幕末・深川・奇人・サーガ【第一部 誕生編】
@AKIRA54
第一章 ダイゾーという男
1
「ダイゾーさん、身体の具合は、もう大丈夫ですかい?」
そう声をかけたのは、二十歳代後半と思える、遊び人風の町人髷を結った背の高い男である。
「はい、左乃助さんのおかげで、もうすっかり、このとおり……」
返事をしたのは、作務衣に木綿の半纏を着た、これも同年輩か、少し年上くらいの中背の男である。竹ぼうきを両手で握り、庭の枯れ草や、枯れ枝を掃いているところだった。
その場所は、小さな寺の境内。ダイゾーと呼ばれた男はどうやら寺男のようだ。縮れっ気のある、総髪を簡単に後ろで束ねているだけの髪型だ。背は高くないが、胸の筋肉は隆々としており、顔は小顔で、何処となく、野生のネコ科の動物を思わせる風貌である。
左乃助が身体のことを尋ねたのは、ダイゾーが数日前、生死の境にいたからである。
それは……。
数日前の早朝、まだ朝陽が昇る前、左乃助は佃島の沖にいた。馴染みの船宿の船頭とふたり、大川の河口、江戸湾との汽水域で「落ち鱚(きす)」を釣ろうというのである。船宿の「屋根舟」(=屋形船のように障子はないが、雨を防ぐ、屋根つきの小舟)の上で、さあ、最初の一尾を、と砂虫を針につけて、竿を出そうとしたその時、
「左乃さん!土左衛門だ」
と、櫓を巧みに潮の流れに合わせて操っていた、船頭が舟の左舷の方を顎を突き出すように指し示しながら言った。
「何、土左衛門だと?政さん、どっちだ」
「ほら、左の前方、どうやら、何か流木にでもしがみついているようだぜ」
政、と呼ばれた船頭が、櫓から右手を離して、海上の一点を指で示した。
丁度、その方向の少し外れた辺りから、房総半島越しに朝陽が顔を出し始めた。
「おう、確かに人間だ。流木にしがみついてるってことは、生きてる、ってことかもしれねぇ。政さん、釣りは止めだ。舟を回してくんな」
「おう、合点、承知乃介でぃ」
政は櫓を握り直すと、潮の流れを読んで、最短コースで漂流者に近づいて行く。左乃助は竹竿を構えて、その漂流物を船べりに引き寄せた。
「よっこらせ」
と、掛け声を掛けて、ふたりでその漂流者を屋根舟に引き上げた。
「手間がかかったぜ、真っ裸だから……」
政が額の汗を右手の甲で拭きながらそう言った。
「ああ、取り敢えず、まだ心の臓は動いている。政さん、オイラが水を吐かせるから、大急ぎで、浄庵先生の診療所へ舟を回してくんねぇ。おっと、その前に、身体を冷やさねえように、おめえの着物脱いで、被せてくれ」
「ええっ、オイラの着物をけぇ?そしたら、オイラが風邪ひくぜ」
「おめえは、半纏で充分だろうが、額に汗を浮かべてやがるし、元、房総の漁師だろうが。まだ、北風が寒いって時期じゃねぇや、櫓を漕いでりゃあ、暑くて、どうせ、諸肌を脱ぐようになるだろうが」
「ちぇ、左乃さんには敵わねぇや」
不満げだが、笑顔を浮かべ、政が木綿の着物を脱いで、左乃助に渡す。
「おう、裸になったついでだ、腹に巻いたサラシも解いてこっちに放りな。身体を擦らにゃあなんねぇ」
「サラシもかい?褌は勘弁してくんなよ。そちらさんは褌もしていないようだけどよ」
そう、ぼやきながら、腹に巻いていた、真新しい木綿のサラシを手際よく外して、政は左乃助に放り投げ、半纏を羽織ると、櫓を握って、舟を陸方向に向けた。
「へえ、巧ぇもんだね。左乃さん、医者の心得もあるんで?海水を吐き出しやがった。顔の色もさっきとは見違えるほど、赤身が射してきやがったぜ」
櫓を懸命にこぎながらも、屋根の下で蘇生作業をしている左乃助を政はじっと見ていたのだ。
