第10話 宇宙の仲間

 千鶴の母、千春は、病室のベッドの傍で、ふぅとため息をついた。

 千鶴が事故に遭ってから、四年が経った。四年間、千鶴は一度も目を覚ましていない。それでもこの病室で、たくさんの機械や管に囲まれながら、懸命に生きようと戦っている。四年間、千春にできることはただ待つことだけだった。

 四年前、千春は夫との仲が険悪な状態にあった。その為、家庭内の雰囲気はいつもギクシャクしていた。夫も千春も、日々の仕事や家事に忙しく、家庭を顧みる余裕が無かった。その為、千鶴は人の顔色を伺うのが上手い子供になり、要するに子供ながら大人に近い精神年齢になってしまい、両親に甘えることは無くなった。代わりに、自分の好きな宇宙や星に関する本を読み耽り、没頭するようになった。そうすることで彼女は心の平安を保っていたのだろう。

 ただ、ある日、千春達夫婦の会話を千鶴に盗み聞きされた夜のこと、あの時だけは、千鶴もいても立ってもいられなくなったのだろう。あの時は、夫婦で離婚についての話を真剣にしていた。千鶴は自分の部屋にいると思って話していたのだが、千鶴はあの夜、廊下で立ち聞きでもしてしまったのだろう。夜なのに一人で外に飛び出して行った。

 千春はあの日、心配になってすぐ後を追った。千鶴に何と声をかければ良いのだろうと思いながら。千鶴を探すと、これといって遠くへ行ったわけではなく、団地の近所のバスケットコートに居た。そこで、女子高生と楽しそうに遊んでいた。千春はその日、千鶴に声をかけることはせず、今はそっとしておこう、と思い家へ帰ったのだった。

 それから、離婚問題について千鶴に切り出せないまま、二ヶ月が過ぎた。夫婦の間でもお互い話し合うべきことがまとまっていなかったせいでもある。千鶴は、その二ヶ月間、みるみる変わっていった。

 週に一度、土曜日だけ、バスケの練習をするようになったのだ。女子高生のお姉さんと。名前は、はやしだじゅり。普段あまり自分から話をしたがらない千鶴だったが、その話となると別だった。今日はこんな練習をしたとか、じゅりさんがどんなだったとか、千春にも詳しく説明してくる。千春も、いつかじゅりさんに会ってみたいな、と思っていた。その時は、奇しくも望まぬ形でやって来たのだが。

 千鶴は歩道を歩いていた時、暴走したトラックに轢かれた。その事故の後、千春は何とか樹里さんとコンタクトを取り、病室へ招いた。その時の彼女の顔は蒼白で、見ていて辛くなった。その後、樹里さんは毎週土曜日に千鶴のお見舞いに来てくれるようになった。

 千春は時々、千鶴はもう目が覚めないのではないかと思ってしまうことがあった。しかし、そんな千春とは対照的に、樹里さんは根気よくお見舞いにやって来ては、千鶴は必ず目覚める、と言うのだった。

 何故、樹里さんがああも言い切れるのかが千春には不思議だった。まるで一種の確信があるみたいだった。母親の私ですら、希望を失いそうな日があるというのに……。

 千春には、この四年で心に決めたことがある。千鶴が目覚めたら、うんと楽しいことを一緒にしよう、と。遊園地や、映画館、千鶴が行きたいと思う場所どこへでも連れて行こう。そして、もっとたくさん話して、笑おう、と。

 千春がベッドの側でこんなことに思いを馳せていると、案の定、ドアが開いた。今日は土曜日だ。ドアの前には、千鶴の好きなガーベラを持った樹里さんが立っていた。


 樹里が病室に入ると、千春さんはいつもの通り樹里から花を受け取り、花瓶に花を活けに、水道へ行った。樹里は、いつも自分が病室に来た時に座る椅子に腰掛けた。

 樹里は四年前、初めてお見舞いに来た後の帰り、飲み屋街で不思議な模様の扉を潜り、それから変な世界へ行った、と記憶している。それから色々あってこちらの世界へ帰ってくると、またあの扉の前に立っていて、向こうの世界で何日も過ごしたのに時間は少しも経っていなかった。

