第五十三話 嫉妬を覚える

 急ぐとは言ったものの、その実、ふたりが進むスピードは大して変わらなかった。

 急げばそのぶん人の目に留まってしまうからである。晴時と志乃のこの旅は人に見咎められないように動く必要があるのだから、無駄な注目を浴びるのは避けるべきだった。産女の件は完全に計算外だ。初手から転んだといってもいい。今後はより慎重に動く必要があった。


 目立つといえば、返り血がべったりついた晴時の格好も目立つ。

 晴時は荷から引っ張り出した雨風避けの引廻ひきまわ合羽がっぱを羽織り――志乃に言わせれば白い縦縞模様の厚手のポンチョだが――返り血に濡れた着物を誤魔化した。ひとまずこれで、悪目立ちすることはなくなるだろう。


 血濡れた大橋を渡ると、街道は横に折れた。


 志乃を乗せた黒馬と晴時は、川に沿って歩を進める。川幅はやや細まり、流れも速くなった。広く穏やかな水面で跳ねる陽光はすでに遠い。岸が高くなって、崖とも呼べる景色が視界に映る。

 なんだか窮屈だった。

 というのも、川幅ばかりでなく、その反対側の草原までもが徐々に狭まって、荒々しい山にとって代わったからである。


 日が高く昇る。

 川と山の間を抜けると、すれ違う旅人が増えた。この先の宿場町からやってきた人たちだ。街道は川から離れ、行く手に民家が見えた。


 手綱を引いて黙々と歩いていた晴時が、口を開いた。


「もうすぐだ。澄川宿すみがわしゅくに着く」


 東都あずまのみやこから西――陽都ひのみやこに上る際、最初に通る宿場町しゅくばまちである。宿を中心に発展した、旅人を迎える町だ。町の規模は通る街道によってさまざまだが、澄川宿は日ノ倭国でとくに賑やかだという。東都から上ってはじめに通る宿場町だから、当然といえば当然だろう。

 同じように、陽都に一番近い宿場町もよく栄えているに違いない。


「道を……変えたほうがいいかもしれないな。人が多いと、妖怪に出くわしたときに目立ってかなわん」

「ほかにも道があるんですか?」

「どの地を経由して陽都に行くかによって、街道も分かれているのだ。あまりにも妖怪が出るので引き直された道もある」

「それじゃ、つまり?」


 晴時は頷いた。引き直される前の道を使うということだ。


「多少の危険が伴うが……」

「ハルさんがいるので、私は大丈夫です」

「そうきっぱり言い切られると」


 珍獣でも見るような目を向けられてしまった。なんだか身に覚えのある状況である。

 とにかく、澄川宿を出るときはよくよく考えて道を選ぼうという話になった。さて、まだ昼餉には早いが、ここで取るか遅くなっても次の町まで我慢するか、互いに意見を伺ったときである。


「ひとつ結びのお侍さん、あんたでしょ!」


 いやにはきはきした声が響いた。女の声だ。

 志乃と晴時が同時に振り返る。


澄大橋すみおおはしで妖怪を退治したっていう御仁! あんたでしょ?」


 少女だった。志乃と同じくらいの年齢で、志乃と同じような旅装束をまとい、菅笠すげがさを被っている。笠の下からは、結い上げて髷にした亜麻色の髪が覗いていた。

 目鼻立ちのくっきりした美少女だった。


 羽麻子もはっきりした顔立ちをしているが、あれとはまた種類が違う。濃い、といえばしっくりくるかもしれない。太い眉に、くりっとした目。表情の動きがよくわかる。彼女の顔には今、好奇心がありありと浮かんでいた。

 薄茶の瞳に、晴時の訝しげな表情が映る。


「……なんだ、おまえは」

「わたしは! 観光で陽都に行くところなんだ」


 にっと笑ったは、当たり前のように晴時の隣に並んだ。

 志乃はただ目を瞬くばかりである。強烈な違和感に胸を圧迫された。正体はすぐにわかった。


(この子、私のほうを見ない……)


 まるで志乃なんてはじめから存在しないかのような態度なのである。


「あ、その汚れてるの、妖怪の血? やっぱり、澄大橋の妖怪を退治したのはあんたなんだね。驚いたよ、渡ってみたら橋桁が真っ赤に染まってるんだもん。聞けばさ、若いお侍さんが妖怪退治をしたんだっていうじゃない。いい男だったっていうから、わたし、気になっちゃってね」


