其の旅は娘をもてあそぶ

第五十一話 幸先は冴えず

 志乃は馬上の人となっていた。


 出立の日の明朝である。

 一日の始まりを告げる鐘はまだ鳴っていない。


 太陽もまだ、山の端からも顔を出していなかった。朝といえる時間には違いないだろうが、ほとんど夜といっていい暗闇だ。先はもちろん、足元を見ることすら危うい。東都もまだ寝静まっているころなので、背景に溶けてしまっている。人里の明かりも望めない。左右に広がるは草原ばかりで、街道はどこまでも黒に包まれていた。


 もちろん、ほかの旅人などもいない。広々とした街道を行くのは、人を乗せた馬が一頭だけだ。

 しかし不安は感じなかった。


「日が昇りきったら、適当なところで休息を取ろう。すずが握り飯を持たせてくれた。朝餉もそこそこに出てきたからな」


 晴時がいた。志乃を抱えるようにして鞍にまたがっている。手綱を握る手に迷いはない。この暗さでも、彼にはしっかりと街道の先が見えているようだった。


「休める場所があるんですか?」


 体をねじって晴時を見上げれば、薄暗がりの中で、彼がこれまたうっすらとした笑みを浮かべるのが見えた。


「町はないが、広い川がある。流れが穏やかだから、岸に腰を下ろして落ち着くこともできよう」


 なるほど、しばらくすると水が流れる音が聞こえてきた。心なしか空気も湿り気を帯びている。


 背後から差した朝日がはるか前方を照らした。

 白い光が弾けて視界にちらちらと映る。水面だった。広い川だと言っていたが、想像以上だ。広い橋が架かっている。駕籠が四、五ちょう並んでも問題なく通れるくらいの幅だった。向こう岸が遠い。


「すごい……」


 日ノ倭国に来て以来、志乃が水場を見るのは初めてだった。


 橋が迫るにつれ、晴時は手綱を引いて街道を逸れた。馬の蹄が下草を踏む。旅人ふたりを乗せた黒馬は、橋の横をゆるやかに下っていった。

 橋のたもとは石が敷かれているのだが、それ以外は雑草に覆われている。どちらが休憩するのに適しているかは明白である。志乃と晴時は橋のすぐ脇で鞍から下りた。


 晴時は荷物を少しいじると、手綱を放した。

 自由を得たりとばかりに、馬が草むらへとたったか歩いていく。


「放して大丈夫なんですか?」

「あいつはずっと掴まえたままでは機嫌を損ねるからな」


 晴時の馬は気性が荒い。

 今回の旅も気が乗らなかったようで、出立の際には鞍を乗せようとして抵抗され、門前に連れていこうとして抵抗され、背に乗ろうとして抵抗され、散々に苦労した。


 晴時はまだいい。力があるから、嫌がられてもある程度は対処できる。


 問題は志乃だ。

 あの馬、鞍によじ登ろうと足をかけたら歩きだしたのである。おかげで宙ぶらりんのまま裏庭をぐるぐると回ってしまい、危うく悲鳴を上げるところだった。晴時がいなければたぶん落ちて踏まれていた。

 乗り降りするたびにあんなスリルを味わわされてはたまらない。旅が終わるころには、もう少し仲良くなっておきたいところだ。


 呑気に草を食む馬を眺めながら、志乃は腰を下ろした。

 腰がかちこちに固まってしまっていた。乗馬経験に乏しいので、馬上で座っていると、変なところに力を入れてしまうのである。


 これが普段の屋敷で過ごす着物姿であればもっとひどいことになっていただろうが、幸いなことに、今は志乃の服装も旅仕様になっている。着物は短く着付けてあった。おまけに前の裾を持ち上げて帯に挟んでいるので、足さばきがかなり良い。下にはズボンのようなものを履いていた。


 洋服に慣れている志乃にとって、この世界の服の中では、この上なく楽な格好である。足を伸ばして座っても差し支えない。はしたないと怒られるので仕方なく膝を折っているが。


 志乃が思いきり伸びをすると、慣れない体勢を続けたときの痛みがあちこちに走った。


「まるで年寄りだな。まだ先は長い。慣れておかねばあとが辛いぞ」


 薄く笑った晴時を、精いっぱいの恨めしさを込めて睨みつける。


 晴時もまた、普段の格好とは違う旅装だった。

 裾にカバーがつけられた特徴的な袴に、背中の裾が割れた羽織。これは祓守師の羽織とはまったく違うものだった。腰に履いた刀には覆いがかけられ、馬の手綱を握る手には日除けの手甲てっこうをつけている。

