第二十六話 霞文庫を訪ねる
蔵じゃないのか、と思った。
翌日、
外観はどう考えても土蔵だった。重そうな両開きの扉に、漆喰の壁。見上げると、低い位置と高い位置、二か所に申し訳程度に明かり取りの窓が取りつけられている。屋根の瓦は本邸とは別の色合いを持っていた。
『
扉の両脇を固めるように立った見張りが、蔵を眺める志乃を鋭い目で睨んだ。
悪いことをしているような気分になった。きちんと許可を得てから来ているのに、と鍵を持って扉に取りかかった羽麻子に視線を向ける。
「ちょっと持っていてちょうだい」
鍵を持った手で錠前をすくった彼女が、志乃に行灯を押しつけた。薄い紙の内側で、微かな炎がゆらゆらと揺らめいている。
次いで志乃は、燦々と陽の光が降りそそぐ頭上を仰いだ。真っ白いいわしの群れが泳いでいる。下を歩く自分たちの影がくっきりと出るほど明るい昼である。
志乃は改めて手元の行灯を見下ろした。
「……明かり、必要なの?」
「当たり前じゃない」
鍵をがちゃがちゃとやっていた羽麻子が振り返る。錠前が口を開けていた。役目を終えた鍵を懐に仕舞った羽麻子が、扉に両手を当てる。
扉が押し開けられた。重厚な見た目に相応しい引きずるような動きだった。
ずらりと並ぶ書架が目に飛び込んでくる。天井が思いのほか低い。そのせいかはわからないが、鬱々として窮屈な場所だと思った。
羽麻子の背を追って書庫に入ると、わずかに開いた扉はふたたび閉じられた。
とたんに差し込んでいた陽光が綺麗に遮断され、志乃は一瞬視界を見失う。床に落ちた一筋の光――明かり取りの窓から差し込んでいるそれだけが、この書庫における明かりのようだった。
これはたしかに、行灯が必要だ。
両側に立ち並ぶ書架はいずれも志乃たちより背が高い。どの棚にも紐綴じの書物が積まれている。それがひとつの棚に二列、三列。進む先も曖昧なまま歩き回ってぶつかりでもしたら、怪我どころでは済まないだろう。
「二階に上がりましょう」
「二階があるの?」
どうりで最初に見たときに、天井が低いと思ったわけである。
志乃から行灯を引き取って、羽麻子が先に立った。彼女について歩きながら、志乃はすれ違う書架を眺める。積まれた書物の一番下から、何ごとかを書きつけた紙が垂れ下がっていた。
縦に並ぶ文字列に予感がして、顔を寄せて読んでみる。間宮という二文字だけは即座に認識できた。
(うーん、これは……)
「志乃、置いていくわよ」
思いのほか遠くから届いた羽麻子の声に、志乃は顔を上げた。書架の向こうから、うすぼんやりとした光が漏れている。羽麻子は角を曲がって見えなくなっていた。慌てて彼女のあとを追う。
書架は隙間なく並べられているわけではないようだ。志乃たちが今歩いてきた、扉から続く通路と、さらに書庫の真ん中を横断する通路だけは広く取られている。そしてその横の通路の突き当たりに、壁に沿うようにして階段が設けられていた。
羽麻子が階段の半ばで立ち止まり、志乃を待っている。
志乃はばたばたと彼女に走り寄って、細い階段のステップに足をかけた。ぎぎい、と大きくきしんだ音が響く。志乃は目を剥いてぴたりと静止した。よくよく見れば、恐ろしく簡易な階段である。上っている間に体重を支えるのは板一枚。手すりはないし、段と段には隙間があるし、足を引っかけでもしたらあっという間に転げ落ちてしまう。
「気をつけなさい。落ちてもわたくしは知らないわ」
言っている間に、羽麻子はぴんと背を伸ばしたまま階段を上り切っている。志乃は足元を注視したまま、おっかなびっくり彼女のあとに続いた。頭上から「とろくさいわね」と言葉をもらったが気にしない。
二階は一階よりもいくらか広く感じられた。
まず、書架が少ない。ひとつひとつの棚に収められているものも多くはない。巻物がいくつか積まれているだけで、圧迫感がなかった。
大きく開いたスペースの真ん中に、長机と座布団が置かれている。ここで書物を広げることができるというわけだ。そのために、二階は広々としているのだろう。
座って待っていろと言う羽麻子に従って、志乃は冷えた座布団に尻を落ち着けた。羽麻子の姿が書架の間を行ったり来たり、と思えば今度は下の階へ消えていったり。
戻ってきたとき、羽麻子の頬は上気していた。いや、ほの暗い書庫の中ではっきり窺えたわけではないが、詠月に対する想いを吐露するときと同じ顔をしていたので間違ってはいないだろう。
「詠月さまからお願いされてしまったの。あなたは
長机に、どちゃっと書物が落とされた。紐綴じの和本が二、三冊。巻物がひとつ。勢いで机から転がり落ちた巻物に、志乃は咄嗟に手を伸ばした。
はずみで解けた紐をそのままに、くるくると開いてみる。間に絵を挟みつつ、紙の上にのたうっていたのは、なめくじのようなかな文字と、崩された漢字の列。端から端まで余すことなく記されたそれらは、文字というよりも、記号として志乃の脳を満たした。
棚から垂れた書きつけを見たときに感じた予感は間違っていなかった。
読めない。
記憶にもおぼろげな古典の授業を引っ張り出してみても、ギリギリ読めない。
「羽麻子さん、あの、これ……?」
「さあ、始めるわよ!」
読めない文字が連なる書物と、正面に座した高飛車な教師。
生徒は志乃ひとり。ノートも取れない。居眠りもできない。
地獄のような勉強会が始まった。
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