「ああ、それほど、水を飲んじゃあなかったし、漂流したのも昨夜(ゆうべ)遅くのようだから、それほど長くは海に浸かっていなかったんだろう。心の蔵は強そうだ。もう、でぇじょうぶだろうが、浄庵先生処で診てもらわねぇとな。こめかみ辺りに打ち身と傷がある。その他にも傷や打ち身がありそうだ」
「昨夜、オイラたちのように、釣りにでも出て、舟がひっくりけぇったのかねぇ?昨夜は風もなく、浪もなかったようだが……」
「さあな、本人に訊くしかないが……。
おっ、気が付きなすったかい?」
漂流者の口元が動いて、何か呟いたように見えたのだ。
「でぇじょうぶですぜ、舟の上だ。今から、医者の処へ連れて行きやすから、安心してくんなせぇ。ところで、お名前は?喋れますかい?」
「……ダ、イ、ゾウ……」
「ダイゾーさんですかい?」
そう尋ねたが、男はふたたび気を失った。
*
「なんだ、朝っぱらから、土左衛門か?」
眠たそうな顔で、あくびをしながら、作務衣すがたの町医師が不満げにそう言った。
深川の小名木川を遡って、横川の手前で舟を停め、戸板に乗せて、町医師の浄庵の診療所へ左乃助と政が漂流者を運んで来たのである。ダイゾーと名乗った男は、まだ、意識を失っている。見た目は「土左衛門」そのものだったのだ。
「生きていますぜ、左乃助さんが、応急手当をして、一度は意識を取り戻したんですぜ、ダイゾーって、名前も名乗ったし……」
やっと、漂流者に掛けていた自分の着物を返してもらい、帯を絞めながら、政がそう言った。
「ほほう、わしが教えた『蘇生術』が役に立ったか?」
「はい、流石、シーボルトのもとで学んだお医者さまで……」
「ふん、シーボルトの処ではないわ。その前に、蘭書で知っておったわ」
と、浄庵は不満げながらも、自慢げに白髪交じりの顎鬚を右手で撫でていた。
「しかし、この男、素っ裸で漂流していたのか?」
「そうなんで、褌もしてないんですぜ」
「いや、実は、こんなものを身体に括りつけておりやした」
そう言って左乃助が差し出したのは、『脇差』という、小刀である。
「しっかり、腰に巻きつけていやした」
「ふうん、テェしたもんとも思えんが、武家のもんだ。どちらかというと、実践的な造りだな。だが、潮を被っている。砥ぎに出さんとイカンな」
「じゃあ、この男、お侍さんで?」
斬バラ髪のため、髷の形が解らない。元取りが切れ、総髪のようになっている。月代(さかやき)は剃っていないから、武士としても浪人だろうか?政が疑問に思ったのも当然だった。
「顔は陽に焼けて、黒いが、身体は色白だ。漁師とは思えねぇ」
「でも、大きいほうの刀は持っていませんぜ」
「政さん、大刀は邪魔で捨てたのかもしれんよ」
「ええ!お武家さんが刀を捨てた……?」
「ああ、このお方、あまり泳ぎが得意じゃあねぇな。それで、海に落ちた時、溺れそうになって、邪魔な着物、刀を脱ぎ捨てた。だが、万が一のために、脇差だけは……」
「それなら、大きい方を残すだろう?」
「いや、脇差があれば、自分の命が守れるのさ。それだけの腕があるってことだろう。剣の修行を積んだ跡がある。竹刀ダコ、いや、木刀を降り続けたタコと面づれ、おまけに、肩から、背中の筋肉、タダもんじゃあないぜ、このお方……」
「左乃助のいうとおりじゃな。剣の修業をした者じゃ。それに、ぶら下がっておる『一物』もタダもんではないぞ、政、お前さんの倍はありそうじゃ、はははは……」
2
「それで、何か思い出しましたか?」
