第17話。美紅と白紙

「先生。ごめんなさい……」


 風邪の治った美紅みくが最初にしたことは、結衣ゆいの家に行くことだった。雪子ゆきこから結衣の捜索を手伝ったお礼をしたいと、呼び出されていた。


 家に着くなり、リビングに足を運んだ。


 そこでは結衣が待っていた。美紅が顔を合わせるなり、結衣が謝罪の言葉を口にして頭を下げた。


「美紅さん」


 同じように雪子が頭を下げていた。


「あらためて。結衣を見つけてくれて、ありがとうございます。それと、ご迷惑をおかけしてごめんなさい」


 風邪のことは雪子に話した。そうするように言ったのは月雲つくもだけど、こうなるから黙っておきたかった。


「頭を上げてください。私は当然のことをしただけです」


 もし、あのまま結衣が行方不明になり、何かが起きていたら。美紅は後悔していた。


 だからこそ、迷惑だとは思っていない。


「それと、もう一つ」


 雪子が顔を合わせてきた。


「結衣の家庭教師を続けてもらえませんか?」


「……っ」


 家庭教師を続ける。つまり、また結衣と一緒に居られるようになる。先に浮かんだ自分に都合のいい考えを美紅は振り払い、雪子の提案を断ろうとした。


「私はもう家庭教師の仕事は辞めています」


 晴久はるひさに撮られた写真を見た時、結衣との関係が間違っていると気づいたから。家庭教師を辞めるべきだと美紅は思ってしまった。


「個人的な依頼だとでも難しいですか?」


「個人的……」


 今までは紹介を受けてやっていた。


 それが個人的なものとなれば、やりたくない仕事を避けられるようになる。ただし、問題が起きた時に責任を負うことになるのは自分自身だと美紅は理解していた。


 今回、結衣が行方不明になった原因は美紅が家庭教師を辞めたからだった。その原因を雪子は取り除きたいと本気で考えている。


 ただ、雪子の行動は月雲が言っていたように、結衣のわがままによって引き起こされたものだと美紅は思った。


 ここで雪子の提案を受け入れるのは、結衣のわがままを肯定するということ。果たしてそれは、本当に結衣の為になるのだろうか。


「私は……」


 結衣の家庭教師を続けたい。


 その願いを叶えたいと美紅は思った。


「結衣さんの家庭教師を続けたいです」


 頭に浮かんだ考えを、そのまま言葉にした。


「ありがとうございます」


 雪子が笑顔を見せたのは、娘の願いを母として叶えられたからだろうか。結局、雪子の一番の望みは結衣の幸せなんだと、美紅は思ってしまった。


 これからは結衣の為だけに家庭教師をする。


 それ以上の関係を美紅は求めるつもりはなかった。同じ失敗を繰り返さない為にも、自分の中で関係を割り切ることを選んだ。


「美紅さん、こちらにどうぞ」


 仕事の話が終われば、いよいよ本題に入る。


 お礼と言われ、雪子から家に呼ばれた時点で想像はついていた。簡単な食事を雪子が用意してくれていた。


 美紅が椅子に座ると、結衣が隣の席に座る。雪子も準備が終われば、反対側の席に座っていた。


 食事を始めれば、結衣は黙々と食べていた。いつもそうなのか、緊張しているからなのか。美紅の視線にも気づかない様子だった。


「雪子さん、旦那様はご不在ですか?」


 席に座っているのが三人となれば、美紅は気にもなってしまう。今日は日曜日で昼間から結衣が家に居ることは不思議ではない。


「あの人はゴルフに行ってますよ」


 結衣が行方不明になった日から、それなりに経っている。見つかった日ならともかく、日も経てば元通りの日常に戻る。


 取り残されたのは、ここに居る三人だけ。


 この食事が終われば、結衣が行方不明になった話も過去の出来事になっていく。結衣の後悔も時間が経てば忘れてしまうと美紅は思った。


「いつもゴルフに?」


「いえ。少し前までは仕事続きだったので、ゴルフに行くことはあまりないですね」


 仕事。結衣の父親がやっている仕事は学校の教師であり。日曜日の仕事というのは部活動の顧問のことだと美紅は気づいた。


