第四十九話 細部を詰める
予定どおり、志乃は羽麻子の部屋に仮住まいをすることになった。
朝餉を断って、新しく用意された布団に潜る。幸いにも睡魔はすぐに志乃の意識を落としてくれたので、「あなた、晴時さまとずいぶん仲を深めたようじゃないの」とつついてくる羽麻子から逃げることができた。
詠月からお呼びがかかったのは、昼頃、志乃があらためて目覚めたときである。
「志乃、あなた起き抜けはいつもこうなの? 詠月さまにお目通りするのに、だらしないったら。しゃっきりなさい」
寝ぼけまなこですずに着付けられる志乃の横で、羽麻子がちくちくと刺してくる。彼女もまた、碧の手を借りて身支度を整えていた。すでに上等な着物をまとっていたというのに、また改めて着替えているのである。
帯を力いっぱい締められて「くぇ」と情けない声を出した志乃は、真剣な顔で帯留めを選ぶ羽麻子を見やった。
「……なんで羽麻子さんが準備してるの」
「あなたひとりじゃあ、詠月さまにどんな無礼をはたらくかわからないでしょう。わたくしが見張るわ」
「詠月様に会いたいだけじゃあ――いひゃい」
頬をつままれた。そのまま姿見の前まで連れていかれる。
「今どんな顔をしてるか自分でたしかめてご覧」
「うわ……」
すでに顔を洗ったあとにも関わらず、ひどい顔だった。眠気に負けてまぶたが開き切っていないし、目の下にうっすらとクマができている。肌の調子も心なしか優れない。あんなことがあったあとで、朝に寝て昼に起きたのだから当然ともいえる。
ほれ見ろ、と言いたげに羽麻子がふんぞり返った。
「わかったらさっさと支度なさい。詠月さまをお待たせするわけにはいかないわ」
ぴしりと言い切る姿は、自分こそが詠月に呼ばれたのだと言わんばかりである。
(羽麻子さんてば……)
まだ着替えただけなのに、志乃はなんだか疲れてしまった。
すずに連れられて廊下を進めば、部屋の前で詠月が立って待っていた。開けた襖の向こうには、座して黙した晴時も見える。
志乃と羽麻子の顔を見ると、詠月はとびきりの笑顔を浮かべた。どれくらいとびきりかというと、羽麻子が舞い上がって黄色い声を上げたくらいである。
しかし次の瞬間、羽麻子は凍りついた。
「羽麻子、すずと一緒に部屋に戻っていなさい」
「わ、わたくしがご一緒してはいけないお話ですか……」
「いけないというわけではありません。ただ、いらぬ揉めごとにあなたを巻きこみたくないだけです。わかってくれますね?」
詠月はとろりとした笑みを浮かべたままだった。
志乃はいくらかげんなりして、羽麻子を窺う。
案の定というべきか、彼女は一転して頬を真っ赤に染めていた。両手を胸の前で握り合わせ、まるきり乙女のポーズである。
「もちろんですわ。詠月さまにご心配をかけるようなことにはいたしませんっ」
羽麻子は勢いよくすずを振り返った。「詠月さまのお手を煩わせないようにさっさと戻るわよ、すず!」と胸を張って来た道を戻っていく。
相変わらず、詠月が絡むと嵐のような娘だ。
廊下の角を曲がり、羽麻子の背中が見えなくなったところで、詠月が志乃を振り向いた。
「――で、あなたは何をもたもたしているんです? 早くお入りなさい」
羽麻子に向けていた優しい微笑はなりを潜めている。同じ笑顔には変わらないはずなのに、彼が志乃に向けたそれは、相変わらずどこか小馬鹿にしたような色を含んでいた。
話を始める前に、さらに疲れた志乃である。仕方がないのでおとなしく部屋に入った。
「なんだその寝ぼけた顔は」
晴時に追い打ちをかけられた。
「眠れなかったか」
あたたかい手が伸びてきて、隣に腰を下ろした志乃の頬を撫でる。やはり目元に陣取っているクマが気になるのだろうか。じっくり見られるのもいやで、志乃は身をよじった。
「いや、寝たはずなんですけど……」
「腹には何か入れたのか」
「食べる暇なかったです」
それはいけない、と晴時が顔をしかめた。「話が終わったら何か用意させよう」
咳払いが響いた。
顔を上げれば、いつの間にか向かいに座っていた詠月が、肘掛けにもたれたまま志乃と晴時を眺めていた。黄水晶の瞳は三日月を描いている。
「志乃はともかく、ハルもずいぶん丸くなりましたね」
志乃はさっと頬を染めた。
「私はともかくってなんですか」
「言葉のとおりですが」
きょとんとされても困る。
「詠月様――」
口を開けたまま硬直した志乃に代わって晴時が何かを言いかけたが、詠月にあっさり遮られた。
「さて、あまり雑事にかかずらっている暇もありません。とっとと先に進めましょう」
彼は志乃に向かって何かを差し出した。
蛇腹の折り癖がついた、一枚の書きつけである。顔をしかめながら必死に睨んで、志乃はどうにか『関所』だか『通行』だかと書かれているのを読み取った。