と、左乃助は竹ぼうきの動きを止めたダイゾーに尋ねた。ダイゾーは少し俯き加減に首を横に振った。
浄庵の診療所で昼過ぎまで意識が戻らなかったダイゾーだったが、意識を取り戻した後は粥を二杯平らげ、添え物の沢庵を美味そうにかじりついた。どうやら、海の上で一晩中眠らず波に漂っていたため、精根尽きて眠りたかったのだろう、身体には異常なし、と浄庵は診断を下した。
だが、異常はあったのだ。自分の名前も、生まれも、育ちも、どうして海の上に浮かんでいたのかさえ憶えていなかったのだ。
「記憶喪失か……」
と、浄庵が呟いた。
「こめかみの打撲が原因じゃな。脳に強い振動が起きて、記憶を司る回線が切れてしまったのじゃろう。まあ、時が経てば回復することもある。気長に療養することじゃな。そうじゃ、験楽寺の和尚が使用人が居らんで困っておったわ。どうじゃな、寺男になって、養生してみては……、和尚は顔は怖いが気は優しい。わしとは竹馬の友じゃ。今は将棋の敵でもあるがのう……」
そういう、浄庵の提案で、二日後、この験楽寺という、真言宗の何処か大きな寺の末寺で厄介になっているダイゾーだったのである。だから、ダイゾーというのが本当の名前なのかも解らない。まして、どういう漢字なのかも……。
「そうですかい、まあ、まだ数日だからねぇ」
と、左乃助は頷いた
「ええ、ただ、ぼんやりとですが、舟から落ちる前の記憶があるんです。誰かに、後ろから切りつけられて、それを避けたはずみで、舟の柱に頭をぶつけてしまって……」
「ええ!それじゃあ、ダイゾーさん、柱のあるような船の上で、誰かと争っていたんですかい?」
「いや、争っていた記憶はありません。どうも、わたしは舟に弱くて、船酔いをしていたようです」
「そこを背中から襲われた?そりゃあ、闇討ちに等しいや。卑怯なやり口ですね。それで、そいつはどんな奴なんで?」
「解りません、ただ、その男の他にも舟にはいたような気がします。何故、舟に弱いわたしが舟に乗っていたのかも……」
*
「あら、左乃助さん、朝早くから、お参り?何時から信心深くなったの?」
若い元気な女の声が、左乃助の背中側から聞こえてきた。
「おや、お美津坊、今日も朝参りかい?御利益はまだないのか?」
左乃助が振り返って、黄八丈が良く似合う小柄な少女に声をかけた。
「左乃助さん、そのお美津坊って呼ぶの、やめてくれない。わたしもうすぐ、十六になるのよ。『坊』はとっくの昔にさよならしてるわよ」
「そいつは、すまねぇ。つい先日まで、オイラの膝の上におしっこ漏らしていた気がしてね」
「ひ、ひどい、それ、わたしが三つの時の話でしょう?」
「いや、ご免、ご免、あの頃のお美津坊、いや、お美津ちゃんが可愛くて、忘れられねぇんだ。勘弁してくんな。今後はお美津ちゃんって呼ぶから……」
「なによ、それじゃあ、今のわたしは可愛くないって言いたいの?」
「そ、そうはいってねぇだろうよ。今も可愛いが、あの頃のお美津ちゃんは、そうだ、かぐや姫の生まれ変わりじゃねぇかと思っていたんだ。オイラも子供だったし……」
「もういいわよ、ほら、ダイゾーさんが笑っているわよ」
振り向くと、ほうきを抱えたまま、ダイゾーが笑っていた。初めて見るダイゾーの笑顔だった。
「お美津さん、今日もご祈願ですか?お母さまが無事にお帰りになると良いですね」
「あら、ダイゾーさん、それをどうして?」
「いや、毎日、っていっても、わたしは今日で四日目ですが、きれいなお嬢さんが、こんな末寺に毎朝お参りに来てるんで、気になりまして、ご住職に尋ねたんです」
「ああ、そうなの、和尚さん、お母さんのことまで話したんだ」
