きれいに揃えてあげましょう 1
ここにひとつの新聞記事がある。
街で起きた通り魔事件について、少々センセーショナルな見出しと共に、当時の状況が記されている。
昼下がりの街角で突然起きた痛ましい事件。犯人はその場で捕まったが、怪我人6名、死者は3名に及んだ。
その内には、美容師を目指していた少女の命も無残に奪われた、とある。
そんな事件が、あった。
それから間もなく、学生達の間でとある噂が流れ始めた。
道を歩いていると、髪を触られるのだという。
しばらくすると、髪を切られたという話も出てきた。
伸ばしっぱなしにしていたり、雨に濡れたり、風で乱れたり。そのままにしておくと、まるで剃刀のような風が吹き、髪が切り裂かれる。時には首筋や頬に小さな切り傷が残る。
通り魔に殺害された少女の亡霊だとか、カマイタチだとか、寒さのせいだとか。
生徒は脚色と憶測を重ねて語り始めた。
春になり、夏になり、秋になり。
幾度目かの冬が巡る頃には、その噂で語られる場所は学内へと変化していた。
学校内で無差別に髪を切る何か。
志半ばで夢を絶たれた少女の未練。
いつしか生徒達は、その見えない影に名前をつけ、こう呼んだ。
髪切りさん。または、髪切り鬼。
□ ■ □
高島さらは、物置になっている教室の隅で震えていた。
ベージュのブラウスに青い花が散らばるロングスカート。綺麗なポニーテールに結い上げられた髪が、肩からさらりと流れる。
「やだ……イヤだ……」
自身を抱きしめるその指先は歪に伸びて鈍い光沢を放ち、抱きしめる腕に食い込んで赤くにじんでいる。
最初は何が起きたのか分からなかった。
刺されたと気付いた時には、背中に硬い何かが入り込んでいる違和感があった。
痛くて、苦しくて、立っていられなくて。
膝をつくとなんだか寒くなってきた。
それから……何があったのか分からない。
気がついたら学校の近くに居た。数年前に卒業した高校へ続く通学路に立っていた。
正門が見える。放課後なのだろう。生徒達が足早に通り過ぎていく。
懐かしさを感じつつ、しばらくぼーっと見ていた。
寒い風の中、生徒達は身を寄せ合い、話をしながら通り過ぎていく。
「あれ、部活は?」
「今日は歯医者だから休み」
「通り魔事件の被害者さ、卒業生が居たらしいよ」
「えー。犯人は捕まったけど……なんか怖いね」
「隣のクラス、今日の英語抜き打ちテストだったって」
「うわ、サイアクー」
そんな夕暮れを眺めていた。
なんとなくその場を動けなかった。
帰ったら明日の実習の用意をしなきゃいけない。夕飯は何にしよう。そんな事を考えつつも、なんだか懐かしくて。離れ難かった。
「ちょっと位、先生に挨拶して行こうかな……」
そんなことをふと、思い立って。
私は正門をくぐった。
学校の中は変わらない。先生にだってすぐ会えるだろう。気楽に考えて歩いていると、遠くから歩いてくる一人の生徒が目に入った。
長い黒髪。洗ってはいるようだけど手入れはあんまりされてなくて、伸ばしっぱなしにしてるだけだとすぐに分かった。前髪も、目が隠れてしまいそうな所まで伸びていて、それを無造作に分けてある。
もったいないな、と思った。
きちんと整えたら、手入れしたら。きっと綺麗な髪なのに。
――そうだね。もったいないね
耳元で、声がした。
振り返ることは、なぜかしなかった。
――整えてあげようよ
その生徒に、目が釘付けになっていた。
――ほら、道具ならちゃんとあるよ
手に何かが触れた気がした。
視線を下ろすとそこには、きらりと夕日を照り返す、大きな鋏があった。
――ねえねえ、整えてあげないの?
