つ丁寧に頭で考えて、それを小難しい言葉で演説し、下々の者に教育しようとする。

 問答無用で踏みにじられるよりかはマシかと、リーフは単純な思考しかできない自分の頭で考えてみる。


「昔、仕事として猫のクソを集めたことがありました。美容のためにと金持ちや貴族が糞を肌に塗っていたそうです。そういう苦行のようなことも我慢してやるのが美意識ですか?」

「確かにフンパックは一時期流行していたが、私は好まない。そして美意識は苦行に耐えうるが、苦行が美意識というわけではない」

「それってどっちも一緒では?」

「そうではない。リーフ、美意識とはそうあらねばならないと思い、実行し、そうあり続ける強い意思のことだ」

「なるほど、根気強いということですか」


 そう言ったリーフに無言でクラウスは首を横に振る。違うっぽい。

 美とは自分には考えが及ばないような難しいものらしいと思考を放棄しかけたところで、察したクラウスが諦めるなと言ってくる。


「私の部下である以上、君に醜悪な真似をさせるつもりはない。諦めとは美から遠ざかる愚かしい行為だ」

「ボク、別に自分が美しくなりたいと思っていないんですけど」

「だが、君にも美意識の欠片はあるはずだ。だから教団に入れたのだろう? 私もそうだ。どうしても諦めきれず、タガエル神の御力に縋った」


 強大な力を持つ混沌の神タガエルは、かつて全ての願いを叶えたという。求めれば与え、望めば成就し、欲は必ず満たされる。結果、世界はあらゆる願いによって混沌に落ちた世界は滅びかけた。聖書の最後では、邪神に堕ちたタガエルは秩序の神フーゴによって封印され、世界は平和になる。

 しかし、平和で秩序だった世界では罰せられ、秩序のある世界では認められない、そんな願いを叶えるために人々は邪教団を創設した。

 そして、今こうして封印された邪神を復活させようとしている。

 クラウスも例外ではない。


「クラウス様の願いですか?」

「そう。私は永遠が欲しい。美は万物に宿るが、永遠ではいられない。時が劣化させてしまう。……美は永遠などと出鱈目でたらめを言う者もいるが、それは思考放棄だ。私は決して美の探求を止めない。私の美を永遠にする。したがって、いち早くタガエル神には復活していただかなければ」

「クラウス様は不老不死が望みですか」

「私の美が年月によって損なわれるのが耐えられないんだ」

「なるほど……?」


 街を壊してでも美しい館を建てようとした成金と世界を滅亡させてでも永遠の美を求めるクラウスにどんな違いがあるのだろうとリーフは思う。

 でも、そこを責める気はない。教団にいる者は頭のどこかがねじ曲がったような者ばかりだ。

 それはリーフも同じだ。


「それで君の願いは何なんだ?」

「……言いたくないです」

「なぜだ。君の信念だろう、恥じてはならない」

「べつに恥じているわけじゃないです。ただ……」

「ただ、何だ?」


 言うべきかどうかリーフは悩んだ。本当に恥じているわけではない。ただ、クラウスの願いとリーフの願いは相反するものだったから、機嫌を損ねるのではないかと心配になった。

 話すことを躊躇ためらっているリーフに、クラウスが美しいをずいっと近づけて迫ってくる。


「恥じることがないのならはっきりと話すべきだ。内に秘めても誰にも理解はされない。美とは、認知され、観賞され、愛好されてこそだ」

「ボクの願いは美と関係ないですけど……わかりました、言いますよ」


 整いすぎた顔でじっと見つめられると、人は抗えなくなるらしい。

 それを身をもって知ったリーフは、どうにでもなれと自分の願いを話した。自分というものをほとんど持っていないリーフの唯一の望み。


「全部粉々にしたいんです」

「……何をだ?」

「だから、全部ですって。人も、動物も、世界も、神様も、自分自身も、全部粉々に割るんです」

「何のために?」


 心底わからないとクラウスが完璧な表情を崩した。

 不機嫌にはなっていないが、困惑しているようだった。


「気分がいいからです」

「気分がいいとは、割れる様を美しく観賞できるからということか?」

「割れる瞬間って素敵な音がするじゃないですか。そして粉々になって、形がなくなって、元の意味も失って、最後は風に流されて消えてしまう。それが好きなんです」

「つまり、リーフは神に世界の全てを粉砕してほしいと願うのか?」

「いいえ。割るのは自分でやりたいです」


 そのためのハンマーだと、リーフはベルトに挟んだ愛用の武器に触れる。

 人間や動物というのは、血の巡る肉体を持つ湿り気ある物体なのでハンマーで潰してもぐちゃっとなってしまう。だから、陶器の食器皿のように全部ぱりんと割れるようになればいいとリーフは願う。それを砕いて、粉々になった塵をさらさらと風に流して世界へ返せば最高だ。

