第七話 方針が定まる

 志乃たちを見上げた栗色の髪の青年は、やわらかい髪をかき混ぜながら、「あちゃあ」と声を上げた。セリフのわりには全然困っていない顔だった。


「えぐい傷だねえ。明日は出発を遅らせる?」

「いや、問題ない。変わらず早朝に発つ」

「さすが晴時。りょーかい」


 おまけにろくな心配してもいない。仕事帰りの同僚を迎えるがごとく気安さだった。


「上に妖怪避けの火を焚いておけ」

「え、僕が行かなきゃ駄目?」

「おまえ以外に誰がいる、真也しんや。そもそも、おまえが居眠りなどしなければこいつが逃げることもなかった。職務怠慢だぞ」


 晴時に厳しく追及され、青年――真也はわざとらしく胸を押さえて体を折った。


「それ言われちゃな……わかったよ」

「途中で寝るんじゃないぞ」

「さすがに大丈夫だってば」


 これまたわざとらしく耳を塞ぐ真似をして、真也は志乃たちと入れ替わるように階段を登っていった。

 志乃は意を決して、その背中に声をかける。


「あの、ごめんなさい! 勝手に抜け出したりして」


 真也はからりと笑って手を振った。


「気にしないで。晴時の言うとおり、寝てた僕が悪いんだし。納得できないのもわかるしさ」


 志乃が続けた「いや、そもそも逃げようとした私が」という言葉は、跳ねるように駆けていってしまった彼には届かなかった。


「……は、晴時さんも、ごめんなさい。逃げ出したりして」


 返事は深いため息だった。


「それほどまでに、ここに留まるのが嫌だったか」

「いえ、留まるのが嫌、というか。神力とか妖怪とか、そういうの、私のいたところではぜんぶ作り話で、だから。現実に存在するわけがないって、思って」

「俺が荒唐無稽な嘘をついていると?」


 有り体に言えばそういうことだ。気まずくて、志乃は縮こまった。叱責されると思った。ところが、予想に反して晴時は何も言わなかった。


 月光を受けたすすきが道の脇でたなびいている。風が彼らの穂をさらう音だけが耳に届いた。合間に、晴時のゆったりとした足音が挟まる。あまりにも沈黙が長いので、志乃は彼の顔を見た。

 夜の闇にもきらりと光る苗色の瞳が、志乃を見つめていた。


「……俺も、気が急いていたらしい。言葉が足りなかった」

「えっ」

「俺の常識とおまえの常識は違うということだ。妖怪も神力もない世界で……その露出が多い布の着物も、おまえの世界では当たり前のことなのだろう。そういうことを、俺は失念していた」


 あれではおまえが納得せぬのも無理はない。

 こぼした晴時の声は弱々しかった。志乃に向かって話しているというより、独白に近い。だから志乃は、道端に落とされた彼の言葉たちを拾って自分のものにした。


「もう疑ったりしません。この目でたしかめました。妖怪がいるってことも、私が神力……を、持っていることも」


 群がる小鬼を無残に砕いたもの。志乃の意識を奪い、晴時を傷つけたもの。


「かーって体が熱くなって、爆発したんです。あれが神力なんですよね?」


 操ることも制御することもできないそれは、たしかに志乃の体に存在していた。


「神力って、あんな……ふうに、危ないものなんですか」


 着物ごと裂けた晴時の肩を見下ろした。この傷を負わせた瞬間を、志乃は覚えていない。たとえば、これからも同じような場面があったら? 志乃にはどうすることもできない。アクセル全開のまま運転手が気絶したトラックのようなものだ。

 結果、志乃をかじっていた小鬼たちは跡形もなく切り刻まれた。次に同じことが起こったとき、志乃が襲うのは妖怪ではないかもしれない。晴時がこうして無事に立っているのは、当たりどころと運……それから、真也の言葉を信じるならば、晴時が底抜けに丈夫だったからだ。次はこうはいかないだろう。