その声に、視線を操作されるように。
――大丈夫、君ならできるよ
――だって君は
その声に、背中を押されるように。
私は――。
「きゃあああぁああ!」
廊下に響いた悲鳴で我に返る。
足下に、額を押さえて座り込む女生徒が居た。
彼女の周りには、黒い髪が散らばっている。
「え……」
誰もが彼女の悲鳴に足を、部活動を、動きを止めて。こっちを見ている。
「え。違……、違う……わたし、じゃ……」
私じゃない、とは言い切れなかった。
だって、髪の絡まった鋏が私の手にある。
切った感触はないけれど、私以外ありえない。
誰かに見つかったら、いい訳も何もできない。
そうすれば何が起きるのか分からなくて。
ただただ、怖くて。
「どうした!」
教師の駆けつける足音に、私は思わず逃げ出した。
□ ■ □
それからどうしていたのか、覚えていない。
家に帰ったのかも。ずっと学校に居たのかも覚えていない。分からない。
帰っているような気もするし、気付いたらいつも夕方のような気もする。
どれくらいそうしているのかも分からない。
ただ、気が付くと私は生徒の往来を眺めていて。
濡れたままだったり、伸ばしっぱなしだったり。手入れがされてない髪を見ると。
――ほら。髪がかわいそうだね。揃えてあげよう?
そんな声がして。
声に動かされるまま、鋏を振るった。
生徒に私の姿は見えていないらしい。
誰も私の事に――制服ですらない部外者に気付くことはなかった。
そして気付けば、噂話が学校中に溢れ、時折囁かれる歌まで耳に入るようになった。
髪切り鬼。
髪切りさん。
濡れた髪にはご用心。
伸びた髪にはご用心。
ああ。私だ。私の事だ。
鋏が怖い。髪が怖い。
生徒の往来が。誰かに会うのが。
とても。とても怖い。
けれど、気付いたら生徒を眺めていて。
気付いたら、髪を切っている。
足下に散らばった髪がある。感触が、ある。
声は聞こえなくなった気がするけど、いつだって私の耳にこびりついていて。
塞いでも塞いでも、聞こえてくる気がして。
私は物置になっている教室の隅っこで、できるだけ小さくなってがたがた震えて。動かないようにしていた。
「やだ……もう、ヤだ……」
帰りたい。いや、帰ってるのかもしれない。それも分からない。
ただ、あの声を聞きたくなかった。
――ね。切ってあげよう?
――ほら、揃えてあげようよ
思い出すだけで寒気がする。
聞きたくない。従いたくない。
でも、あの声を聞くだけで、他の何も考えられなくなってしまう。
それが、怖い。
自分の手には鋏なんてなくて。鈍い光沢を持った歪な爪が伸びている。自分を抱きしめる腕に食い込んで、ブラウスを、肌を切って赤く滲む。
どうしよう。
私は一体、どうしてしまったの。
なんでこんなことになってるの。
「もう……やだ……」
袖で涙を拭っても、何も解決しない。
夕方のチャイムが聞こえると、私の思考は途端に空っぽになってしまう。
――ほら。見に行こう?
「――うん。見に、行こう」
ぽつりと。熱に浮かされたようにそんな事を呟いて。
私は部屋を後にする。
□ ■ □
その日の校内は、やけに人が少ない気がした。
ふらふらと歩く。
廊下を曲がって。教室を覗く。
人が居ない。
部活動の音はする。声は聞こえる。
けど。誰にも出会わない。
私はふらふらと足を進める。
誰にも会いたくないけど。誰かに会いたくて。
校舎を移動して――人影を見つけた。
やっと、人が居た。
大きめの制服を着た、小柄な男子生徒だった。
髪は灰色で柔らかく。ぼさっとしていて。寝癖そのままのようだ。
窓辺から外を眺めている後ろ姿は、とても無防備。窓の外を楽しそうに眺めている。
下を覗いて、空を見上げて。遠くを見て、何かに手を振って。
その度に髪がふわふわと揺れる。
ちょっとくせっ毛かもしれない。櫛を通せば少しはよくなるだろうに。
そう思った瞬間、あの声がした。
「――じゃあ、揃えてあげよう」
それは、私の声だったのかもしれない。
少年に近付く。彼が私に気付いて、振り返った。
きょとん、とした目。その瞳に映るのは、振り上げた鋭い爪。
恐怖に怯えるかと思った少年は、私の手を見てぱあっと明るい表情になった。
「!?」
その反応が意外で、一瞬手を止めかけたけど。勢いがついた腕は止まらない。
灰色の瞳が不思議に眩む色を見せて。口いっぱいに笑みを浮かべ――。
がちん!
