2.雨宿り
『カンナは、あの時なんでウチを殺さなかったん?』
いつだったか、ある妖怪にそんなことを言われた。彼女は変な口調の
私はこれに、どう答えたのか。正直なところ、思い出せないでいる。
私、
だが、この日は雨が降り注いでいた。日は雲に完全に隠れ、山道はぬかるみで滑りやすくなっている。それ自体は特に問題ではなかったのだが、雨の勢いが、帰り際になってから豪雨とも呼べるほどの激しさに変わっていた。このような雨であれば大きな影響も出る。一度轟音と共に土砂崩れが起き、山道が一部崩壊していた。
土砂崩れが落ち着くのを待ち、行きに通った道を確認する。この土砂崩れの影響で、行きに使った道が潰れてしまった。むせかえるような
こんなことになるのであれば、無理に今日対応しないでもよかったのかもしれない。幸い、土砂崩れが起きた位置は、方向的に人里には影響がなさそうであった。崩れた道の上を無理矢理歩くのかと少しだけ考える。だが、それは地面が安定していないから流石に危険すぎると思い直した。無茶をして最短距離で下山するようなことをする必要もないと考え、別の道を探すことにした。
今朝方から雨を凌ぐために
滑落しないように慎重になりながらも、獣道を進んでいく。段差が多い影響で腰の刀が揺れ、
この山は普段から人が入らないと聞いてはいる。山奥へ進む際も獣道を進んでいた。だが、土砂崩れの影響で獣も通らないような道を進むしかない現状に嫌気がさしてくる。そうして進み続けていると、大きな横穴を見つけた。僅かに坂になっている影響か、内部は水が溜まっていない。雨宿りには最適な場所に思えた。
だが、横穴の奥は日中でも薄暗かった。日が隠れている影響もあるため尚更だ。危険な妖怪や獣がいる可能性もある。だが、濡れてしまっている今、そんなことを考える暇はない。日が暮れると獣や妖怪の活動が活発になるだろう。この山の生態を把握できていない今、雨に打たれながら警戒するのは厳しいものがある。それに、身体が冷えて体力的に余裕がない。総合的に考えると、夜になる前にここで雨宿りをするのが得策だと思えた。
横穴の入り口で菅笠を外し、蓑を脱ぐ。黒い艶のある長髪が垂れ流された。髪は
帰る前に川を探しておこう。泥だらけのまま屋敷に帰るのは、掃除をする
寒さに身体を震わせながら、腰に巻いた帯に備えていた小型の木箱の中を確認した。札を持ち運ぶための簡素なものだ。蓋付きとはいえ、長時間の雨の影響なのか、取り出した札は大半が濡れていた。札が濡れると、使われている血文字が滲んでしまい使い物にならなくなる。札に使われる血文字には自分の血を使う必要があるので、今後の在庫補充を考えると億劫になった。血を搾り出すときの痛みを思い出して、ため息が無意識に出てくる。
そうして悪態をつきながらも、私は比較的文字が滲んでいない、使用可能な札を探す。すると、どうにか2枚ほどは使えそうな札を見つけることができた。とりあえず、今の状況では1枚もないよりマシだと胸をなで下ろす。
私、靈山カンナは呪術士だ。呪術士の主な仕事は妖怪退治と
今回の仕事はいつもの簡易な妖怪退治の認識だった。数がいないこともそこまで強くなさそうなことも確認済みであったため、簡易的な装備しかしてこなかった。想定外としては豪雨ぐらいだ。
私は改めて横穴の奥を遠目に確認する。奥に進むにつれて曲がっている影響なのか最深部は見えない。光がほとんど入らないこともあり、先住民や山賊、妖怪が息を潜めていたとしてもおかしくはない。髪を簡単に結い上げると、腰の刀を抜き、残った2枚の札を片手に持ちながら奥へと進んだ。
札を1枚、左手の小指と薬指に挟み、術で照明として使う。1枚は人差し指と親指に挟み込んだ。横穴の奥には、何者かの生活の痕跡があった。水が入った竹筒、横たわる丸太の上にまとめて置かれた木の実、そして、人の素足と形状が似ている足跡。水は遠目に見る限り透き通っており、不純物が入っている様子はない。木の実はどれも腐敗しておらず、数日以内に取ってきたような印象を受ける。足跡は、だいたいが何日も前のものだ。だが、一部だけ、真新しい足跡があった。形状は1種類で、近付いてみると大きな獣のようにも見える。
そして、背後の気配に気付く。人間ではなく獣に近い匂い。反射的に手に持っていた札を一枚使い、素早く簡易的な封印術で対象を拘束した。驚くほど簡単に拘束できたそれは、自分の背丈ほどもある、人型の狼ともとれる存在であった。
漆黒の長髪で、人の姿にこそ近いが全身が毛に覆われている。体格は私と同じぐらいだろうか。手は人に近いが、爪が発達しており、足は狼のような逆関節になっていた。瞳は琥珀色で、どこか悲しい雰囲気を感じた。
