虹蛇さんの罪 3

「しかし」

 ソファに腰掛けた蛇はぽつりと呟き、首を傾けた。白い髪がさらりと揺れる。

「話し相手になるとは言うたものの……ワシは基本的に祠の奥で眠っておるし、その度に呼びにこさせるのは……」

 申し訳ない、という言葉はなんとなく飲み込んだ。


 相手にして欲しくば、呼べば良い。人間はずっと自分に対してそう接してきたのだ。

 水が足りぬから、雨が降らぬから、そんな理由で起こすのだ。今更自分から寄り添うなど、という意地のような物だった。


「ならば、ここに住めばいいんじゃないかな」

 パイプ椅子に座ったサクラがさらっと答える。

「人の増えるペースはちょっと早いけど、まだ部屋に余裕はあるし。話も持ってるから全然問題ない。きっと歓迎されるよ」

「お話……あるんですか?」

 隣に座っていたサカキの目が、ぱちりと蛇を向く。それがあまりにまっすぐで、蛇は少し居心地悪く椅子に座り直した。正直、サカキはまっすぐすぎて調子が狂う。

「まあ……あるにはある」

 どう説明したものか、と少し考えて。蛇の言葉は続く。

「先にも言うたが、ワシは雨を降らせる。人間のこの姿も仮初めじゃ。本来は――」

 それはサカキが瞬きするほどの間。

 赤い瞳に白いまつげの影を落とした女性は消え失せ、代わりのように赤い目の白蛇が居た。

「これが、ワシの本来の姿じゃ」

 怖いか? と問う。

 サカキはソファに両手をつき、じっと蛇を見下ろして。

「いいえ……怖く、ないです。その、とても……」

 なんと言いたかったのかは分からなかったが、途切れた言葉は悪いものではないのだろう。悪意が見えない瞳で、ふるふると首を横に振った。

「そうか。ならば支障ないな。ワシはこの通り蛇だ。雨を降らせるただの蛇」

 あ、とサカキは何かに気付いたようだった。

「昔、読んだことあります。雨を降らせてくれる虹蛇様――」

 その名前を口にして「あ」と言葉を止めた。

「も、もしかして僕……神様に話し相手になってほしいなんて……?」

 途端に、視線が不安げに揺れる。蛇は「気にするな」とサカキの手の上にこつんと頭を乗せた。

「ワシはただの蛇じゃ。雨を降らせることができるだけの。それだけじゃ」

 だからそう気にする事ではない、と蛇は小さく息をつく。

「話がずれたな。本題に戻そう。ワシはこれまであの祠に住んでいたが、越してくるのも、まあ……やぶさかではない」

 話し相手になると言うたしのう、と付け足し、「して」とサクラに問う。

「ここへ移るにあたって必要なものはあるか?」

「必要なもの……何かあるかな……」

「まずはできるだけ人である事、は必要じゃないか?」

 部屋の隅にある机で無言を貫いていた白衣の少年――確かヤツヅリと名乗っていた彼が、紙に何かを書き込みながら言った。

「別にその姿でも構わないとは思うけど。こっちの生活に溶け込むなら、人の方が都合がいいだろう」

 そうしないと踏まれるかもしれない。と、ヤツヅリはカリカリと書き込む手を止めることなく言う。

「なるほど」

「人の姿か……まあ、それは構わぬ」

 多少疲れるが、些細な問題だ。

 他にあるか、とサクラに問う。

「んー……ああ、名前とか?」

「名前? ワシの名か……?」

 ふむ。と蛇は尻尾の先を口元にあてて考える。


 これまで名を必要とした事はなかった。誰かと話す事などほとんどなかったし、あったとしても呼び名を必要としたことはなかった。

「名……名か……そうさな……」

 長らく必要としなかった物。考えた事もなかったから、咄嗟に思いつかない。


 人間は勝手に「虹蛇」と呼んでいたし、それは獏も同様だった。

 だが、その名に好ましい気持ちはあまりない。

 ならば、と考えてみても。何が自分を表すに相応しいかなど、考えた事もなかった蛇には難しい話だった。

 蛇。雨。その単語があれば十分だったから。


