ラストノート
実和
1
第1話
決まって「ただいま」と言うのが、嫌い。
日に焼けた肌。伸びた髪。薄く生えたヒゲ。みんな嫌い。大嫌い。
今度もまた私の「嫌い」を煮詰めた
「無事でよかった。私とってもうれしい。じゃあ」
「まあまあ、まあまあ」
「帰り道も気をつけて。じゃあまた」
「お土産あるから」
「いらない。ばいばい」
「ばいばいじゃなくて、春ちゃん、ちょっとドア閉めないで」
男との力比べで勝てるわけがない。泰正は結局部屋に上がり込んで、勝手にシャワーを使って、勝手にコーヒーを飲み始めた。伸びた髪を後ろにまとめて短い尻尾を作って――ヘアゴムも私のものを勝手に使っている――ソファに腰かけ「うまい」と息を吐く様子は、この部屋によくなじんでいる。というか、私の目になじんでいる。それが嫌で、嫌で、嫌なことがすごく悲しい。
私と泰正の前にあるテーブルには、泰正が私のために淹れてくれたミルクティーが置かれている。わざわざお鍋で作った、シナモンを多めに入れたミルクティー。泰正しか作れないそれを手に取ることがまだできない。湯気が上がっている。冷めてしまう前に飲みたい。でも、まだ飲めない。
「泰正、髪はいつ切るの?」
「春はいつ暇?」
「連日連夜忙しい」
「じゃあ明日切って」
話の出来ない泰正は機嫌がよさそうな笑顔を見せる。
「俺、今回割とまじでやばくない? ぼっさぼさでしょ。ここ来るまでもじろじろ見られてさ。まあ、ほぼ浮浪者だからしゃあねえけど」
浮浪者。確かに、玄関先で見た、薄汚れた服を着て、薄汚れた靴を履いて、薄汚れた鞄をもって、髪は伸ばしっぱなしで、ヒゲも数日剃っていない上、ろくにお風呂に入っていない泰正は、洋画で見る「浮浪者」じみている。
今やヒゲ以外の問題が解消されて若干こざっぱりしているが、そのこざっぱり感もおかしくて、目を細め口の端を上げてしまった。泰正は前傾して私の顔を覗き込む。そのにやけた顔は、いつまでも泰正の機嫌のよさを語ろうとする。
「……なんでそんな顔するの?」
「春が笑ったから?」
「浮浪者だなあって思っただけだよ」
「早く髪切ってよ」
「明日ね」
「約束な」
「約束はしない」
泰正のヒゲヅラに手を伸ばす。髪をテキトーにまとめたせいで、髪が一束落ちている。ちゃんと結べばいいのに。とは、言わない。早くヒゲを剃りなよ。言わない。だらしないままでいい。ずっと。
人差し指ですべすべとは言えない頬を撫でる。ヒゲの似合わない男の輪郭をなぞる。泰正は拒絶しない。くすぐったそうにもしない。目も逸らさない。じっと私の目を見つめてくる。目は何かを語ると思っている節が、泰正には昔からある。今日も泰正は信じている。私の目が私の口より雄弁なことを。だから私は口を開く。私の腹の中には泰正から隠したいことがたくさんある。
「旅は楽しかった?」
「楽しかったよ」
「また行くんでしょ?」
「行くよ」
「いつ行くの?」
「まだ何とも言えない。仕事の進捗による」
「ふーん」
泰正は依然として目を逸らさない。
よくもまあ人の目をこんなにも見つめ続けられるな。私が初めて泰正に会ったときに抱いた第一印象は、それだった。ずっと変わらない。今日も思う。よくもまあこんなにも……。
「――泰正、知ってる? 8.2秒異性が見つめ合ったら恋に落ちるんだって」
最近仕入れたうんちくを披露すれば、泰正は脈絡のない発言を面白がった。
「8.2秒の法則だっけ」
「知らないけど」
「俺が知ってる8.2秒は、一目惚れした男が相手の目を見る平均時間、だけど」
「へえ」
「まあ、どっちにしろ自覚すんのに8秒もいらねえよな」
泰正が笑って、そうすると自然と視線が逸れた。それを機に私も泰正の頬に触れるのをやめ、視線を部屋のどこかに放り投げる。
「見つめ合ったくらいで恋なんか始まらない、じゃなくて?」
「いや、侮れんだろ」
「その意見は初だな。泰正以外は誰も支持しなかった」
「俺だけ?」
そうだよ。答えるときに泰正に一瞬目を戻してしまった。そうでなくても癖のように人の目を見る泰正と、また、視線が絡む。
1秒、2秒、3秒――…。無言で見つめ合う。別に、特別なことなんかじゃない。4秒。無言でいることも目を合わせていることも、取り立てて意識することじゃない。5秒。6秒めで泰正もこの時間をカウントしている気がして、7秒経つ前に私の方から目を逸らした。
テーブルの上のマグカップに目が留まる。湯気が立っている。まだ、冷めていない。よかった。じゃあまだ飲まない。唐突に時計の秒針の進む音が耳につき始める。細かく刻まれるその音が心音のように聞こえる。不愉快だ。息を吐く。胸に圧迫感があって、長く深く吐くことが難しい。膝に顔を埋める。隣で泰正がマグカップに口をつけた。静かに、私がそうと気付かないうちに、暖かい黒い液体を流し込んだ。
あ、おかえりって言ってない。
いまさら思うなんてどうかしている。
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