奇跡とは呼べない香り
遠野文弓
第一章
プロローグ 奇跡は赤字の香り
重たく軋む
咳が一つ漏れる。木の長椅子に深く身を預けた少年の姿があった。一人だけ、空間に漂う緊張とわずかにずれている。
十五、六歳。アイロンの折り目が硬いシャツ。石鹸の残り香はほぼ揮散している。若い皮脂すら希薄な、匂わない身なり。
少年が座るここは、工業都市ペルジャン高台にある〈パルヴェリアン調香師学校〉の旧講堂だ。
教授は歩みを止め、黒板に背を向けて振り返った。
「……およそ百年前、戦争孤児の少女が言葉を失った。だが、ローズ精油が少女の沈黙を破った。香りが記憶を攫い、言葉の中枢を目覚めさせた、という記録がある」
講堂が静まり返る。
「自然の香りが持つ奇跡として挙げられる事例だね。ローズ精油に含まれるフェニルエチルアルコールが言語野を巻き込む形で作用した、という仮説は定着しつつあるが、因果は未解明」
一呼吸置いて、教授は名指す。
「さて、皆はどう感じただろうか。……では、ジャック・ローラン。君はどう考える?」
名を呼ばれた少年――ジャックは教科書を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
「……それは『レメリーの記録』ですね。存じています。調香に携わる者としては身の引き締まる思いがしますね」
模範的な答えだった。言葉の選び方も、声の調子も、正解を知っている者のそれだった。そのことにふと気がついた、とでもいうようにジャックは少し目を細めて、言葉を付け足した。
「薔薇の品種改良は見た目に偏っていて、香りが見直されるようになったのはここ最近だと聞いたことがあります。少女の声を回復させた薔薇の香りも、もう存在しないというのは本当ですか」
「そうだね。現代品種の多くは芳香成分を削ってきた。
「残念なことです」
「それもまた香りのロマンだろう」
教授は一人でうなずくと、ジャックに座るよう促した。
ジャックは小さくため息をつきながら着席した。
そのまま椅子へ沈む。閉じた教科書の上に置いた、薄く擦り切れた紙の綴じ本――安っぽい恋愛小説を読み捨てるような手つきでめくる。
内心では、すでに別の勘定を始めていた。
薔薇の香りは、手間と資源を喰うだけで、ろくに実を返さない。
精油の収率は0.02%。
労働費と土地代を飲み込み、帳簿の端に真っ赤な数字を残す。
(赤字の香り)
人は損失に意味を求め、その
尊いからではなく、割に合わないからこそ、奇跡は成り立つ。
こもりがちな講堂の空気に、ほんのわずかに薔薇の気配が漂っていた。誰かが――いや、こんな甘いものを学校につけてくるのは、どうせ三列後ろのアイリス・ドレーヴに違いなかった。
無自覚なのか、わかっていてやっているのか。
ジャックはページをめくりながら、小さく鼻を鳴らした。
講義の終わりを告げる鐘が鳴った。
ジャックは手慣れた動きで教科書を鞄に詰め込み、誰よりも早く講堂を出た。
階段を下り、廊下を抜け、石畳の外構に足を踏み出す。
曇天。風はごくわずかに流れていた。
鼻が、先に動く。
雨上がりの湿気が立ち上る。
湿布のような
甘やかな湯気が足もとを滑り、パン窯の酵母と溶けたバターが遅れて追い付く。
検算。
調香に使える分子と、ただの風景を切り分ける作業。
すべてを嗅ぐのではない。
再現可能な素材。記憶に照合できる分子。調香に使えるものだけを選定する。
屋根の切れ目が見えてきた。
空気はまだ静かだったが、煙突のあいだから立ち上る排気の筋が、風よりも早く情報を送ってくる。
まだ、匂いは届いていない。
もう通り過ぎたはずの傷んだ花の香りが、記憶の中で錯覚のように息を吹き返す。
――奇跡の香りなど要らない。
収支を
ジャックは歩きながら布マスクを引き上げ、視線を遠くの煙突へ送った。
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