第三十話 眠気に抗う

「――と、いうことがありまして」

「それでそんなに眠たそうなのね」


 そうなの、と頷いた志乃は、口を押さえて大きなあくびをした。もう何度目かわからない。


 すずのありがたい気遣いによって昼まで寝こけていた志乃だったが、中途半端な時間に一度起きてしまったせいか、日が傾くころになっても眠気と戦い続けていた。


 おかげで勉強もとどこおる。

 聞いた話があくびと一緒にこぼれてしまって、ここまで聞いた島の歴史はほとんど頭に残っていなかった。書物とはきちんと向き合って、羽麻子の問いかけにも答えているはずなのに、不思議なものである。


「ちょっと志乃、しっかりしてちょうだい。ここからあなたも知っている話になるのよ。私たちに一番関わりのあるところだわ」


 羽麻子が新しく巻物を開いて、ずい、と志乃の眼前に掲げた。

 志乃はまたひとつあくびをして、目を凝らす。


 今まで読んだのとは違って、絵巻の色が強く出ていた。巻物の下部分を埋めるように描かれているのは、狩衣を来た人々と魑魅魍魎が真っ向から対峙している図だ。端には力強い文字で『鬼顕現大戦』と書かれている。


「……おに?」

「妖怪を統率する鬼が現れたの」


 これまで個々で人間を襲っていた妖怪たちが、彼らの中でもダントツの力を持つ鬼の手でまとめられ、人間のように集団で戦を仕掛けてくるようになった。これがかつて、島で人と妖怪の争いが激化した理由である。

 妖怪という個に対して陰陽師という集団で取りかかっていた人間は、あっという間に追い詰められる。頼りにしていた陰陽師たちは次々と斃れ、陰陽寮は壊滅寸前まで陥った。


 この図で描かれた戦で、人間は惨敗を喫したらしい。

 羽麻子が、掲げた巻物をそっと机に下ろす。


「かつての都にまで攻め入れられて、当時の帝にまで凶刃が襲いかかったというわ」

「みかど? 帝って、あの帝?」

「志乃がどなたのことを指しているのかはわからないけれど、この国で最も尊い御方よ。一族の方が何人も弑されてしまったらしいの」


 それがどれほどまずい事態なのかは、さすがの志乃にもわかった。日ノ倭国がかつての国の名を闇に葬った理由は、ほとんどここにあるのではないか。


 羽麻子はさらに巻物を開き、長机の上でスライドさせた。

 先の大戦とはまた別の絵が現れる。男だか女だかわからない人が、天に向かって両手を掲げていた。すぐ傍に書かれた『間宮』の名前がよく目立つ。


「ここで、間宮って人が登場したんだ……」


 たしかに、志乃がよく知る話……もとい、晴時から聞いて唯一知っている話に該当する。


 帝の一族にまで妖怪の手が及び、島のすべてが絶望に包まれたとき、間宮という人間に神託が下りた。

 この力をもって人々をたすけよ、と。


 今ここにいる、間宮家のすべての始まりである。


「初代間宮の力も、使い方は今と変わらなかったそうよ。血の繋がった者、親しい者を眷属として神力を分け与えて、異能を操れるようにする。陰陽師たちの術に代わって妖怪たちの妖術に対抗できる力を手に入れた人間は、ようやく反撃を始めたの」


 巻物の端があらわになった。また描かれている絵が移り、今度は戦の中、ひとりの人間が先頭に立つ妖怪の角を掴んでいる。


「妖怪たちをまとめ上げていた鬼を払滅した瞬間よ。鬼を失った妖怪はふたたび散り散りになって、今度は人間たちが彼らを追い詰めるの」


 そうして人間と妖怪の大きな戦いは幕を閉じ、残るは掃討戦と国の再建。島は日ノ倭国として、新しい歴史を歩んでいくのである。

 二日をかけて、ようやく日ノ倭国の始まりにたどり着いた。巻物をくるくると閉じる羽麻子を正面に据えて、志乃はまたあくびをする。やはり眠い。頭にもやがかかったようで、明日になったら、今聞いた話もすっぽり抜け落ちているかもしれない。


「志乃ったら。仕方ないわね……切りもいいし、今日はここまでにしておきましょう」


 散らかった机を整理しながら、羽麻子がため息をついた。志乃はみたび喉からせり上がってきたあくびを噛み殺しながら「ごめん」と一言謝る。


「お夕食までまだ間があるし、目が覚めるお話をしましょう」

「どんな……?」


 まさか書庫に入って半日、ずっと眠気に抗っていた志乃が今さら目覚める話なんてあるとは思えない。


「晴時さまよ。あなたのお話で、彼が志乃を避ける理由はようくわかったわ。だからやっぱり、今後についてはもう少し長い目で見る必要があると思って」


 歴史に関わる書物をすべて除けてしまった羽麻子は、肘をついて身を乗り出してきた。


 志乃には何の話かわからない。

 ただ、間近に迫った気の強そうな瞳を見つめ返すばかりである。


「今のうちにね、お作法とかいろいろ身につけておくべきだわ」

「……どうして?」

「だってあなた、ご当主が決まって神力もお返ししたら、それからどうするの?」


 皆が神子に注目しているのは、次期当主がまだ定まっていないからだ。もっと言えば、その決定権を神子が握っていると誤解されているからである。当主が無事に立てば、間宮家の人々は神子に対する興味を失うだろう。


 そして当主が決まれば、志乃は持っている神力を手放すことになる。

 こうなると、間宮家には志乃を屋敷に留める理由がない。志乃自身は何の能力も持たないわけだし、祓守師に混ざって妖怪退治に当たることもできない。役目も義務もない、ただの無駄飯食らいである。

 その点を、羽麻子は懸念しているらしかった。


「あなた、育ちは悪くないようだし、然るべき振る舞いを身につければ十分にやっていけるわ。その気があれば、晴時さまのお隣に立つことも叶うのではないかしら」

「だからどうしてそうなるの……だいたいね、私は」


 志乃からすれば、それは無用な心配でしかない。

 神力を返すことは、志乃がもとの世界に帰ることを表す。こちらの世界でどう生きていくかなどと考える必要はどこにもないのだ。


 だからそもそも、羽麻子が不安に思った部分は、根本から間違っていた。

 志乃は長く間宮家に滞在しない。当主が決まるより、神力を返すほうが先だ。そのために、蔵を開けた晴時に御神体となる品ものを捜してもらっているのだから。


「羽麻子さんが心配することは何もないよ。今やっている勉強だって、その……言い方は悪いけど、御神体が見つかるまでの暇つぶしみたいなわけだし……」


 本気でこの国に根を下ろそうとして学んでいるつもりはないのである。


「だから、ハルさんをどうこう思うことだって、あり得ないわけで」


 世話をかけている以上、彼だけでなく、関わった人すべてと良好な関係を築きたいという思いはある。ただそれは、親しくなりたいという感情とは別だ。別れが目前に迫っている人々を特別大切に想ったところで仕方がないだろう。恋なんてもってのほかである。

 惜しいと思ってしまうような親愛は、志乃には不要だ。


 きっぱりと言い切った志乃に、羽麻子は目を丸くする。彼女は理解できないとでも言いたげに眉を傾けた。「でも、あなた……」


「志乃、あなた、おうちに帰る気なんて全然ないじゃないの」

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