闇に咲く花

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YASYKE the Night

山里から更に奥深いその岩山は、来るものを拒むようだった。そびえ立つ巨岩の間を縫う細い道は人ひとり通るのがやっとで、足を踏み外せば奈落の底へと落ちるだろう。風が唸るように吹き抜け、木々は幹からねじれるように曲がっている。どこかから不気味な鳥の鳴き声が響き渡り、昼間にもかかわらず薄暗い。まるでこの地そのものが「人の身で踏み入るべからず」と告げているようだった。


修験者の弥助は、そんな道を一歩一歩進んでいた。浅黒い肌は長い日々の修行によるものであり、鍛え抜かれた大柄な体格は、彼が肉体的にも精神的にも試練に耐え得る存在であることを物語っている。腰には法螺貝ほらがい、背にはおいを背負い、衣は土埃にまみれている。すでに何日も険しい道を歩き続けていたが、彼の表情には疲れた様子は見られない。ただ、険しい山道に挑む者特有の緊張感だけがあった。


山中深くにある荒れ寺――そこが試練の場だった。彼は修験道の最終試験として、この地で一夜を明かすことを命じられている。だが、その荒れ寺には古くから恐ろしい噂があった。

「美しきあやかしが住まう。心弱き者を惑わし、命を奪う」と。


弥助は噂を知っていた。それでも恐れる様子はなかった。恐怖を超えてこそ真の修験者。その信念が彼の大きな背中を押していた。


寺が見えてきたのは、日が沈みかける頃だった。鬱蒼うっそうとした木々に覆われたその建物は、かつて僧が住んでいたとは思えないほど荒れ果てていた。かわらは崩れ、柱はこけむし、扉は外れかけている。それでも、どこかに生気のようなものが感じられる。それは、この寺がただの廃墟ではないことを物語っていた。


弥助は笈を降ろし、寺の正面で深く礼をした。

「これより試験を受けさせていただきます」

低く響く声は山に吸い込まれ、静寂だけが返ってくる。


しかし、山の空気が変わったのはその直後だった。風が一瞬止み、木々のざわめきが消える。まるでこの山全体が彼の存在を見定めようとしているかのようだった。


弥助は深く息を吸い、寺の中へと足を踏み入れた。その時、どこか遠くから、女の笑い声のようなものが微かに聞こえた――。


寺の中は、外の荒涼とした様子とは異なり、異様な静けさに包まれていた。夜の闇が柱の隙間から忍び込み、風の音も消えている。弥助は足元を慎重に確かめながら進んだ。崩れた畳や割れた瓦が足音を吸い込むようで、まるでこの場所が生きているようだった。


ふと、どこからか甘い香りが漂ってきた。それは木の花のようでもあり、かすかに香炉のような匂いも混じる、不思議な香りだった。弥助が立ち止まり、注意を巡らせると、暗がりの奥から人影が現れた。


「お疲れでしょう、旅の方」

柔らかく響く女の声。薄明かりの中に浮かび上がったのは、艶やかな黒髪を垂らした一人の女だった。紅葉が舞うように揺れる赤い着物をまとい、その瞳は深い闇のように輝いている。弥助の鍛えられた心にも、一瞬の隙をつくほどの美しさだった。


「こんな場所に、何故女がいる?」

思わず声を上げた弥助は、すぐに警戒心を強めた。彼女がただの人間でないことは、その空気感だけで察することができた。


女は微笑んだ。その唇の端がわずかに歪み、妖しげな雰囲気を醸し出す。

「女だなんて、失礼なことを言うものですね」

そう言うと、彼女はすっと首を傾けながら続けた。

「実は、私は男なんですよ」


その言葉に弥助は一瞬息を飲んだ。彼女――いや、彼が軽やかにその場で回るように身を翻すと、着物の裾が翻り、ふわりと香りが漂う。まるで目の前の現実が揺らぐような感覚に、弥助はかつてない困惑を覚えた。


「男だと……?」

低く絞り出すような声で問いかける弥助に、紅葉は微笑みを深めた。

「そう驚かないでください。私はただ、あなたを少し惑わせてみたかっただけ」


その瞬間、弥助の背後から、彼の肩に柔らかい手が触れた。弥助が振り返ると、そこには別の「紅葉」の姿が立っていた。先ほどのものと寸分違わぬ姿。しかしその目には冷たい輝きが宿っている。


「貴方のような人は、どちらの性別でも惑わされるのかしらね」

背後の紅葉が低く囁き、前に立つ紅葉と声を合わせるように笑った。その声が重なると、部屋全体が微かに震えた。



弥助は背後の紅葉の手を振り払うと、距離を取るように後ずさった。だが、二人の紅葉はその間もなく動き始めた。一人は滑るように足を進め、もう一人は静かに消えるように影に溶け込む。まるで二人が一体であるかのように、絶妙な間合いで弥助を挟み込む。


「さて、貴方の試練はここからが本番よ」

紅葉の甘い声が部屋中に響く。その瞬間、弥助の肩に向かって鋭い突きが放たれた。彼は一瞬でその動きを察知し、相手の手首を掴んで力強く捻り上げた。だが、紅葉の体は驚くほど柔軟で、するりとその技をかわして体を翻した。