 ひとりでしゃべり続けるみつを横に置き、晴時が戸惑いの視線を送ってきた。しかし戸惑っているのはこちらである。志乃は黙って晴時を見つめ返した。


「ね、あんた、名前は?」

「……ハル」

「おはるさん? 女子おなごみたいで可愛い名前っ」


 晴時の頬が引きつった。


「それと、こっちが志乃だ」

「しの?」


 そこでようやく、みつの目が志乃を見た。色素の薄い瞳が目いっぱいに見開かれる。本当に志乃の存在に気づいていなかったらしい。


「なぁんだ、連れがいたの? よろしく」


 みつは驚いた顔に笑顔を貼りつけた。目だけが笑っていない。舐めまわすように志乃を観察している。あまりにも不躾な視線に、志乃はたじたじになった。


「よ、よろし……」

「それで、おはるさん! あんた、思ったよりも綺麗なんだねえ。妖怪の首をひと太刀で飛ばしたっていうから、もっと隆々とした男を想像してたよ」


 値踏みが済んだらあとは用済みのようだ。そして志乃は、みつの障害にならないと判断されたらしい。返した挨拶は見事に切り落とされた。

 みつの興味はすでに晴時に移っている。いや、彼女は最初から晴時しか意識していなかった。


女子おなごのひとり旅なんて、危険だって思うでしょ? わたしもちょっと心細かったんだ。けろっとしてるように見えるかもしれないけど」

「……そうか」

「それなら連れと一緒に出てくればよかったじゃないって思うでしょ? ところがね、そうもいかなくって。わたし、家を追いだされたものだからさ」

「それは災難だったな」

「そうなんだよ。可愛い子には旅をさせよってやつ? 父さんも困ったものだよね」


 みつは話すのが上手かった。おまけに矢継ぎ早に話しかけるものだから、晴時もついつい相手をしてしまうようである。無視するのが忍びないだけかもしれないし、あるいは人懐っこい笑顔にほだされてしまったのかもしれない。

 みつの態度は、年頃の可愛らしい少女そのものだから。


 道中が一気ににぎやかなものになった。

 眼下のふたりの会話は途切れない。


 志乃と晴時ふたりきりのときとは大違いだ。

 志乃と晴時の間に、会話は多くない。何か目につくものがあったときにぽつりぽつりと言葉を交わすくらいで、自分の身の内や、過去から出来事を引っ張ってきて話題にするようなことはまったくなかった。


 志乃はそれでいいと思っていた。


 沈黙が気まずいわけでもないし、話しかければきちんと答えてくれる。黙っていて退屈に感じることもない。志乃にとっては初めての、日ノ倭国の移りゆく景色を楽しみながら、ときおり晴時を窺い見る。


 楽しくて、これがあと何日も続くのかと思うと、心が浮き立つくらいだった。

 でも、それは志乃の勝手な感情である。


 みつが巻き起こしたこれが人と旅をするときの普通なのかもしれない。しゃべり続けるみつと晴時の――話しているのはほとんどみつだが――様子は、志乃にとって、ふたり旅の理想形にも見えた。


 志乃の胸に、もやもやとしたものが広がる。

 同時に言いようのない焦りが背中を撫でた。


(これって、もしかして)


 ほかの女が詠月に近寄るたび、羽麻子もこんな気持ちだったのだろうか。だとすると、初対面のときのヒステリックな姿にも頷ける。彼女には申し訳ないことをした。今ならわかる。


 これは嫉妬だ。

 いやな感情を覚えてしまった。


 いやだと思うのは、妬いたからではない。妬いたと同時に余計なことを考えて勝手に落ちこんでしまって、その落ちこんだ自分がいやなのだ。結局、晴時と楽しげにおしゃべりをしているみつが羨ましいだけなのに。

 志乃はふたりからそっと目を逸らして、馬のたてがみを撫でた。


「まあ、ハルさんはべつに、私のものじゃないし……」


 そうだ。志乃と晴時はべつに、恋人なわけじゃない。志乃が一方的に慕っているだけである。晴時が女子と話しているからといってその間に割って入る理由も、威嚇していい理由もない。彼はいやならいやだとはっきり言うたちだから、志乃が口を挟むいわれはないのだ。


 晴時はまだ、いやだと言っていない。


(それじゃ、やっぱり……?)


 志乃は思わず、撫でていたたてがみを掴んだ。

 馬に睨まれた。

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