第十九話 女同士の喧嘩をする
廊下にすずが立っていた。
志乃は相変わらず自室へ戻る道がわからないので、彼女を頼ったのである。ここまで連れてきてくれたすずは、志乃が会合に参加する間、廊下で待っていてくれた。
「お疲れさまでございました」
そっとかけられた労いの言葉に、志乃は目を瞬かせた。襖を閉めた手を引手に添えたまま、視線をさまよわせる。
すずを見れば、昨日今日と接してさすがに志乃も慣れ始めた鉄面皮があった。今、廊下にいるのは志乃とすずのふたりだけだ。だから志乃にかけられた声というと、すずのもの以外ではあり得ない。
今の労いは間違いなく、すずが志乃へと贈ったものなのだ。
「……ありがとう」
面食らったのがありありとわかる表情のまま、志乃は声をしぼり出した。すずはぴくりとも頬を動かさなかった。志乃の礼にはただ頷いただけだ。使用人らしく振る舞う気があるのかないのか、よくわからない。彼女は背を向けると、そそくさと歩き出した。
(優しい人、なんだろうか)
呆けたようにすずの背を見送りかけて、志乃は慌ててあとを追った。
ぱたぱたと聞こえるのは志乃の足音だ。すずが歩くと音がしない。だから廊下には、きっちりひとりぶんだけの足音が響いていた。
大広間は、邸宅の比較的表に近い場所にあったらしかった。途中から、見覚えのある廊下に出る。昨日、表玄関からたどって与えられた部屋まで歩いたときの道順だった。やがて視界が開け、見事な庭園が目の前に広がる。志乃の部屋がある回廊である。
やわらかな風に揺れる木々を横目に、志乃は庭へ降りる階段を探した。
許されるなら、ちょっと散歩をしてみたい。先ほどの会合で荒んだ心が多少は癒されるかもしれない。池を渡るあの赤い橋などは、まるで絵に描いたような鮮やかさである。和装で渡れば、志乃みたいなのでも多少は映えるかもしれない。映えたところで、写真を撮ることはできないけれど。
「あら?」
先を歩いていたすずが、小さな声を上げて立ち止まった。ぼうっと庭園を眺めていた志乃も、彼女の背にぶつかって停止した。結構な勢いで衝突してもびくともしない。志乃のほうが跳ね返されたくらいである。
どうしたの、と問う前に、蘇芳の着物が目に飛び込んできた。大輪の花が散りばめられている派手な柄だ。結い上げた黒髪にも、髪飾りを盛っている。志乃と同じ年頃の少女だった。
それが回廊から部屋を覗き込んで、中の様子を窺っている。いったい誰の部屋だと注視して、気づいた。
志乃の部屋である。
志乃は改めて少女を見た。お嬢様、と呼ぶのがぴったりな容姿をしている。くっきりと引かれた紅がよく目立つ。綺麗な横顔だったが、いささかきつい印象を受けた。
もちろん、知り合いなどではない。志乃が目をすがめていると、すずがお嬢様に声をかけた。
「
お嬢様は、羽麻子というらしい。
呼ばれた彼女は、驚いたように肩を跳ねさせ、障子に添えていた手を離した。志乃たちに気づくと、ぐっと顎を上げる。こちらを意図的に見下ろそうとするような頭の角度である。
羽麻子は体ごとこちらを向いた。髪に差した簪が、しゃらんと音を立てる。
「このお屋敷で客室といったらこのあたりでしょう」
彼女は志乃が想像したとおりの声をしていた。澄んでいて、小鳥のさえずりのように高く綺麗に響く音色だ。ただ今は、少々不機嫌な色がにじんでいた。
「どなたかお客様に御用が?」
さらに質問を重ねたすずを無視して、羽麻子は志乃を見た。
「あなた、見ない顔ね。うわさの御神体かしら」
吊り上がった目に睨まれ、志乃は怯んだ。歳が近い同性からの敵意は特に刺さる。相手が知らない人でもそれは変わらない。
志乃が自然と目を伏せたとき、羽麻子はすでに手が届く距離まで寄ってきていた。
「あなたが御神体なのね」
確信に満ちた声。「羽麻子様」と咎めるすずにも耳を貸さず、何かが空気を切り裂いた。
志乃の頬で熱が弾ける。
鼓膜を打ったのはぱぁんという音だ。
志乃はたたらを踏んだ。
(え……)
呆然として、頬に触れる。熱い。じんじんする。それとは別に鼓動を打ち始める鈍い痛みは、一昨日神鏡の破片で負った傷だろう。そこに重ねて、志乃の頬は痛めつけられたのである。
――叩かれた。
「恥を知りなさい! この泥棒っ」
羽麻子のほっそりとした両手が、志乃の胸倉を掴み上げる。決して力は強くないのだが、志乃は揺さぶられるがまま、がくがくと上半身を震わせた。