「中々やるじゃない。けれど、それだけで私を止められるかしら?」

紅葉が笑みを浮かべながら、再び接近する。弥助は瞬時に身を低くし、彼女――いや彼の足元を狙うように踏み込む。だが、紅葉はそれを見越して軽やかに後ろへ飛び、再び弥助に向かって手を伸ばした。


二人は瞬く間に関節を取り合う流れに移行した。腕を掴み、捻り、外し、膝や肘を狙い、次々に技を繰り出す。紅葉の動きは人間離れしており、しなやかで美しい。弥助は、その異様な力に押されながらも、鍛え抜かれた技術と持久力で応戦していた。




次の瞬間、弥助が紅葉の手を捻り返し、彼女の体勢を崩した。だが、紅葉はそのまま弥助の肩を掴み、体を密着させるようにして勢いよく反転する。その一連の動作で、二人の顔が至近距離に迫った。弥助の息遣いが紅葉の頬に触れる。


そして――不意に、二人の唇が触れた。


時間が止まったようだった。紅葉の瞳が驚きに見開かれ、その動きが完全に止まる。弥助もまた、何が起こったのかを一瞬理解できず、ただ呆然と立ち尽くした。


「……!」

紅葉は小さく息を飲み、頬がうっすらと紅潮する。それは怒りなのか、別の感情なのか、弥助には分からなかった。


だが、この一瞬の隙を見逃すほど弥助は甘くない。動揺する紅葉の腕を捉え、強引に彼女を床に押し伏せた。そして術符を取り出し、抑え込むようにその額に押し当てた。


「これで終わりだ」

弥助の声は低く響いた。だが、紅葉は術符が押し当てられてもなお、静かに彼を見上げた。その瞳には挑戦の色が消え、妙に穏やかな光が宿っている。


「……終わらないわよ」

紅葉は小さく微笑んだ。その表情が、先ほどまでの妖艶さとは違い、どこか寂しげだった。


弥助は動きを止めたまま、紅葉の顔を見つめた。彼女の体から感じる不思議な温かさに、彼自身の心も揺れているのを感じた。紅葉もまた、動かずに弥助を見つめ返していた。


二人の間に、何とも言えない気まずい沈黙が流れた。


「……止めを刺さないのかしら?」

紅葉が囁くように言う。だが、弥助はその言葉に答えられなかった。迷いが、初めて彼の心を覆った。


弥助は紅葉を押さえ込んだまま、ふと顔を逸らした。先ほどの出来事が頭に残り、どうにも目を合わせられない。紅葉も同じように目をそらし、床を見つめている。沈黙が流れる中、どちらからともなく口を開いた。


「……なぜ迷ったの?」

紅葉が低い声で問いかける。彼女の表情はまだどこか赤みが残っていたが、声だけは冷静だった。


「……わからない。だが、お前を倒さなければならないはずなのに、なぜか……」

弥助は言葉を濁しながら答える。自分の中に湧き上がる迷いが何なのか、はっきりとは分からなかった。


「ふふ、迷うなんて珍しいのね」

紅葉がかすかに笑う。その笑顔には先ほどまでの妖艶さではなく、どこか人間らしい柔らかさがあった。

「戦闘の途中で唇を奪われるなんて、修験者にとっても予想外だったかしら」


その言葉に、弥助の顔が一瞬硬直する。だが、すぐに彼は口を真一文字に結び、無理やり話題を変えた。

「……それより、なぜお前はここにいる?本当にお前は男なのか、それとも――」


その時だった。


寺の外から突然、空気を引き裂くような轟音が響き渡った。次いで、大地を揺るがす重い足音が近づいてくる。弥助は反射的に身を起こし、紅葉を解放した。


「何だ……?」

弥助が声を出す間もなく、壁が音を立てて崩れ落ちた。瓦礫の隙間から現れたのは、巨大な黒い影――異形の妖怪だった。全身はぼろ布のように裂けた皮膚に覆われ、目は血のように赤く光り、口からは鋭い牙が無造作に飛び出している。岩のような腕には、刀のような爪を備えた強大な拳。

その姿は、紅葉のような妖艶さや知性は微塵も感じさせない。破壊と捕食の欲望だけを満たすために動く、まさに「獣」としか言いようがない存在だった。


妖怪は弥助には目もくれず、一目散に紅葉に襲いかかる。その巨腕が紅葉を捉え、持ち上げると、力任せに締め上げた。紅葉が苦しそうに声を上げる。


「くっ……お前、何を――」

紅葉が抗おうとするが、その力では歯が立たない。弥助は即座に行動を決めた。おいから符と法螺貝ほらがいを取り出すと、一気に妖怪との間合いを詰める。


「放せ!」

弥助は気合を込めて叫び、符を妖怪の目元に叩きつけた。だが、妖怪は痛みを感じているのかいないのか、全く怯む様子を見せない。紅葉を掴んだまま、弥助に牙を剥いて襲いかかってくる。