「雪子さん……結衣さんの家庭教師は本当に必要でしたか?」


「それはどういう意味ですか?」


「旦那様が学校の教師をしていることを知り合いの子から聞きました。なら、私ではなく、旦那様が結衣さんに勉強を教えることも出来たんじゃないですか?」


 それなら、結衣が緊張せずに勉強に集中出来ていたと美紅は思った。ただ、父親が教師だとしたら勉強を教えてもらいたいと自分は思わない。


「学校の仕事が忙しいのもありましたし、何よりも結衣が父親から教わることを嫌がってしまったからです」


 だから、雪子は家庭教師を雇うことにした。


「美紅さん、もしかして、その知り合いというのは学校の生徒さんだったりしますか?」


「はい。バスケ部の生徒で……」


 美紅は雨音あまねのことを雪子に話した。一緒に暮らしていること。雨音の行動で迷惑をかけてしまい、申し訳ないと思っていること。すべてを話したのは雨音と自分の関係を知ってほしかったからだった。


「雨音さん……」


 雪子に話を終えると、黙っていた結衣が雨音の名前を口にしていた。


「バスケ部の件は私も聞いています。活動休止は残念に思いますが、私は誰かを責められるような立場ではありませんから」


「それは旦那様も同じ意見ですか?」


「私が話さなければ伝わりませんから。雨音さんのことを美紅さんが気にする必要はありませんよ」


 心残りだった心配事が無くなった。きっと、雨音との関係が知られたとしても、雪子が庇ってくれる。


「食器、片付けますね」


 話をしているうちに食事が終わった。三人が食べ終われば雪子が片付けを始め、それを見た美紅は手伝おうとした。


 しかし、椅子から立ち上がろうとした時、美紅の服を結衣が引っ張った。


「先生……部屋に来てください……」


 雪子が洗い物を始めている。結衣のことを後回しすることを美紅は出来ず、雪子に確認してから結衣の部屋に行くことにした。


 これまでは家庭教師として足を運んでいた結衣の部屋。あらためて足を踏み入れると、以前とは違った雰囲気があった。


「座ってください……」


 床に置かれていたクッションに美紅は座った。


 向かい合うように結衣も座り、先程とは違って二人きりになる。そうなれば、自然と美紅の視線は結衣の唇に向けられていた。


「先生……」


 けれど、すぐに考えを振り払ったのは、関係を割り切ると決めたから。あの日の出来事も忘れようと美紅は思った。


「あの……雨音さんって……」


「雨音ちゃん?」


 雨音の話をしてから、結衣がソワソワしていた。


「二人で暮らしているんですか……?」


 そういえば、以前、結衣が雨音と顔を合わせた時に一緒に暮らしてると話した気がする。ただ、雨音と二人暮しとは言ってなかった気がした。


「そうだよ。色々と事情があってね」


 雨音の話なら雪子の前でも出来ると美紅は思った。ただ、結衣の様子がますますおかしくなったことに気づいた。


「先生は……雨音さんと結婚してるんですか?」


「え、結婚?」


「だって、一緒に暮らしてるって……」


 一緒に暮らしているから、結婚をしている。そんな結衣の勘違いを聞いて、美紅は笑顔を返すことにした。


「結衣ちゃん。結婚をしなくても、一緒に暮らすことはあるんだよ」


「そうなんですか……?」


「雨音ちゃんは私にとって……妹みたいなものだから」


 ただの家族。わかりきった関係。


「なら……私と……」


 結衣の顔が赤くなって見えた。


「私と?」


「な、なんでも、ありません……」


 美紅は結衣の言いたいことがわかっていた。


 それを封じたのは、結衣と今以上の関係になるつもりがないから。美紅は喜びが溢れてしまいそうな感情を押し込んで、出会った頃の関係に戻ることを選んだ。


「それじゃあ、結衣ちゃん。またね」


 今日はこれで帰ることにした。


 結衣と正面から向き合うことを、美紅は恐れてしまったから。臆病者のように逃げることしか出来なかった。

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