 それはともかく、樹里は、向こうで千鶴と会った。ほとんどずっとお互い何者か気づかずに接していたが、最後になってわかったのだ。千鶴は事故により向こうの世界へ行ったが、きちんと記憶も取り戻したし、樹里と一緒にこちらの世界への扉も潜って来たのだから。絶対目覚める、はず……。

 しかし、樹里自身、何故自分はこのような奇天烈な記憶を信じているのか?と疑問に思う日もあった。人に話したら絶対笑われる。それに、あの世界での記憶自体、どんどん薄れていっている。樹里は、時々自分に自信が無くなることがあった。

 それでも、大抵の時は千鶴は目覚めるという確信を持っていたし、目覚めた時の為の準備もしていた。

 千鶴が目覚めたら、まず事故に遭う前から四年経っていることに驚くだろう。その時千鶴ができるだけ「今」について来られるよう、努力してきた。具体的に樹里が何をしてきたかというと、勉強である。

 千鶴と出会う前、樹里は本当に何事にもやる気を示さない、まあ、ヨクという男の言葉を借りて言えば、ポンコツだった。昔はバスケットボールをしていてかなり強かったが、それも中学までの話。高校に入ってからは勉強にもついていけず、かといって他に秀でたことがあるわけでもなく、ただ日々自分が老い腐っていくのを感じていた。

 千鶴と出会ってからの二ヶ月は、バスケと星の勉強が本当に楽しかった。そして、あの事故、そして謎の旅の後、飲み屋街の不思議な扉の前に帰って来た瞬間、バスケと星の勉強だけ出来ても駄目だなと気づいたのだった。もちろんそれらを怠ると言う意味ではないが。

 その後、樹里は、千鶴が目覚めた時に、学校の勉強などを教えてあげられるように、ます自分の勉強に集中した。また、小学校と中学校の勉強も復習した。何気に忘れているところもあり、人間はすぐ忘れるって本当なんだと実感した。

 樹里はかなり勉強した。今は事故から四年経っているので大学生だ。やりたい事もなかったので地元の大学に入り、教職免許を取るための授業を受けている。もしヨクがその事を知ったら、樹里が教師とかありえん、笑うわ、とか言ってくる様がありありと浮かんでくる。別に教師になりたいわけではないが、教えるなら上手い方がいいだろうと思って、とりあえず資格を取ろうとしている。樹里の親は今や、樹里が教師になろうとしているなんて見違えた‼︎とすごい喜んでいる。まぁ、樹里自身、教師になる為の勉強が意外と楽しいと思っているのは事実なのだが。

 今日は、事故から丁度四年目の日だ。目を覚ましてほしい、と思いながら、千鶴の細い手を樹里は握った。その手を握りながら、樹里は思い出していた。

 千鶴はこちらの世界でも聡明でいい子だったが、向こうの世界でもタキとして本当に強く生きていたな、と。もともと星が好きだったが、タキでいる時も星が好きだった。ヨクに裏切られて泣きながら星を見ていた日もあったっけ。そういう、なんかあるとすぐ泣いたり怒ったりする、結構繊細でピュアなところは、タキと千鶴はそっくりだ。まぁ、もともと同じ人なんだから、そりゃそうか……。にしても最近、星の勉強できてないな。バスケはもっと出来てない。大学の勉強も大事だけど、それにかまけて、千鶴と一番やりたいことの練習ができていないなぁ……。これでも自分、星の勉強いっぱいして、千鶴の知識に少しは追いついたつもりなんだ。それを早く見せつけたい。バスケもしたい。やりたいこといっぱいあるから早く目覚めてほしい。なんて、思っていた時だった。