お美津は近所で「呑ベエ」という一膳飯屋を営む、安兵衛という男の娘である。深川小町といわれるほどの美少女だが、深川気質なのか「おきゃん」というか、お転婆が過ぎていて、男勝りで有名であった。この験楽寺の住職、禅海という和尚、坊主のくせに武道好きで、諸国行脚という名目で、武者修行に出ていたとの噂がある人物なのだが、彼が、年少のお美津に武道を教えたのだ。
「きれいな子だから、男にいいよられるだろう。中には力ずくで、などと、不届きな輩もいるかもしれん。護身のための武道じゃ」
そう言って、柔か拳法か、あるいは杖術か薙刀を教え込んだ。筋が良かったのか、十二歳を過ぎる頃には、その辺りの武士どもより、強くなった。
そのお美津がこうして毎朝、寺参りをしているのには訳がある。半年ほど前のこと、お美津の母親の美晴と弟の健太が行方知れずになったのだ。深川の富岡八幡宮のお祭りの日だった。父親とお美津は店が忙しく、お祭りには行けない。駄々をこねる健太を見兼ねて、母親の美晴に、
「連れて行ってやりなよ。お店は、お父ちゃんと、わたしで大丈夫だからさ」
と、姉であるお美津は弟の気持ちを察してそう言ったのである。
その縁日の帰り道、ふたりの姿が消えたのだ。おそらく、人浚い(=拉致)されたのだろう。だが、目撃者はいない。
「神隠しだよ」と近所のおばさん連中にいわれた。
自分がいった言葉の所為で、大事な家族二人がいなくなったのだ。お美津はその日から毎日、験楽寺へ朝参りを続けているのである。
「それで、左乃助さんは?まさか、朝帰り?何処かの悪所へ泊りこんでいたとか?」
お美津が話を元に戻すように、左乃助に尋ねた。
「朝帰りは朝帰りだがね。御用の筋さ」
「御用?何かあったの?そういえば、夜半、呼子の音がしていたわね」
「ああ、押し込みさ」
「押し込み?何処に?それで、被害は?」
「押し込まれたのは、『伏見屋』って、酒問屋」
「ああ、下り物、灘や伏見の上等なお酒を商っている大店ね。ウチとこは相手にしてもらえないわ」
「相手にしてもらえないんじゃあなくて、安兵衛さんが安くてうまい酒を他で探してくるからだろう。下り物は値が張るからね。いや、そんなこたぁどうでもいいんだ。その伏見屋に五人組、もうひとりは見張りがいたかもしんねぇが、頭巾に天狗の面を付けた賊が押し込んだんだよ」
昨夜、周りの商家はひっそりと眠りについている時刻。だが、伏見屋では、まだ宴が続いていた。というのは、この店の主人の甥に当たる、源吾という、二十四になる若者が、数日前に、御上から正式に十手を預かる身分、つまり、目明し(=岡っ引き)と呼ばれる親分になったのである。歳の若い親分の誕生には、訳があった。それまでこの辺りの十手を預かっていた茂平という、五十過ぎの大親分が、捕り物の最中に賊に切られた。切られたのは足首で、つまり、アキレス腱断絶である。命に別条はなかったが、歩けない。そこで、きっぱりと、十手を返上することにした。その代わり、手下の中で、一番信頼のできる源吾を、八丁堀の旦那(=定町回りの同心)に推薦したのだ。それがつい先日認められ、源吾が茂平の跡を継いだ。
それと同時期に、深川地区の担当の同心のひとりが、同じく跡目を譲られ、見習いから正式な定町回りに任命されたのである。
その祝いの宴が店仕舞をした後の伏見屋の座敷で行われていたのだった。
そろそろ、宴も終わろうという時刻、表の戸を叩く音がした。
手代が、
「どちらさまで?」
と、扉越しに尋ねると、
「奉行所の者だ」と言う。