 その思考の出口は、ぽん、と。紙風船のようにサクラから与えられた。

「……雨野、とかどうかな」

「アマノ?」

「うん……雨を降らせるから。雨野」

 その声に、わずかな滲みを感じた。

 雨を降らせるからというのはきっと建前だ。獏は蛇のことを「雨の」と呼んでいた。サクラはそれを踏まえたのだろう。

 アマノ。悪くない響きではあった。

「そうさな。ならばアマノとしよう。……ああ。人間は名をもうひとつ持っておったようだが……?」

「苗字と名前かな。そこは好みだと思う」

 ある人とない人がいるし、とサクラは言う。

「人間の生活に合わせるのだ。あっても良かろう」


 これまで勝手気ままに生きて人間に振り回されてきたと言うのに、人間の生活に自分が合わせる。このような言葉を発する日が来るなど思いもしなかったが、口にした物は仕方ない。人間の姿を維持するには、人間に近い方が都合がいい。言霊によって存在を肯定すれば楽だろう。そんな考えだった。


「そうさな……雨、雨の名が良い」

 そうして蛇は窓の外を見る。外はきれいに晴れている。雨はすっかり上がっていた。

 この季節だと……秋雨、いや、気紛れに降るような――。

「……時雨」

「しぐれ。さん」

 ぽつりと零れた名前を、サカキが隣で繰り返す。

 サカキを見ると、にこりと微笑まれたように見えた。

「しぐれ。良い名か?」

「……はい」

「ならばそうしよう。アマノシグレ。うむ。これでいい」


 一時だけ降って去っていく雨だ。気温は低く、強めの雨足。けれどもすぐに去っていく。

 きっと自分も、祠に戻る日がくるだろう。

 一時。しばしの仮住まいをする身には、良い名前ではないか。

 蛇は自分の名前をもう一度呟いて、満足げに頷いた。


 □ ■ □


 シグレは文机に頬杖をつき、ぼんやりと空を眺めていた。

 校内に住むようになって何年経ったか。気付けばもう両手では足りなくなった。長居をしすぎたとも思うが、不思議と居心地は……まあ、悪くはない。

 越して以来、起きる頻度が高くなった。こんこんと眠り続けることもあるが、少なくとも年に二回は頻繁に目を覚ますようになってしまった。


 春先。人が増え、歓迎会だ入学式だ体育祭だという。

 夏の終わり。静かだった夏休みを終えて、テストだ文化祭だという。


 その時期になると、準備に祭りにと朝から夜まで騒がしい。校内に居ると、それは祠に居る時以上によく響く。

 シグレは否応なく目を覚まし、うとうととして過ごす。

 あんまりにうるさいと、気分に任せて雨を降らせたくなる。やりすぎるのは良くないから、少しだけ降らせる。


 梅雨の時期をを見送ったら、残り梅雨。青葉雨。

 少し長い秋雨に、気まぐれの時雨。村雨。


 こうして少しずつ降らせておけば、大雨を降らすこともない。

 そも。感情に任せなければ雨を降らさない事だって出来るのだ。このくらい良かろう、とシグレは思う。

 校舎では子供が行き来し、笑い合っている。そんな声が聞こえる。


 ――ああ、騒がしい。


 うとうとしながらシグレはその声に耳を傾ける。

 人間とは勝手だ。騒がしくて。鬱陶しくて。都合のいい事しか見ない。若ければ尚更。いや、年をとっても変わらぬか。

 そのような人間の一生など、シグレにとって短いもの。ましてやこの学び舎で過ごす時間など、瞬きする間に終わってしまう。


 ならば。


「謳歌するが良い、人間」

 ふ。と頬杖をついたまま呟く。

 この位の騒がしさなら……まあ。

「俄雨で見逃してやらんこともない」

 誰にも聞かれずそう言って、彼女は笑った。


 雨の蛇は人間が嫌いだ。

 けれども。

 雨野しぐれは。そうでもないのかもしれない。

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