 むごたらしく斬り裂かれた人間の死体が、志乃の目の前に転がることになるかもしれない。

 恐怖を反芻する志乃に、晴時はやや気まずそうな様子で呟いた。


「……神力の暴発は聞いたことがない」


 打ちのめされた気分だった。では、あれは神力ではないのか。ただの得体の知れない不可思議な力ということなのか。志乃の疑問に、晴時は首を振って答えた。


「いや、今のおまえが不可思議な力を操ったというのなら、それは間違いなく神力だろう。でなければ、おまえが妖術を操る妖怪の類だということになる」

「私は人間です」

「わかっている」


 晴時の歩みが緩んだ。何かを考えているようだった。


「間宮家以外の者が神力を手にしたことはない。御神体に納められていたときも、狙う輩はいくらでもいたが、実際に御神体を持ち去ったり、神力を宿すことができた者はいなかった」


 間宮の血を引く者以外が神力を手に入れた例はない。

 他所の人間の手に渡った神力がどのような挙動をするのかということは、誰にもわからないのだ。晴時は眉間にシワを寄せて、言葉を選んでいた。


「俺が見たのは血だまりと肉片だけだったが、おまえは神社で妖怪に襲われたんだな?」

「小さな子供くらいの、しわくちゃの小鬼で」

魍魎もうりょうだな。死肉を好むだけの小妖のはずだが……強い力に惹きつけられたか。とにかく、やつらがおまえを襲ったとき、神力は暴走した」


 志乃は黙って頷いた。全身に噛みつく魍魎の姿が脳裏にちらついて、慌てて頭を振って払う。手足のあちこちにできた噛み跡がうずく気がした。


「おまえの動揺につられてあふれたか、御神体を害する存在を感知して神力自らが反発したか……判断がつかないな。あまりにも前例がなさすぎる」

「わからないんですか」

「理由はわからぬ」


 自分の手には余る、と晴時ははっきり断じた。

 晴時にしがみついた志乃の手に力がこもる。先行きの見えぬ不安を感じ取ったのか、晴時の大きな手のひらが、応えるように志乃の背中を撫でた。


「ただ、ひとつだけはっきりしていることもある」

「はっきりしていること?」

「おまえが神力を宿したままではまずいということだ」


 てっきり志乃を安心させてくれるのかと思ったのに、実際は真逆だった。


「意地悪……」

「待て。最後まで聞け」


 晴時の足が完全に止まった。

 いつの間にか、志乃が抜け出してきた物置小屋がある屋敷の前まで戻っていた。ちょうど楸の里の中心だ。里に点在するほかの家々に比べてもひと回り大きいし、里を取りまとめる立場の人間の家なのかもしれない。今さらながらに思い至った。


 晴時は屋敷には入らないまま、腕に抱えた志乃を見上げた。


「食事のあとに俺が言ったことを覚えているか」


 もちろん覚えている。志乃が小屋を抜け出したのは、広義的にはあの発言が原因なのだ。


「牢屋に入れられるかって聞いたら、俺にはわからんって……」

「ではなく、その前」


 次期当主が決まるまで、志乃は間宮家の本邸に留め置かれる。


「それだ。間宮家は今、その話で大揉めしている。おまえが解放されるのがいつかわからん。が、おまえの中に神力が在ると問題になることがわかった以上、一考の余地がある」


 志乃の身から神力を取り除くことを最優先にするということだ。


「つまり……」

「新たに御神体を用意して、転神てんじんの儀を行う。無論これも一両日中にとはいかないだろうが……当主決定を待つよりもはるかに早く済む」


 そうなれば、志乃は晴れて自由の身だ。神力を宿したことが異世界に来た原因だとすると、神力をなくすイコール元の世界に戻ると考えてもいいだろう。


「そして何より、おまえの身の安全が保障される」


 悪くない話だった。どころか、聞いた話の中で一番の良案である。


「私は何をすればいいですか」

「ひとまず、ひと晩おとなしく過ごすことだな。話は間宮家に行ってからだ。儀式の準備も、そちらで進める」


 だから今度は静かに寝ておけ、と釘を刺した晴時に、志乃は大きく頷いた。

 高揚していた。地に足がついた気分だった。目的がはっきりして、道が開けたのだ。興奮しないわけがない。


 住みかがころころ変わるのは志乃の十八番だ。引っ越しと転校には慣れている。今回の異世界転移という異常事態も、そう考えればさほど問題ではない。

 夜に独り歩きしなければ妖怪に襲われることもないだろう。

 間宮家での安全は保障された。

 あとはただ転神の儀とやらを行い、神力を元のとおりに返すだけだ。言葉にすると、とても容易なことのように思える。


 日ノ倭国ひのわのくにというこの世界を、志乃はようやく受け入れられる気がした。

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