「はいはい、今、開けます」
手代は、宴席にいる、同心に急用でもできて、呼びに来たものと解釈したのである。
心張り棒を外すや否や、引き戸が乱暴に開けられ、白刃の抜き身が手代の鼻さきに突きつけられた。
「静かにしろ、騒ぐと命はないぞ」
扉をくぐって、手代の前に姿を見せた黒ずくめの男が、白刃の切っ先を小刻みに振りながらそう言った。その顔には、天狗の赤いお面が被られていた。
天狗面の男の後から、同じような姿形の四人が押し入って来た。手代は声を上げられず、土間に腰を抜かしたように座り込んだが、流石に、異変に気づいて、主人の息子である、長一郎が店先に出てきた。
「友助、どなただ?」
と、手代の名を呼んだのである。
手にした行燈の光で、賊の侵入が眼に入った。
「お、押し込みだ!」
長一郎の声が、店先に響いた。
「ちぃ」と、舌打ちした賊のひとりが、白刃を構えて、上がり框から、座敷へ駆けあがる。長一郎は奥に向かって、「賊だ、賊だ」と叫びながら、転がるように逃げて行った。
「押し込みだと?おもしれぇ。俺たちがここにいると承知で押し込んだのけぇ?単なる偶然か?それとも……左乃助の瓦版の所為か?」
そう言って、奥の座敷から現れたのは、黄八丈の着物に黒の羽織を重ねた、町奉行所の同心である。その手には朱房の十手が握られていた。
同心の後ろから、もうひとり、若い同じく同心姿の男。続いて、十手を握った町人髷の若い小柄な男。最後に、背の高い左乃助が、着物の裾をめくり上げながら、現れた。
「ムム……、八丁堀か、まずい、ひとまず引け」
扉のすぐそばにいた賊のひとりが、そう指示を繰り出した。どうやら、その男が、賊の首領であるようだ。
先に座敷に上がっていた賊が、刃物を土間に座りこんでいる、手代の友助に付きつけた。人質である。座敷にいる四人は下手に動けなくなった。
もうひとりの賊が友助の着物の襟首を掴んで、表へと引きずり出す。刃物を突き付けた賊がその後に続いて、表へと出て行った。
「ちぃ、逃がすもんか」
年嵩の同心がその後を追うように表へと飛び出した。その肩口に白刃が落ちてきた。逃げたと見せて、扉の前で待ち伏せていたのである。咄嗟に、十手でその切っ先を防いだが、防ぎきれず、肩口に一撃を受けた。十手のおかげで、勢いが消されていて、浅手となったが、痛みが走り、また、二の矢を避けるため、賊とは反対方向へ、転がるように身を避けたのである。
賊は、そのまま闇の中へ消えて行った。友助は気を失っていたが、怪我もなかった。
「山田さま、ご無事で!」
「慎之介、呼子だ!呼子を吹け!木戸を閉めらせろ!番屋の連中を総動員だ!」
山田と呼ばれた同心は、傷口の肩を押さえながら、飛び出してきた若い同心に矢継ぎ早の命令を下した。
夜の深川の町に呼子の音が響き渡った。
「川筋を固めなけりゃあ。賊はきっと舟を使いますぜ」
「おう、左乃助のいうとおりだ。番屋の連中に提灯を持たせ、川筋を当たらしましょう。不審な舟は、通さねぇように……」
*
「それで?賊は捕まえたの?」
と、話の途中ながら、お美津が左乃助に尋ねた。
「いや、まだ捕まえちゃあいねぇ。先にずらかった、四人は舟で大川へ出たようだが、最後に山田さんに斬りかかった野郎は舟を使えなかったはずだ。まだこの近辺に潜んでいるにちげぇねぇ」
「まあ怖い、お父ちゃんにも知らせなきゃあ」
「ああ、お美津ちゃんも気をつけてな。一人歩きは控えておきなよ。オイラ、和尚さんに伝えて、また、御用を手伝ってくるよ」
「和尚なら、出かけていますよ」
と、左乃助の言葉を受けて、ダイゾーが言った。