 いつもと変わらないのは髪型くらいだ。相変わらず、布の端切れのような紐で適当に結んでいる。


 背負っていた小さな荷物を下ろした晴時は、中を漁って包みを取り出した。薄い木の皮でできたものだ。両端を畳んで紐でくくってある。


「ともかく、腹ごしらえだ。ほら」


 受け取ってみると重みがあった。


(昔話でよく見るやつ!)


 志乃は一瞬、腰の痛みを忘れた。


 紐を解いてみれば案の定、みっつ並んだ握り飯が現れる。たくあんもちゃんと添えてあった。幼いころ、絵本で散々見た光景だが、こうして実物を目にするのは初めてである。

 わくわくしながら握り飯を手にした志乃に、晴時が笑い声を漏らした。先ほどから志乃は笑われてばかりである。


「よほど腹が減っていたのだな」

「そうとも言えます」


 志乃の高揚を共有できないのがもどかしい。たくあんを一枚つまむと、志乃は残りを晴時に返した。


 間宮家本邸から発って約一刻にじかん。ようやく朝餉の時間である。


 塩むすびだった。朝の炊きたての白米を使ったのだろう。冷めても米がふっくらしている。粒を駄目にしないようにとやわらかく握られていて、食べ進めるうちに形が崩れてしまった。

 ひとつ食べ終わるころには手がべたべたである。


「ちょっと洗ってきます」


 川辺では晴時の馬が水を飲んでいた。食事は終わったらしい。

 志乃が横にくると、一瞥して「なんだおまえは」と言いたげに鼻を鳴らした。明らかに志乃を下に見ている。

 膝をついた志乃は、澄んだ川の水に両手を浸しながら、その大きな体を見上げた。


 なめらかに盛り上がった筋肉の上で、艶のある黒毛が輝いていた。毎日のように手入れをされているのだろう。長いたてがみはほつれもなく、波打ちながら首の上に横たわっている。


 良し悪しのわからない志乃でも、彼がとびきり良い馬だということくらいはわかる。しかしこうもあからさまに見下されては、素直に褒めてやる気にはなれなかった。


「たてがみ切れないのも、あんたが暴れるかららしいね?」


 だからこの馬はたてがみが長く垂れているのである。道中で晴時から聞いた話だった。


「どわっ」


 からかわれたのがわかったのだろうか、志乃は鼻づらでどつかれた。隆々とした体躯だから、力も恐ろしく強い。志乃は両手を濡らしたまま河原にひっくり返されてしまった。雫が胸元に散る。


 どぽん、と。

 こもった水音が聞こえたのはそのときだった。


 馬の鼻に腹のあたりをつつかれながら、川面を見やる。橋の影から流れでた水が不純物を含んで濁っていた。澄んでいた水面がみるみる間に赤く染まる。


 血にしか見えなかった。


 驚いて飛び起きた。黒馬が不満げに鼻を鳴らしたが、気にしてやる余裕はない。

 志乃の目は橋の下に釘付けだった。


 バレーボールくらいの大きさのかたまりが、浮きつ沈みつしながら寄ってくる。あれが川を汚した原因のようだった。

 向きを変えながら流れていたそれは、くるりと志乃を向いた。


「――は、ハルさん! 首! 人の首っ」


 流れてきたのは男の首だった。


 慌てて振り返れば、いつの間にか、すぐ傍に晴時が立っている。彼は言われるまでもなく生首を見つけていたようだった。流麗な眉はひそめられていたが、志乃のようにショックを受けている様子はない。


 彼は黙って橋を見上げた。


 晴時の身長よりも高い位置を通る橋なので、その上がどうなっているかは、河原からは窺うことができない。しかし先ほどの音からすると、首は橋の上から落ちてきたように思えた。

 晴時も同じことを考えていたようだ。


「見てこよう。ここを動くなよ」


 彼は刀の覆いを取って志乃に押しつけた。返事も待たずに駆けていく。

 長い悲鳴が聞こえたのは、晴時の姿がちょうど橋の上に消えたときだった。

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