 話を聞いたクラウスは、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。


「美しい私を割られるのは困るんだが……」

「じゃあ割るのは最後にします、美しいクラウス様がもったいないですし。だから、そんな顔しないでください」

「そんな顔? ……しまった、顔に皺をつけてしまった。美が損なわれてしまう」


 顔に入っていた力を抜いて、クラウスは眉間を指ですりすりと引き伸ばした。

 表情を動かして顔に皺をつくりたくないクラウスは基本的に無表情だったが、代わりに動きに感情が乗りやすい。動作自体は上品だがどこか愛嬌がある。焦ったようにふわふわ動かされる腕に、リーフは噴き出して大声で笑ってしまった。

 当然、部下に笑われたクラウスはそれを咎める。


「あまり大口を開けて笑うものではない。顔が崩れて、美しくないだろう」

「ふ、ふふ、すみません。……でも、ボクが部下でいいんですか? クラウス様とボクの願いは正反対です」


 咳払いを一つして、リーフは上司に尋ねた。気に食わないと首を切られては困る。

 クラウスは彫刻のような美しい顔を保ちながら頷いた。


「そうだな。けれど、リーフの願いはある点で魅力的でもある」

「どこがですか?」

「醜いものを粉々に割ってやれるという点だ。醜いものほど可哀想なことはないだろう? だから、最後の一人として私を割るといい」

「最後ならいいんですか?」

「美とは観賞されて生まれるものだからだ。観賞する者がいなくなったのなら割っても構わない。あるいは永遠を手に入れる前に私が美しくなくなったら、すぐに割ってくれ。耐えられないから」


 クラウスには、その他大勢を守って自分という美を長く観賞してもらう気はないらしい。自分の美さえ守れればいいようだ。

 そもそも邪神教団には自己中心的考えの人間しかいないが。


「クラウス様って結構自己中ですよね」


 思わずリーフがぽろりと内心思っていたことを言ってしまうと、むしろクラウスは胸を張った。


「そう、美とは自己の表現。自己を中心にして考えなければ、美のいただきには辿り着けない。リーフ、君もわかってきたじゃないか」

「なるほど? つまり、クラウス様を美しいと思う者がいなくなったら割るということですか。しかし、それだとボクは一生割れないです」

「何故だ?」

「だって、クラウス様が美しいとボクは最期まで思うでしょうから。……ボク一人だけで不満なら、きちんと粉々にしますけど」

「確かにそうだ。私は美の探求を怠らない。私の美は永遠になる。では、世界で我々は永遠に二人になるのか」

「いえ、ボクは不老不死になるつもりはないので」

「……ああ、そうだったか。なら、君が死んでしまう前に私を割ってくれ。君がいなくなったら、私の美の鑑賞者がいなくなるのだから」


 少し寂しそうにクラウスは微笑んだ。ああ、やっぱりこの上司は美しいなとリーフは思う。

 黙って横顔を見つめていると、クラウスは彫刻のような無表情に戻って不思議そうに首をかしげた。


「どうした、何か問題でも?」

「……やはりそろそろ下の町を更地にすべきと思います。醜いものは憐れなのでしょ?」

「そうか。では、そうしてくれ。醜いものは美的感覚を刺激するが、やはり醜いものでしかないからな」

「わかりました。粉々にしてきます」


 リーフはハンマーを手に、もう一度バルコニーから土砂に埋もれた街を見下ろした。

 もしも自分の理想どおりの新しい世界になって、そこにクラウスがいたのなら、それはどんなに心踊るだろう。

 街の残骸の上には、まばらに緑が輝いている。

 春の芽吹きが現れていた。

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