第四十話 埴輪を得る
笑い合う少女を交互に見、詠月は手元に抱えたものを撫でた。いつの間にか普段の穏やかな表情に戻っている。見た者の背筋を凍らせるようなものではなく、整いすぎていて心臓に悪いだけのただの微笑だ。
「丸く収まったようで何よりです」
「詠月さまのおかげですわっ」
たちまち色めきだった羽麻子が、両手を胸のあたりで握り合わせる。上気した頬が彼女の感動を物語っていた。「さすがわたくしがお慕いする詠月さまですわ!」などという心の声が聞こえてきそうである。
「屋敷内の秩序を保つのも私の務めですからね……そうそう、それで、聞きたいことがあったんです」
詠月が志乃を見る。つられたように、羽麻子も改めて志乃に目をやった。
「聞きたいことですか? 志乃に?」
「ええ。そのためにこちらへ来たんですよ。忘れるところでした」
詠月は抱えていたものを傍らに下ろす。
「ここ数日ですね」
「あの、詠月様。その前に、私も聞きたいんですけど」
志乃は詠月の話を遮った。
詠月が驚いたように目を瞬く。
「詠月様のお話を遮るなんて!」と羽麻子が眉を吊り上げたが、志乃はきっぱり無視した。
ただ、詠月の隣に置かれたものを見据える。
部屋にやってきたときから、詠月はずっとそれを抱えていた。
篤保のせいでそれどころではなくなり、羽麻子との対話でそれどころではなくなり、ずっと意識の片隅に引っかかったまま突っ込む機会を得られなかったが、今がそのときだ。
「なんで
詠月は埴輪を片手に、志乃の部屋にやってきた。
篤保を追い払うと、座るときに埴輪を膝の上に乗せた。志乃と羽麻子に説教している間は、閉じた扇よろしく埴輪の頭を手のひらに打ちつけていた。そして今、「志乃に聞きたいことがある」と言って、なぜか、抱えていた埴輪を下ろしたのである。
「おや、これを知っているんです?」
「一応……」
古墳時代、権力者の墓を護るために作られた焼きものだ。歴史の教科書で見たことがある。たしか、『踊る人々』という名前をつけられていた。
縦に長い土器である。上のほうに空いたみっつの穴は、それぞれ目と口を表していて、半ばから左右に伸びた突起は腕のように見えた。恐ろしく簡略化されているが、人を模して作られている。
「どうしたんですか、これ」
「蔵から出てきました。差し上げます」
「なんで私に」
「魔除けの意味もあると聞いたので」
志乃は生返事しかできなかった。ただ、詠月の手でスライドさせられて、志乃の正面に立った埴輪を見つめる。顔に空いた三つの穴は深淵だ。
「可愛らしい置物ですわね!」
対照的に、両手を合わせて頬を緩めているのは、羽麻子である。
「可愛いかな……?」
「可愛いじゃないの!」
羽麻子の目が剣呑な光を帯びる。
「まさか志乃、詠月さまからの贈りものにけちをつける気じゃあないでしょうね――」
掴みかかられた。とんだ藪蛇である。
(この感じ、久しぶりだな……)
羽麻子に激しく揺さぶられながら、志乃は遠くに思いを馳せた。
そういえば、羽麻子はもともとこういう人だった。詠月が絡んだとたんに、頭のネジが何本か吹っ飛ぶのである。最近はふたりきりで過ごしていたので、すっかり忘れていた。
「だいたいあなたね、詠月さまに対してなんて態度を取るの! もっと敬意を持って――」
「羽麻子さん待ってわかったわかったから! ありがたくいただきますっ」
「わたくしに言ってどうするの!」
「え、ええっと、詠月さま……ありがとうござい、ます……」
返事はなかった。
息も絶え絶えに声をしぼり出した志乃の視線の先、詠月は口元に手を当て、肩を震わせていた。本人としては笑いをこらえているつもりなのだろうが、ときどき「ンっ」と声が漏れている。
「詠月さまっ。こんな失礼な女をそのままにしておいてはいけませんわ!」
「ふっ……」
「詠月さま!?」
悲鳴のような声を浴び、詠月は深く息を吸ったようだった。彼の白い指が口元から離れたとき、詠月の表情は戻っていた。
志乃がぞっとしてしまうような妖しい微笑である。
「大丈夫ですよ、羽麻子。それくらいの失礼では、私の権威は揺らぎません」
そうでしょう? と同意を求められた瞬間、志乃を激しく揺さぶっていた羽麻子の手が緩んだ。
般若の形相がころりと転じる。
羽麻子は、今にもとろけそうなほど恍惚とした顔になった。
「もちろんですわ! 詠月さまは素晴らしい御方ですものっ」