人狼はもがくが封印術の拘束によって動けない。涙を浮かべる人狼の目を見て、私はある風景を思い出した。
私の家では、幼少期に妖怪が少ない期間、戦闘訓練として狩りを行うことがある。山奥で野営生活をしながら犬や鹿、猪を狩りの対象とする訓練だ。正直なところ、私はこれが嫌いだった。動物の命を一撃で絶てなかった時の、命乞いをするような怯えた瞳。私は弱者から向けられるそれが苦手だ。そして、この人狼の目はそれを思い出させる。私は奥歯を噛み締めながら、どうにも刀を握る手を動かす気になれなかった。
そして、人狼はしばらくもがくことをやめた。諦めたのかと思った次の瞬間、人狼の妖怪は信じられない行動をする。拘束されたまま頭を垂れ、首を差し出すような体勢になる。命を差し出しているのか? こんな行動をする妖怪を、見たことがない。そして、もう一つ頭部の下の地面に雫が落ちていることに気付く。
「妖怪、なんだよね?」
人狼に問いかける。口を動かそうとしているが、どういうことか上手く喋られないようだ。風貌は間違いなく妖怪。だが、その瞳や行動、雰囲気は、今まで退治した妖怪とかけ離れている。妖怪は人を喰らうものとして広く認識されている。例え、人から妖怪になったとしても、凶暴になり何かしらの獰猛さを見せるものだ。呪術士はそれを退治する存在でもある。そういう人を傷つける存在は何度も何度も見てきた。
そうして戸惑っていると、またあの言葉を思い出した。
『カンナは、あの時なんでウチを殺さなかったん?』
最初の理由がなんだったのか、未だに思い出せない。今は、あの子の人なりを知っているから殺さない理由がはっきりしている。危険性のない子供のいたずらを繰り返すだけであれば、殺すような必要性がないからだ。
しばらく考えた後、答えが出なかった私は、人狼を殺す理由を探すために、横穴の深部を確認した。
結論としては、殺す理由は見つかることはなかった。葉を敷き詰めた布団。動物や魚の骨しか埋まっていない簡素な墓。こうしてみると簡素な暮らしを続けていたのであろう。あとは遺留品を奪った形跡もない。道具は全て木や石を加工したもので、人の血が付いている形跡は見つからなかった。小動物相手に墓を作っていることにも、妖怪としては違和感がある。それに、墓は作られて相当年月が経っていそうであった。
でも、私はこれで安心するつもりはない。そこで私は、人狼に対してカマをかけてみることにした。
「お前、そこの墓に人骨が埋められていた。お前がやったのか?」
人狼はそれに対して泣きながら、勢いよく首を横に振る。まるで人間が冤罪をかけられたような反応。この反応を見ていると、疑ってかかった自分が間抜けにも思えた。これで偽りであれば、この人狼が上手だったとして諦めよう。私は今度こそ、人狼を一旦無害な存在と判断して、札を剥がして拘束を解除した。
どうにも、この妖怪を殺す気にはなれない。それに、私の力は弱者を一方的に殺すものじゃないと、無理矢理自分を納得させた。
拘束が解除されたにもかかわらず、人狼は襲ってくる気配も動く気配もない。何が起きているのか分かっていないのだろうか。何もしないのを見かねて人狼に話しかけてみた。
「もう拘束は解いた。問題なく動けるはずだよ。驚かせて申し訳ない。人骨が埋まっていたのは虚偽だ」
軽めの口調で話しかけると、人狼ははじめてこちらを見る。その泣き顔は人間の子供のようにも見えた。人狼に普通ではない事情があるように思えた。
「仕事柄どうしても警戒してしまうんだ。私は雨が上がったらここを出る。いきなり拘束したことへのせめてもの詫びだ。これを受け取ってくれ」
私は腰に下げた皮袋の一つを人狼に差し出す。この中には
人狼はそれを食べ物ではないと認識しているのかと思ったが、どうやら違うようだ。人狼は口を開こうとするが、喉の奥から漏れるようなかすれ声しか出てこない。話せないわけではないようだが、理解するのには時間がかかりそうだ。
じっくりと話を聞くと、彼女は、長年言葉を発していない影響で、喋ることが難しくなっているようだった。話している内容から、この人狼は、自己評価が低いことが分かった。自分の存在を、いいものだとは考えていないようだった。それを聞いて、私は尚更無理矢理干し飯を押しつけた。
それで観念したのか、人狼は干し飯を一部取って口に運ぶ。そして、どういうことかまた涙を流し始めた。
「そんなに美味しいものでもないだろう」
干し飯はただの保存食だ。炊いた米を天日干しにした食材。正直そのまま食べるのは固い。通常であれば水や湯に漬けてから食べるものだ。それ単体だと美味しいものでもないので、私は思わず呟いた。だが、人狼にとってはそういうわけでもなかった。