弥助は咄嗟に符を撒き散らし、結界を張って攻撃を防ぐ。だが、結界もその巨体の前では長くは持たない。妖怪の力は恐るべきものだった。


「紅葉!逃げられるか?」

弥助が叫ぶと、紅葉は辛うじて妖怪の腕を外そうと動いた。だが、その力は明らかに足りない。彼女は力なく首を振る。


「無理よ……あの獣は、普通の妖怪じゃない……」


弥助は再び符を手に取り、妖怪の動きを封じるように印を結んだ。彼の体から力強い気が放たれ、妖怪の足元に絡みつくような光の鎖が生まれる。妖怪が一瞬動きを止めた隙に、弥助は懐に飛び込み、その腕に渾身の力で拳を叩き込んだ。


「お前のようなものに、紅葉を奪わせはしない!」


拳が妖怪の胸を打ち砕き、その体から黒い煙が噴き出す。妖怪は怒りに吼えながら紅葉を手放し、弥助に牙を向けて再び突進してきた。だが、その時にはすでに弥助の術符が妖怪の全身を覆っていた。


破邪顕正はじゃけんしょう!」

弥助の叫びとともに、符が光り輝き、妖怪の体がゆっくりと崩れ始める。黒い煙を吐き出しながら、ついにその巨体は瓦礫の上に崩れ落ちた。


静寂が戻る。弥助は荒い息をつきながら、倒れた紅葉の元へ向かった。


「……お前、大丈夫か?」

手を差し伸べた弥助に、紅葉は弱々しく頷き、微かに笑みを浮かべた。

「私を助けるなんて……変わった修験者ね」


弥助はその言葉に答えず、ただ立ち上がると、崩れた寺を見渡した。戦いの気まずさとは異なる、妙な静けさが二人の間に残った。


「ぐはっ」

油断した、そう思って胸を見ると、あの獣のごとき妖怪の爪が突き立っている。

「最後っ屁にしてやられたのか」

弥助は、痛みと同時に奇妙なおかしみを感じていた。

おかしみは次第に高じて……

「ハハハハはぁ」


「しっかりして!」

紅葉の声が耳に届く。だが、その声にはどこか遠く感じるものがあった。まるで自分自身に語りかけているような、不思議な響きだった。


「何で……何で助けるなんて莫迦な真似したんだい!」

紅葉の声が少し震えている。怒りとも、困惑ともつかない感情が滲んでいる。


「ば、莫迦な真似?」

弥助は苦しそうに息を吐きながら、途切れ途切れに答える。「違うな……」


紅葉は眉をひそめ、冷たく言い放つ。

「じゃあ何だよ?」


「真似じゃない……本当の莫迦だよ」

弥助は咳き込みながらも、苦笑を浮かべて続ける。

「試験で、それも最後の試験で、見惚れてしまうような……本物の莫迦だ」


紅葉は一瞬驚いたように目を見開き、次の瞬間、かすかな笑い声を漏らした。その笑いにはどこか哀しげな響きがあった。


「……そうかい、莫迦っていうなら仕方ないね」

紅葉はそう言うと、ふっと目を細める。だがその目には、どこか決意のような光が宿っていた。

「でもさ、上には上があるんだよ。莫迦には、もっとどうしようもない莫迦がいるってのを忘れないでね」


「な、何を――」

弥助が問いかける間もなく、紅葉は静かに弥助の上に覆い被さった。その体がふっと柔らかくなり、まるで霧のように形を失い始める。


「紅葉!何をする気だ――!」

叫びながらも動けない弥助。紅葉は、僅かに微笑んで最後の言葉を残した。

「これが、私にできる……最後の莫迦な真似さ」


紅葉の体は完全に霧となり、やがて光の粒子のように輝きながら弥助の体を包み込んだ。その瞬間、周囲の木々がざわめき、風が吹き抜ける。眩い光が寺全体を満たし、木々の葉が一斉に舞い上がった。それは紅葉そのものが命を散らしたかのようだった。


弥助は、全身が温かい光に包まれるのを感じた。次の瞬間、体が完全に癒されていることに気づく。胸にあった深い痛みも、裂けた肌も、すべて元通りになっていた。


「……紅葉……」

小さくその名を呟く。だが、返事はもうない。静けさだけが残り、紅葉の気配は完全に消えていた。


その時、弥助の目に奇妙なものが映った。寺の中央、先ほどまで何もなかった場所に、一輪の花が咲いていた。

それは「サクラソウ」だった。紅い花弁が五枚、静かに風に揺れている。その形はどこか整いすぎていて、まるで誰かが意図して残したかのようだった。


「……紅葉、お前が……?」

弥助は、ふとそんな名を口にした。紅葉が命を賭けて残したもの。彼にとって最後の試験の象徴であり、同時に彼女の魂そのもののように思えた。


弥助はそっとその花に手を伸ばしたが、触れることはしなかった。ただ深く頭を下げ、静かに呟いた。

「ありがとう……忘れない」


吹き抜ける風がその花を揺らし、どこか遠くから紅葉の微笑む声が聞こえたような気がした。





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