初対面の人に叩かれた衝撃が抜けなかった。
「おやめください、羽麻子様っ」
すずが間に入ったが、あまり強く出ることができないらしい。すずに手を掴まれても、羽麻子は止まらなかった。
「その御力は詠月様が手にするべきものよっ。あなたみたいな下賤の者が身に宿していいものじゃないわ!」
片手で志乃を掴んだまま、空いた手を振り上げる。止めていたすずの腕はあっさり振り解かれてしまった。
(あ、また――)
来る、と思ったときには、もう反対の頬を張られていた。肌を打つ高い音がふたたびあたりに響き渡る。
「間宮家に招かれて、詠月様に気遣ってもらって、もう十分いい思いはしたでしょう! さっさと神力を返しなさいっ。返しなさいよっ」
抵抗する間もなく、志乃は廊下に引き倒されてしまった。殴りつけることで志乃が即座に神力を手放すと、まさか本気で思っているわけではないだろう。癇癪を起こしている。艶々に磨かれた爪が頬をかすめたところで、志乃はようやく羽麻子を押し返した。
「放してっ」
「いやよ! 神力を返すまで放さないわ!」
「そんな簡単に返せたら、私こんなところにいないもん!」
「白々しいわねっ。それを狙ったんでしょうに!」
「こんな力、ほしくて手に入れたんじゃない!! いらないっ」
絶叫した志乃に、一瞬、その場の時間が止まった。
志乃にのしかかった羽麻子が目を見開いている。口をはくはくと開閉し、白い肌が朱に染まる。
「――な」
耳まで真っ赤になったところで、今度は羽麻子が叫んだ。
「何ですって!? いらない? いらないって言ったのかしら! 由緒正しき間宮家が、神から賜った神力を!?」
論点がころりと変わった。
頭に血がのぼったふたりは気づかない。
泥臭い喧嘩が再開された。どたんばたんと体を入れ替え、顔を引っかかれたり髪を引っ張られたりしながら廊下を転がる。床に頭をぶつけ、欄干で背中を打った。
これだけ派手に暴れては、羽麻子だって無事ではない。思いきり振るので髪はほつれて顔にかかっているし、着物の裾が開いていた。志乃に掴まれて胸元も乱れている。両家のお嬢様かと思っていたが、こんなあられもない姿になっても志乃に掴みかかる手を緩めない。
ぶちり。志乃が、己の髪の毛がちぎれる音を間近で聞いたときである。
「何をしているっ!」
首根っこを掴まれた。志乃はあえなく羽麻子から引き剝がされる。
それは羽麻子も同様で、あちらはあちらで両腕を掴まれて引きずられていた。
「
それぞれ、志乃を止めたのが晴時、羽麻子を止めたのが詠月である。
傍には、息を切らしたすずが立っていた。どうやら自分の手には余ると考えて、慌ててふたりを呼びにいったらしい。
「ひどい格好だぞ。何があったんだ」
「わ、私も何が何だか……」
猫の子のように後ろ首を掴まれたまま、志乃はゆるゆると首を振る。
途中から無我夢中で抵抗していた。どころか、反撃もしたような気がする。羽麻子の頬にも、引っかき傷ができていた。
「その女が悪いのよっ」
詠月に羽交い絞めにされた羽麻子が、宙ぶらりんになった足を懸命にばたつかせて金切り声を上げた。彼女のうしろから、詠月が訝しげな視線を寄越してくる。
志乃はこれまでにないくらい勢いよくかぶりを振った。
「……何をした?」
「間宮の神力を奪ったわ!」
晴時の問いに率先して答えたのは、またもや羽麻子である。「詠月さまっ。放してくださいまし! わたくしがとっちめてやります!」と意気込んでいたが、当の詠月はさらに羽麻子を拘束する力を強めたのみである。
「だいたいわかった。羽麻子殿がおまえに飛びかかったんだな?」
志乃が頷くと、ようやく首根っこをつまんでいた手が離れた。志乃はぺたんと尻をつけて廊下に座り込む。
「なんなんですか、あの人……」
そうして目を向けた羽麻子は、いつの間にかおとなしくなっていた。詠月に何か言われたらしく、羽交い絞めにされたまま今度はしくしくと泣いている。「わたくしとしたことが、詠月さまの前でなんとはしたない真似を……もうお嫁に行けないわ」……情緒が忙しい娘である。
「……詠月様の信奉者だ」
一応、婚約者候補でもある。
呟いた晴時は、呆れを通り越して無の境地に至っているようだった。
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