話を聞くと、どうやら人から何かを貰ったのがはじめてらしい。流石に、どういうことなのか分からなかった私は、人狼にどういうことなのか、過去を聞いてみることにした。
人狼の話は、想像よりも痛ましく凄惨なものだった。
彼女の話を要約するとこうだ。
犬神の呪法は、共食いの末に生き残った犬を生贄にする
彼女の主人である小豪族は、呪術に関する知識を持っていなかったようだ。話を聞き、自分の血筋が呪われることを嫌った。そうして、自分に危害を加えることが絶対にない人物を犬神憑きとすることにし、彼女が選ばれた。立場上、使い捨ての命としてちょうどよかったのもあるのだろう。目的を達成すれば、責任を押しつけて始末するような考えもあるかもしれない。
犬神の儀式を実行する理由としては、その小豪族の領地で発生した疫病と不作が影響していたようだ。疫病と人手不足による不作で、年貢が全然足りていない状態だったらしい。それを何とかするために、藁にもすがる思いで、あんな術に手を出した。
だが、呪術士である私の知識では認識が違う。犬神は典型的な殺人術だ。豊穣を呼び、疫病を治す。そんな話は聞いたことがない。富を呼ぶという話も、邪魔者を始末した後の結果をそう言っただけのこと。豊穣や疫病の話は、儀式の内容的に眉唾ものだ。それが蠱毒という呪いを濃縮する術である以上、生贄がそんな益を与えるはずがないのだ。それを意図的になのか伝えられていない。
当然、彼女が犬神憑きとなった時に、どういう術なのかある程度自覚しただろう。自分はこの現状を解決できない。飢えと疫病で苦しむ領民を、救うことができない。救える立場だと思ったのに、救えないのは相当苦しかったであろう。
疫病が改善せず、年貢も集められない状態が続いた小豪族は怒り狂ったようだ。それも当然だ。打ち首になりえる危険性を負って犬神の儀式を実行したにも関わらず、犬神憑きの
彼女は主人から暴行を受け、殺されかけた。その恐怖から反射的に近くにあった石を投げつけたという。それは小豪族の頭部に当たり、体勢を崩した彼は足を滑らせる。そして後頭部をぶつけてしまい、目を開いたまま、動かなくなってしまったらしい。
彼女は、恐怖から逃げ出し、この横穴にずっと隠れ住んでいるという。そうして、何もできず、主人を殺した自分を呪い続けて時間を過ごした。そうしていると、いつしか自分が獣の姿になっていたという。
主人を殺してから幾年も、誰にも見つかることなく、この山で暮らしていたらしい。この山は傾斜が激しく、獣も多い影響で人があまり入り込めない。私が訪れるきっかけになった妖怪退治も、人里を襲った個体がこちらに逃げたから追っただけだ。ここに住み着いている者はかなり少ないだろう。
私は、犬神を伝えた呪術士の名前を一応聞いた。何年前の話かは分からないが、もし身近な名前であれば、その呪術士の近辺を調査をした方がいいと考えていた。そして、彼女の口からは想像もしていない名前が出てきた。
私の思考がしばらく停止した。血の気が引き、外の豪雨の音が止んだかのような感覚に陥る。私は、この子に関わるべきではないという考えすら浮かんだ。
朽花の大きな特徴として、花柄の
朽花は常人の寿命を超えて活動していることが確認されている。それは同一人物なのか、名前を継いでいる者がいるだけなのかは分からない。姿に関する情報が一定しないため、名前が継がれていると考えられているが、私はそう思わなかった。
なぜなら、名前を継いだだけにしては手口があまりにも似通っているからだ。記録に残っている手口の芯にある、変わらない合理性。資料を見てそれに気付いたときには、おぞましさと恐怖心を覚えた。
その危険性から、討伐隊が組まれた記録も残っている。だが、その討伐隊が帰還した記録は、どこにもない。消息が一切掴めないまま、歴史から消えていた。
何かが粘っこく私の身体に巻き付いてくるような感覚に襲われる。深入りすれば、私はきっとまともな最後を迎えることはないだろう。逃げるならば今しかない。彼女にこれ以上深入りせず、二度とここに近付かなければいい。
だが、それは自分の命が惜しいならの話だ。怖くないわけではない。それほどの大罪人を放っておけるほど、私の性根は腐ってはいない。何度も資料の中で読んだ、伝説的な罪人が今も動いているかもしれない方が、私にとっては耐えがたい現実であった。
彼女との関わりによって、私は半年後に、最悪な出来事に巻き込まれることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます