第三十八話 追い返す
ピリッとした空気が、部屋を駆け抜ける。
羽麻子が訝しげに眉をひそめた。
彼女はゆっくりと唇を開き、慎重に言葉を紡ぐ。
「
「何が言いたいんですか」
志乃の口から、思いのほか硬い声が出た。
揃えた膝の上で拳を握る。体がこわばるのを感じた。
「志乃?」
台詞を横取りされた羽麻子が横で目を丸くしていたが、志乃はそちらには目もくれず、篤保を真っすぐに見据える。
「いや、いや、そのままの意味だよ。神力なき今の祓守師を鍛えたのは晴時だろう」
「ハルさんが育てた祓守師だから、この前みたいなことが起こったって言いたいんですか」
上に立つ者が晴時だから、祓守師は無能なのだと、彼はそう言いたいわけだ。
篤保が声を立てて笑った。
「さすが、神子殿。いささか直球すぎるが、ま、そういうことだ」
志乃のこめかみが、ぴくりと痙攣する。
それには気づかず、篤保は羽麻子に目をやった。
「羽麻子殿もそう思うだろう。妹御があんな目に遭ったのだ」
「まさか、思いませんわ」
「なに?」
素っとん狂な声が部屋を跳ねた。よほど想定外の答えだったらしい。
「晴時さまを祓守頭に任じたのは詠月さまですもの。詠月さまの判断に間違いはないわ」
「……なるほど、そうきたか。妄信者め」
最後の一言は空気に溶けるほど小さなものだったが、志乃の耳にははっきりと届いた。
届いてしまった。
握った手のひらに爪が食い込む。
「しかし、詠月様は間違わなくても、晴時が間違うことはあるだろう。何しろ、あの血筋だ。結局は、侵入した妖怪と同類よ」
篤保は何ごともなかったかのように話を続けた。
「むしろ、そこらの妖怪をわざと放ったのだとは思わんかね。自身の力を誇示するために、わざと神子殿を襲わせて、ちょうどよい頃合いになって助けに入るとは、いかにも
志乃の頭が沸騰した。限界だった。
「しょせんは畜生の子だ。人には理解できぬ。それに比べて、初代間宮の再来と
「ふざけないでっ」
向かいの篤保がのけ反って、隣の羽麻子がぴょんと跳び上がった。
それくらいの怒声だった。
志乃は膝を立てて篤保に詰め寄っていた。
あの血筋だとか、畜生の子だとか、志乃にはまったくの寝耳に水だ。何を言われているのかわからない。妖怪をわざと屋敷に招き入れて志乃たちを襲わせるなんて、どうしてそんな馬鹿げた考えと晴時を結びつけるのかもわからない。
「あんたはハルさんのこと、私よりもずっと、いろいろ知っているのかもしれないけど!」
それでも、志乃は、真っ向から篤保を怒鳴りつけた。
「この間、猫又を追い払って私を助けてくれたのはハルさんなの! 倒れた私を真っ先に介抱してくれたのもハルさんだっ」
詠月でも、羽麻子でも、すずでも、真也でも、ましてや篤保なんかではない。
日ノ倭国に来てから、ずっと。
楸の里では身を挺して神力の暴発を抑えてくれた。芽柏の跡地の大蛇の巣穴では、真っ先に志乃を逃がしてくれた。生き埋めになった志乃を掘り起こしてくれた。間宮家に来てからは、心ない言葉に晒された志乃を庇ってくれた。これ以上家の事情に志乃を巻き込まないよう、あえて距離を置いて志乃を護ろうとしてくれた。
そうして離れていたにも関わらず、志乃に危険が及んだとたん、誰よりも早く駆けつけた。
「私を一番に助けてくれるのは、いつだってハルさんだった!
「それなのに、あんたは何をしたの? 詠月様やハルさんがいくら禁止しても、私やすずががいくら嫌がっても、しつこく人の部屋に押しかけて!
「揚げ句に私の友達をいじめて、私の恩人を馬鹿にしてっ。
「神子殿、神子殿なんて言って私を持ち上げるくせに、やってるのはただの嫌がらせじゃない!」
思うままに叫び散らかした志乃の肩は、激しく上下していた。息が切れている。こんな大声を他人にぶつけたのは生まれてはじめてだった。そもそも怒鳴ることだって慣れていない。おかげで途中、何度も声がひっくり返ってしまった。
篤保も羽麻子も、ぽかんとして志乃を見つめている。
「なるほど、神子殿は……晴時めの味方をすると申すか」
しぼり出された篤保の台詞に、志乃は、冷や水を浴びせられた気分になった。
沸騰した頭が急速に冷静さを取り戻す。
志乃が言いたかったことのひと欠片すら、篤保には届かなかったのだと、ショックを受けた……わけではない。
思いだしたのだ。
(そうだ、詠月様かハルさんか、どっちかに肩入れしているような素振りは見せるなって……ハルさんに、言われてたんだった)
やらかした。
これまでは一応、気を遣ったもの言いをしていたのに。晴時や詠月が、志乃を巻き込まぬようにと気を配っていたのが、無駄になってしまった。
志乃はすごすごと引き下がった。腰を落として、元どおり、羽麻子の横に座り直す。
「……私、あなたのことが嫌いです」
顔をしかめながら必死に思考を回した。
「ハルさんは篤保様の甥っ子なんですよね。どうして血の繋がった身内のことを、そんなふうに悪く言えるんですか。嬉しそうに他人の悪口を言う人の意見に、賛同することはできません」
どうにか取り繕ったが、果たして、これが通じるかどうか。
無理だろうな、と思った。
「あなたがそういう振る舞いをすると、詠月様まで悪い印象を持たれるんじゃないですか」
「そ、そうよ。志乃の言うとおりだわ」
詠月の名前を出したからだろうか、羽麻子が息を吹き返した。むっと口を尖らせて、志乃に同調する。
「詠月さまは、晴時さまのことを弟のように可愛がっていらっしゃるのよ。篤保さまの先の発言、もし詠月さまのお耳に入ったら――」
廊下から声がかけられたのは、そのときである。
「まったく、そのとおりですよ」
開いた障子に、部屋にいた者たちは、三者三様にぎょっとした。
それも当然だろう。
「楽しそうな話をしていますね」
廊下から顔を出したのは、詠月だった。
「詠月さまっ」
羽麻子が上ずった声を出した。頬を薔薇色に染めながら詠月を見上げる。
反対に、青ざめたのは篤保だ。
「え、詠月様……」
「あなたは以前から、私を当主に、と推してくれていますが……そのわりに、私が出した接近禁止命令は聞かない。私を慕う羽麻子のことは馬鹿にして、私が重用しているハルのことは悪しざまに罵る」
詠月が首を傾げた。
うしろでハーフアップにされた
「見上げた忠義ですね、篤保?」
艶やかな唇が弧を描き、白い頬は持ち上げられた。厚い睫毛に覆われた目も、三日月のように細められる。
誰が見ても極上の微笑みだ。
ただ、その奥に隠れた黄水晶の瞳だけが、どこまでも深く、暗い光を帯びていた。
ひ、と悲鳴を上げたのは、誰だったろう。篤保か、志乃か、羽麻子か。
誰が発したとてもおかしくなかった。
篤保の顔は、紙のように白くなっている。
志乃と羽麻子も、互いに手を取り合って青ざめていた。自分たちが咎められたわけではないのに、である。
「は、はは……これは、儂も少々、口が過ぎたようで、ね」
篤保がもたもたと立ち上がった。畳で何度も足を滑らせている。
「今日のところは、これで失礼し、しましょう。神子殿、体には気をつけるように」
どうにか辞去の挨拶を述べ、転がるように部屋を出る。今度は廊下で足を滑らせながら、ばたばたと走っていった。
志乃はそこで、はっと我に返った。慌てて立ち上がって、廊下に顔を出す。
篤保の背中がちょうど、角を曲がって見えなくなるところだった。
「に、二度と来ないでくださいっ」
辛うじて投げつけた言葉は、彼に届いただろうか。
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台詞の途中で
脱字ではないのでご安心ください。
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