「へぇ、こんな朝っぱらから?」
「はい、犬を連れて……」
「犬?ああ、この前拾ってきた、柴犬か、確か、『ハチ』って呼んでいたな」
「柴と甲斐犬の合いの子かも知れませんがね、中々、賢い犬で、和尚が訓練して、盗人よけにするって、洲崎の浜へ連れて行きましたよ」
「そうか、訓練して、御用の手伝いができたら、そいつはすげぇが……。まあいいや、ダイゾーさん、和尚には押し込みのこと伝えておくんなさいよ」
左乃助はそう言って、寺をあとにした。お美津はその背中を見送って、本殿の前に足を運び、手を合わせた。その後、本殿脇にある、大師堂、もうひとつ、何故か寺の外れにある『子守稲荷』と呼ばれている小さな祠にも手を合わせた。
「ま、待ちやがれ!」
お美津が境内をあとにしようとした時、前方から、男の声が聞こえ、その声の方向から、男が、着物を裾をからげて、全力疾走してくる。その後方に、股引姿の男が、十手をかざして追ってくるのが見えた。
先を行く男が寺の境内に飛び込んできて、
「おい、ここからは、寺社の領域だぜ。町方は手出しできねぇよな」と言った。
「へん、お生憎さまだな。お奉行さまから、お寺社のほうに、お願いして、凶悪犯が寺社領に逃げ込んだ時は、町方の出入り自由、ってお許しを頂いているんでぇ。往生際をきめてもらおうか、一晩中、追いかけっこにも、飽きただろうが……」
「ちくしょう、こうなったら……」
男は、懐から白木の棒を取り出し、その片一方を引きだす。匕首(あいくち)と呼ばれる、小刀が仕込まれていた。
「きゃあ!」と、お美津が叫んだ。
その声に、男がお美津に気づいて、にやりと笑うと、お美津に飛びかかって来たのである。
「おい、下手な真似すると、この娘の命がねぇぞ」
刃物をお美津の頬に突きつけ、肩を抱くようにして、少しずつ、境内の奥へと足を運んで行く。
「けっ、きたねぇ真似するんじゃねぇ。その娘を放しな。一対一、さしで勝負しようじゃないか」
「へん、嫌だね。お前さんに勝っても、無事に逃げきれる保証はねぇ。ここは、この娘を人質にして、悠々と見逃してもらうぜ」
「何すんのよ、汚い手で触るなよ」
「おや、威勢のいい、女だ。大人しくしねぇ。殺しやぁしねぇよ。でぇじな、人質だからよう」
男はうすら笑いを浮かべ、お美津の身体を半ば抱えるようにして、奥へ、奥へ、進んで行く。視線は目明しらしい小柄な男に向いたままである。
「お美津ちゃん」
「左乃助さん、助けて!」
目明しの後ろから、左乃助の背の高い姿が目に入った。お美津が思わず叫んだ。
「おや、色男の登場か?お前もこれが見えるだろう?それ以上近づくじゃねぇ。殺しはしねぇが、可愛い顔に、傷がつくぜ」
左乃助は、唇を噛んで、目明しの横で足を止めた。
「猿(ましら)の親分、こいつが昨夜の賊のひとりで?」
左乃助が身をかがめながら、十手を構えたままの目明しの耳元で尋ねた。目明しの名前は、源吾だが、住まいが猿江町で、耳が大きく、顔が日本猿に似ている処から『ましらの源吾』又は『ましらの親分』と呼ばれているのである。
「ああ、こいつが山田の旦那に斬りかかった賊にまちげぇねぇ。着物を裏返して、頭巾と面は外しているが、背格好、それに走る時の癖が、同じでぇ。どうやら、仲間とはぐれて、こいつひとりが、この近所に潜伏して、ほとぼりをさましていやがったんだ。こっちは、諦めたと思わせて、出てくるのを待っていたんだが、結構足の速い野郎で、ここへ逃げ込まれたってわけよ」
「呼子を吹いてくれりゃあ、挟み撃ちにでけたのに……」