志乃は突然解放された。
勢いあまって、畳の上にばったり倒れる。起き上がるのが億劫になってしまって、そのままひっくり返っていたかったのだが、羽麻子に「詠月さまの前でなんてはしたない!」と思いきり腕を引かれた。
きちんと座り直した志乃は、ちょいちょいと着物の裾を直す。仕方がないので、目の前に置かれた埴輪も引き取って、自分の隣に立て直した。
「……それで、詠月様が私に聞きたいことって?」
正面に座す詠月に目を戻す。
彼はまた、肩を震わせて笑っていた。どこに笑うポイントがあったのだろう。羽麻子とのやり取りか、志乃が埴輪を手に取ったことか。後者だったら納得できない。この置物を寄越したのは詠月だろうに。
ひとしきり笑ったあと、詠月は「失礼」と目尻を拭って、ようやく息を整えた。
「ハルと何かありました?」
「ハルさんとですか?」
「ええ。ここ数日、彼の様子がおかしいのですけれど。羽麻子にも、思いあたる節はあるのではないでしょうか」
「わたくしにも?」
話を振られた羽麻子は、きゅっと眉根を寄せた。詠月の期待に応えようと、一生懸命に記憶を探っているようだった。
「最近の晴時さまは、志乃のことをとっても気にかけていらしたわ。わたくしと顔を合わせるたびに志乃の様子はどうだって聞いて……あら? でも、志乃」
「どうしたの、羽麻子さん」
「晴時さまは、あなたのお見舞いに来ていないのよね?」
確認してきた羽麻子に対して、志乃ははっきり頷いて返した。
志乃が晴時と会ったのは、倒れた日が最後だ。猫又を撃退して、碧の無事を確認して、晴時に褒められた。
それから――。
「志乃、どうかした?」
黙り込んでしまった志乃に、羽麻子が首を傾げる。
志乃は慌ててかぶりを振った。少しだけ頬が熱かった。羽麻子や詠月にバレていないといいのだが。
「ううん、何でもない。ハルさん、私のところにはあれから一回も来てないよ。たぶん――」
たぶん、志乃が部屋の中で神力を暴発させたときが最後だ。
すずから話を聞いた、あの一軒である。あのときの志乃は意識を失っていたので、志乃自身はまったく覚えていない。
(……あれ?)
覚えていない、はずだ。
頭の隅に何かが引っかかって、志乃は自分の手を見下ろした。
「晴時さまったら、そんなに志乃の様子が気になるのなら、ご自分で会いにいらっしゃればよいのに」
志乃の様子には気づかずに、頬に手を当てた羽麻子がぼやく。
同調したのは詠月である。
「まったくですよ。ハルったら、私と会ったときも同じなんです」
「まあ、詠月さまも?」
「ええ、私が言いたかったのはそれです。ハルはずっと、『志乃は回復したか』『寝込んではいないか』『食事はきちんととれているのか』と志乃を気遣っているのですが、私やすずに聞くばかりで、自分の目でたしかめようとはしないのですよね」
気になるなら見舞いにくればいいだけなのに、そうしない。もしや、志乃との間に何かトラブルがあったのではないか、と詠月は考えたらしい。
「羽麻子との仲もこじれていましたし、志乃とハルの間に問題があったのなら、取り返しがつかなくなる前に正しておかないと……と思ったのですが」
志乃は俯いたまま固まっていた。
思いあたる節はない、と否定することはできなかった。
トラブルとも喧嘩とも違うが、ひとつだけ、本当にたったひとつだけ、これだと言える出来事があったのである。
「……あの」
志乃はそっと挙手した。
「部屋の中で神力を暴発させたとき……だと、思うんですけど」
覚えている。気絶なんかしていなかった。きちんと目を覚ましていた。
あのとき志乃は、晴時の手でなだめられたのだ。その手のひらがあまりにも心地よくて、志乃は駄々をこねた。彼の手を掴んで放そうとしなかったのである。
一度は無理矢理手を引っこ抜いた晴時だったが……そうだ、たしか彼は、諦めたように志乃の手を握り直した。
「それが原因……じゃないか、と、思われます」
顔から火を噴きそうなほど恥ずかしかったが、志乃はどうにか、話を終えた。ただ、俯いた顔を持ち上げることはできなかった。
詠月や羽麻子を見る勇気が出なかった。
彼らがにやにやとした嫌な笑みを浮かべているのが、想像できてしまったからである。
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