 千鶴の手が、ピクリと動いたのだ。え?と思って、千鶴の顔を見ると、まぶたがピクッと動き、両目が開いた。そして、その目が樹里の目と合った。

 樹里は、千鶴の手を握りながら、自分の涙腺が崩壊していくのを感じていた。

「樹里さん……?」

 弱々しい声で、千鶴が呼びかけてきた。

 今日という日を、どれだけ待ち焦がれただろう?もちろん、目覚めると信じていた。しかし、実際、こんなにも嬉しいもんなのか。

 千鶴は上体を起こそうとしている。

「いいから、無理して喋んなくていいから、体起こさなくていいから……」

 そう言おうと思ったが、声が声にならない。

 ガシャーンと、何かが割れる音がして、びっくりして音の方を見ると、千春さんが、千鶴が目覚めているのを見てショックで花瓶を落としていた。

「千鶴……‼︎」

 そこからはもう、ありがちな感動の展開だった。


 樹里さんに、聞きたいことがあった。

 千鶴が目覚めた後、リハビリして、何とか退院できた週のこと。お祝いだ‼︎と樹里さんが言って、その週の土曜日は、星を見ながらプチパーティーすることになった。あのバスケットコートのベンチで。

「何にもそれらしいもの持ってないけど、ジュースとお菓子でお祝いしよう」

と樹里さんは炭酸とお菓子をたくさん持って来ていた。

 樹里さんは毎週土曜日に必ずお見舞いに来てくれていたのだ、と千鶴は母から聞いていた。何故、そこまでしてくれるのだろう?目覚めた後は、勉強も教えてくれるし。ただ一緒に、週に一度バスケしたり星見たりするだけの仲だったのに。

 母は、

「もしかして、千鶴の事故を自分の所為だと思ってしまっているのかしら……」

と言った。あの時、自分が千鶴を誘っていなければ、千鶴が外に出て事故に遭うこともなかったのにと思っているのでは、とのこと。

 違うのに。事故が起きたのは、樹里さんの所為なんかじゃないのに。もしそう思ってしまっているのだとしたら、ちゃんと否定しておかなければ……。

 そう思って、気を引き締めて来た千鶴に、

「食べる?」

と樹里さんはスティック菓子を差し出した。千鶴は受け取り。とりあえずそれを口に運ぶ。チョコレートの甘い味が口の中に広がる。

「樹里さん、あの、もし違ったら違うと言っていただいていいんですけど……」

と言いかけた千鶴に、

「見て!流れ星‼︎」

と樹里は叫んだ。千鶴は、空を見上げたが、見逃した。

「樹里さん、いいですか、あの」

と言いかける千鶴に、

「ほら、また‼︎」

と樹里さん。これじゃ埒が開かない。話が切り出せない。もう思い切って、

「なんで、私なんかの為に、毎週お見舞い来たり、勉強教えてくれたりするんですか?もしかして、自分の所為で私が事故にあったなんて思ってないですよね?」

と全部言い切ってみた。

 樹里さんは、ぽかんとして、千鶴を見た。それきり、黙っているので、千鶴が、

「だって、普通の人なら、赤の他人にここまでしないですよ」

と言うと、

「千鶴、私たちって、赤の他人だったっけ?」

と樹里さんは切り出した。

「違うよね。共に旅した宇宙仲間だよね、うん」

 千鶴は、あっと思った。この人、覚えているんだ——。

「もしかして、樹里さん、覚えて——?」

「まぁ、記憶薄れてきたけどね。そっちこそ、覚えてるの?」

「長すぎる夢だと思ってました……」

「にしては、リアルじゃなかった?」

「リアルすぎました」

 ここまで話して、二人は、はははと笑った。

「変な夢だったね!」

「はい!変な世界でしたし」

「変な男もいたしね」

「ははは、そうでしたね」

 ここまで言って、二人は黙った。

「あいつは、元気でやってるよ。千鶴が元気でいるように。逆餞の言葉も置いてきたしね」

と樹里さん。

「そうですね」

 二人は、空を見上げた。そして、彼が残した、しかし結果的に樹里が彼に残していくことになった言葉を思い出した。

 

 困った時は、星を見ろ。

 俺たちは、宇宙を見上げる限り宇宙仲間なんだから——。


 その夜も星は、美しく輝いていた。

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星とバスケットゴール おれんじ @orange_77pct

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