「すまねえ、追いかけるのに必死でよう。それにこいつは、どうしてもオイラの手でお縄にしてぇんだ。こいつら、大親分に怪我を負わせた一味に違いねぇ。人数も、天狗の面もあの時の賊と同じなんだ」
「そ、それじゃあ、こいつら、あの凶盗の『将棋組』なんですかい?」
「ああ、三年ほど前に、江戸を荒らした押し込みよ。火盗改めが一網打尽を図ったが、幹部連には逃げられた。江戸を離れたっていっていたが、また集まって来たようなんだ。日本橋辺りの商家や、蔵前の札差にも押し込んだようだ。一家、皆殺しがお決まりの手口だそうだぜ」
そうふたりが話しているうちに、賊はお美津を抱えて、離れて行く。
「おっと、なんでぇ、おめえは……」
後ろ向きに歩いていた賊がそう言って、振り向いた先に、寺男のダイゾーが竹ぼうきを操って庭を掃いていたのだ。それに気づかず、背中をダイゾーにぶつけてしまったのである。
「おい、うすのろ、どけよ。こいつが眼にはいらねぇのかよ」
男がお美津の頬に当てていた匕首の切っ先をダイゾーに向けた。
その瞬間、
「グゲェ……」と蛙が潰れた時のような音が、賊ののど元から飛んだ。
そして、あおむけに倒れて行く。腕がお美津にまとわりついているため、お美津も引きずられて、倒れかかった。その着物の帯を、ダイゾーが素早く掴んでお美津が倒れるのを防いでいた。
ダイゾーの手にほうきが逆さまに握られている。その柄の先を使って、賊が取り落とした匕口を駆け寄ってくる左乃助の方にはじきとばした。
「お美津ちゃん、大丈夫か?怪我はねぇか?」
と、口を開いたのは、源吾だった。左乃助は、足元の匕首をゆっくり拾い上げていた。
「う、うん大丈夫。けど、こいつ、わたしの胸に手を入れて、いやらしい、こうしてやる」
そう言うと、お美津は右足を上げ、履いていた下駄の歯を、おもいきり、賊の股間に向けて踏み降ろしたのだった。
「グググゥ……」
賊が痛みに蘇生したが、また気絶、いや悶絶してしまった。男の急所を嫌と言うほど踏みにじられたのだった。
「お美津ちゃん、もういいよ。どいとくれ。そいつにお縄を掛けるからさ。死なない程度にしておいてくれよ」
源吾親分が、腰に付けていた捕り縄を解きながら、右足を賊の股間に押しつけ続けている少女の肩を叩いた。
お美津は我に還ったように、頬を赤らめ、傍に茫然と突っ立ている、背の高い男の胸に飛び込んでいった。が、背の違いがあり過ぎて、腰にしがみつく格好になった。
「左乃助さん、怖かったよう」
「あ、ああ、もうでぇじょうぶだ、ほら、ダイゾーさんに礼をいいな」
左乃助も我に還って、お美津の肩に手を回しながらそう言った。左乃助は見ていたのだ。ダイゾーが竹ぼうきをとっさに逆さに握り、その柄の先で、賊の喉を突いたのだ。いやそこまでなら、おそらく、源吾も見ただろう。しかしその突きは一度ではなかった。瞬時にもう一度、今度は賊の顎の先端をついていたのだ。カクンと賊の頭が傾くのが見えた。
「前に、浄庵先生から訊いたことがある。人間、顎の先端に横から打撃をくわえられると、頭蓋骨が揺すられて、意識を失う。そう、『脳震とう』を起こす、とかいっていたっけ……」
左乃助は心の中で、そう呟いていた。
「タダもんじゃあねぇ、とは思ってはいたが、こいつぁ、化けもんだぜ、和尚より、腕がたつ。オイラでも、敵わねえかもしれねぇ」
タダものではない左乃助が呆れて、言葉を失うほどの達人。ダイゾーとは、そういう男だった。
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