ラストノート

実和

第1話

 決まって「ただいま」と言うのが、嫌い。


 日に焼けた肌。伸びた髪。薄く生えたヒゲ。みんな嫌い。大嫌い。


 今度もまた私の「嫌い」を煮詰めた比嘉泰正ひがたいせいだ。10月の第二日曜日のこと。22時をまわったばかりだった。彼は毎度のごとく、不機嫌な私をおちょくるみたいに「ただいま」と言った。黙って締め出そうとする。その動きを読んで、泰正はドアの隙間に手と足を挟んだ。



「無事でよかった。私とってもうれしい。じゃあ」

「まあまあ、まあまあ」

「帰り道も気をつけて。じゃあまた」

「お土産あるから」

「いらない。ばいばい」

「ばいばいじゃなくて、春ちゃん、ちょっとドア閉めないで」



 男との力比べで勝てるわけがない。泰正は結局部屋に上がり込んで、勝手にシャワーを使って、勝手にコーヒーを飲み始めた。伸びた髪を後ろにまとめて短い尻尾を作って――ヘアゴムも私のものを勝手に使っている――ソファに腰かけ「うまい」と息を吐く様子は、この部屋によくなじんでいる。というか、私の目になじんでいる。それが嫌で、嫌で、嫌なことがすごく悲しい。


 私と泰正の前にあるテーブルには、泰正が私のために淹れてくれたミルクティーが置かれている。わざわざお鍋で作った、シナモンを多めに入れたミルクティー。泰正しか作れないそれを手に取ることがまだできない。湯気が上がっている。冷めてしまう前に飲みたい。でも、まだ飲めない。



「泰正、髪はいつ切るの?」

「春はいつ暇?」

「連日連夜忙しい」

「じゃあ明日切って」



 話の出来ない泰正は機嫌がよさそうな笑顔を見せる。



「俺、今回割とまじでやばくない? ぼっさぼさでしょ。ここ来るまでもじろじろ見られてさ。まあ、ほぼ浮浪者だからしゃあねえけど」



 浮浪者。確かに、玄関先で見た、薄汚れた服を着て、薄汚れた靴を履いて、薄汚れた鞄をもって、髪は伸ばしっぱなしで、ヒゲも数日剃っていない上、ろくにお風呂に入っていない泰正は、洋画で見る「浮浪者」じみている。


 今やヒゲ以外の問題が解消されて若干こざっぱりしているが、そのこざっぱり感もおかしくて、目を細め口の端を上げてしまった。泰正は前傾して私の顔を覗き込む。そのにやけた顔は、いつまでも泰正の機嫌のよさを語ろうとする。



「……なんでそんな顔するの?」

「春が笑ったから?」

「浮浪者だなあって思っただけだよ」

「早く髪切ってよ」

「明日ね」

「約束な」

「約束はしない」



 泰正のヒゲヅラに手を伸ばす。髪をテキトーにまとめたせいで、髪が一束落ちている。ちゃんと結べばいいのに。とは、言わない。早くヒゲを剃りなよ。言わない。だらしないままでいい。ずっと。


 人差し指ですべすべとは言えない頬を撫でる。ヒゲの似合わない男の輪郭をなぞる。泰正は拒絶しない。くすぐったそうにもしない。目も逸らさない。じっと私の目を見つめてくる。目は何かを語ると思っている節が、泰正には昔からある。今日も泰正は信じている。私の目が私の口より雄弁なことを。だから私は口を開く。私の腹の中には泰正から隠したいことがたくさんある。



「旅は楽しかった?」

「楽しかったよ」

「また行くんでしょ?」

「行くよ」

「いつ行くの?」

「まだ何とも言えない。仕事の進捗による」

「ふーん」



 泰正は依然として目を逸らさない。


 よくもまあ人の目をこんなにも見つめ続けられるな。私が初めて泰正に会ったときに抱いた第一印象は、それだった。ずっと変わらない。今日も思う。よくもまあこんなにも……。



「――泰正、知ってる? 8.2秒異性が見つめ合ったら恋に落ちるんだって」



 最近仕入れたうんちくを披露すれば、泰正は脈絡のない発言を面白がった。



「8.2秒の法則だっけ」

「知らないけど」

「俺が知ってる8.2秒は、一目惚れした男が相手の目を見る平均時間、だけど」

「へえ」

「まあ、どっちにしろ自覚すんのに8秒もいらねえよな」



 泰正が笑って、そうすると自然と視線が逸れた。それを機に私も泰正の頬に触れるのをやめ、視線を部屋のどこかに放り投げる。



「見つめ合ったくらいで恋なんか始まらない、じゃなくて?」

「いや、侮れんだろ」

「その意見は初だな。泰正以外は誰も支持しなかった」

「俺だけ?」



 そうだよ。答えるときに泰正に一瞬目を戻してしまった。そうでなくても癖のように人の目を見る泰正と、また、視線が絡む。


 1秒、2秒、3秒――…。無言で見つめ合う。別に、特別なことなんかじゃない。4秒。無言でいることも目を合わせていることも、取り立てて意識することじゃない。5秒。6秒めで泰正もこの時間をカウントしている気がして、7秒経つ前に私の方から目を逸らした。


 テーブルの上のマグカップに目が留まる。湯気が立っている。まだ、冷めていない。よかった。じゃあまだ飲まない。唐突に時計の秒針の進む音が耳につき始める。細かく刻まれるその音が心音のように聞こえる。不愉快だ。息を吐く。胸に圧迫感があって、長く深く吐くことが難しい。膝に顔を埋める。隣で泰正がマグカップに口をつけた。静かに、私がそうと気付かないうちに、暖かい黒い液体を流し込んだ。


 あ、おかえりって言ってない。


 いまさら思うなんてどうかしている。



    

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