「……私の名前も書いてある?」
「ええ、通行手形です」
旅人が関所を通過するのに必要な書類だ。手形を持った人間がたしかな身元であることを証明するものである。
志乃が日ノ倭国に来た当初、志乃は神力を奪った罪人だった。楸の里から間宮家本邸に向かう道中の名目は罪人の護送である。そのために関所も問題なく通ることができたが、今度の旅はそういうわけにもいかない。東都から関所を抜けて外に出るには、きちんとした証明書が必要なのだ。
そこまで聞いて、志乃は待ったをかけた。
「旅って、あれですよね? ハルさんがお母さんに会いに行くっていう……」
「何を今さら。それ以外に何がありますか」
詠月が眉をひそめる。同意を求めるように晴時を仰ぎ見て、彼は目元のシワを緩めた。
「……ハル? まさか、まだ」
「話はしてあります」
「話をしただけですか」
晴時はそっと目を逸らした。それが答えである。
たしかに志乃は、旅についてこないかという晴時の誘いにまだ返事をしていなかった。本当に志乃がついていっても大丈夫なのかと迷っているうちに篤保が押しかけてきて、すべてがうやむやになってしまったのである。旅の話はそれっきりだ。
「まったく、あなたたちは……決めることも決めずにただじゃれ合っていただけですか?」
「大変だったんですよ、朝」
「知っていますよ、それくらい。だから、じゃれ合っていただけですかと聞いているんです。騒ぎのあとにいくらでも話す機会はあったでしょうに」
志乃は晴時と顔を見合わせた。
志乃は正直、ここで話題に出るまで忘れていたのだが、それは晴時も同じらしい。彼はちょっとだけ気まずそうな顔をしていた。
「……まあ、いいでしょう。仕方ないですから今ここで決めなさい。篤保のせいで最悪の伝えかたになってしまいましたが、今の志乃なら、ハルのお母上が何者なのか、どうして身を隠して暮らしていらっしゃるのかもわかるでしょう」
志乃はおずおずと頷いた。
晴時の母親は鬼である。
彼女が間宮家を出奔した理由もそこにあるのだろう。妖怪退治を生業とする家に、妖怪が正妻として入ったのだ。家の者たちとの折り合いは相当に悪かったに違いない。昨日の晴時の口調からも見て取れる。先代当主――夫を失った晴時の母は、いよいよ間宮家に居づらくなって、荷物をまとめて出ていったのだろう。
その荷物の大半は、晴時の母親自身のものではなく、先代当主のものだった。だから晴時は、御神体を――先代当主の神気が残る品を求めて、母を訪ねようとしている。
「私、本当にハルさんについていって大丈夫なんですか? ハルさんのお母さんの居場所って、よそにバレたらまずいんですよね。行く人は極力減らしたほうがいいんじゃ……」
そして、しつこいようだが、志乃は部外者だ。神力がなければ間宮に関わることもなかった。神力を返せばそこで縁が切れる余所者である。
「あなたが気にするのはそこなんですね、志乃」
詠月の薄い唇が弧を描いた。白い歯がわずかに覗く。
「え?」
「相手は鬼ですよ。会うのが怖いとは思わないんですか?」
「でも、ハルさんのお母さんですよね?」
晴時にも「俺が怖くないのか」と似たようなことを聞かれたが、志乃は彼のことを怖いと思わない。つまり、彼の母親のことだって怖いとは思わない。流れている鬼の血が半分か全部かという違いはあれど、晴時を見ると、その母親が怖い人であると考えることは、志乃には難しかった。
「着物とか見ると、私が普通にお話しできるかなっていう不安は、たしかにありますけど」
志乃が借り受けていた晴時の母の着物はいずれも志乃にはあまり似合わない派手な意匠だった。ほかのエピソードとまとめて受け取ると、晴時の母親はかなり苛烈な性格をしているといえる。
(でも、言うなれば、詠月様が絡んだときの羽麻子さんみたいなものだよね?)
苛烈さの方向は違えど、激しさについてはいい線をいっているはずだ。となれば、そこまで不安に思う必要はないのかもしれないが……。
「だ、そうですが。ハル?」
晴時は額を押さえて天を仰いでいた。
「志乃……おまえ、本当に」
「な、何ですか」
「いや、いい。おまえの懸念も最もだが、ひとりがふたりに増えるくらいは問題ない。そもそも、俺とて母の居場所を把握しているわけではないのだ。知らぬものは暴かれようがないだろう」
「ハルさんも、居場所を知らない?」
晴時が頷いた。
志乃は目を瞬かせる。
それでは、晴時はいったいどうやって己の母に会いにいくというのだろう。
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