そんな音と火花を散らしてはじき返された。
弾かれた拍子に足元がよろめき、尻餅をつく。
何が起きたか分からなくて顔を上げようとすると、目の前には尖った刃物の先があった。
鋏じゃない。もっと長くて、人を斬る――刀のような切っ先。
「――はあ。髪切り鬼ってのはお前さんか?」
その声はさっきの少年じゃないと分かるくらい低かった。
逆光でよく見えないけれど、背が高くて、細い、濃い灰色の影。
目だけが良く切れる刃物のようで、私を真っ直ぐに見下ろしている。
ふわりと香るのは多分、煙草の匂いだ。
「え。あ……はい。多分、そう……です」
「思ったより正直だな」
感心感心、と影は言う。
さっきの声とは変わって優しい、柔らかくなった声に力がかくりと抜ける。
「ウツロ。だいじょぶ? きってない?」
これは少年の声だ。自分が襲われた事なんてちっとも気にしてないどころか、私の方を気にかけたような言葉だった。
「ああ、心配するな」
そう答える灰色の人は、ウツロさんと言うらしい。彼は刀をかちんとしまい「斬ってない」と一言だけ付け加えた。
「と、いうわけで囮ご苦労。
「はーい。ヤミくんにでんごんは?」
「特にない」
ウツロさんがそう言うと、少年は「わかったー」と言い残してぱたぱたと去って行った。
「さて」
ウツロさんが廊下の壁に背中を預け、私を見下ろす。
「――髪切り鬼」
その名前に、指先に力が入る。木の床に爪がこすれる音がした。
「お前さん、どうしてこんなことをした?」
答えを間違えたらそのまま切り捨てられそうな声。
でも、私は答えを持ってなかったから。素直にこう答えた。
こう答えるしか、ない。
「わかり、ません……」
「そうか。分からない――は?」
ウツロさんは一通り頷こうとして、そのまま聞き返してきた。
「だって……わたし……私、は」
声が震える。
ウツロさんは、静かに続きを待ってくれている。
「嫌、なん……です」
「ほう?」
「……切りたく、ない」
なのに。という声は、視界と一緒に滲む。
「切りたく……ないのに。でも。声がして。そしたら……いつの、間にか……っ」
なんだか悔しくて、涙が零れる。
ウツロさんは何も言わない。
だから、ただただ、言葉を。涙を。零し続ける。
得体の知れない声に踊らされて。自分の夢を、その為の技術をこんな風に使って。
嫌だと思って隠れても。夕方になると。チャイムが聞こえると、気付いたら校内に立っている。
そこで誰かを見つけたら、見つけてしまったら――。
そんなのもう嫌だった。
人の髪を整えるのは好きだ。
でも、それは無差別に、強制的に鋏を向けるのとは違う。
きれいに整った姿で笑って欲しくて。
自分の髪で、こんなに素敵になれるんだって、知って欲しくて。
私は鋏を持ったのに。
ああ。私にはもう、そんな資格すらない。
それならば。いっそ。
「あの」
両手を差し出して、床に置く。歪な爪が触れて耳障りな金属音を立てる。
「お願いです……私を、止めて……ください……っ。その刀で、腕を切ってもいい。いいですから! 止めて、ください……!」
二度と鋏が持てないように。
二度と髪に触れられないように。
縋る思いで懇願する。
「……ふむ」
ウツロさんはそれだけ呟いて。背中を預けていた壁から離れ、私の前に一歩踏み出した。
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