第2話 新たな出会い
これから私が通う高校は、当時通っていた中学校や、親友だったあの子の家とは離れた位置関係にある。
比較的空いていた電車を何度か乗り継ぎ、揺られること一時間。窓の外には見慣れない景色が広がっている。知っている建物も、道も、何ひとつない。それは、私にとって安心できることのはずなのに、それでも胸の奥に張り付くような不安が消えることはなかった。
電車が駅のホームに滑り込むと、周囲には同じ制服を着た女子生徒や、似た配色の制服を着た男子生徒の姿がちらほらと目に入った。彼らの進む方向に足を向けながら、私はふと空を見上げる。
桜が、風に舞っていた。
淡い桃色の花びらが、春の穏やかな風に乗ってふわりと舞い落ちる。まるで映画のワンシーンのように、美しく、優雅な光景だった。
本来なら、この景色を楽しめるはずだった。春の匂いに心を弾ませ、新しい生活への期待を抱いて、少しの緊張とともに歩いていく――それが、普通の高校生の入学式の日なのだろう。
けれど、私の心は重たい雲に覆われたままだった。
「……っ」
すれ違う生徒と、ふと視線が合う。その瞬間、全身がこわばり、咄嗟にうつむいてしまった。それも、一度や二度ではない。歩いている間、何度も何度も繰り返してしまう。
――目がうまく合わせられない。
知らない誰かと目が合うだけで、まるで心臓を握りつぶされるように息苦しくなる。私のことなんて誰も知らないはずなのに、どこかでまた"あの目"を向けられるのではないかという恐怖が拭えなかった。
『気持ち悪い』
あの言葉とともに、あの日向けられた視線が、心に焼き付いて離れない。嘲笑、軽蔑、嫌悪……どの視線も私をまるで異物のように扱っていた。そんな目が、この中に紛れて今も私を見ているのではないか。そう思うと、怖くてたまらなかった。
私は……こんな簡単なことさえ、できなくなっていたのか。
考えてみれば、あの日以来、母以外の人とまともに顔を合わせて話した記憶がない。会話をするどころか、こうして人混みの中にいることさえ、何年ぶりだろう。
だからこそ、私は今まで気づかなかった。人と目を合わせることすら、できなくなっていたことに。
これからほとんど毎日、この先の学校で過ごさなければならない。毎日教室に入って、誰かと顔を合わせて、会話をして――それができるのだろうか? 高校生らしい日々を送ることが、果たして私にできるのだろうか?
そんな不安が、桜の舞う春の空とは裏腹に、私の心の奥でじっと重たく沈んでいた。それでも足を止めるわけにはいかず、私は曇った気持ちを抱えたまま、学校の門をくぐった。
◇
教室の扉をそっと開けると、すでに多くの生徒が席について、楽しそうに会話を交わしていた。笑い声が飛び交い、机を囲んで盛り上がる小さな輪がいくつもできている。誰もが期待に満ちた顔をして、新しい環境に馴染もうとしているのがわかる。
私は一歩、足を踏み入れた。
その瞬間、何人かの生徒の視線が私に向いた。肩がビクリと震える。すぐに俯いて、視線を避けながら自分の席へと向かった。
(……見られてる)
そんな風に感じるだけで、息が詰まりそうだった。もちろん、みんな私のことを知っているはずはない。ただ、新しく入ってきたクラスメイトを確認しただけ――それはわかっている。けれど、頭の奥ではどうしても"あの日"がよみがえる。
(違う、違う……ここはあの場所じゃない……)
何度も自分にそう言い聞かせながら、早足で席に着く。すると、私への興味を失ったのか、感じていた視線がすっと消えていった。心の奥に張りついていた緊張が、ほんの少しだけ和らぐ。
私はカバンを机の上に置き、そのまま机に突っ伏した。今はまだ、誰とも話したくない。いずれグループワークやら何やらで誰かと話さなければいけない時はくるだろうけど――少なくとも、今だけは。
静かに目を閉じ、深く息を吐く。
(……大丈夫。何も考えずに、静かに時間が過ぎるのを待とう)
そう思った矢先だった。
「……ん?」
ツンツン、と頭をつつかれるような感触がして、私は驚いて顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは、大きな瞳。ふわりとした柔らかな髪が揺れ、優しい表情の女の子が私を覗き込んでいた。
(え……?)
目が合った瞬間、私はさっきまでと同じように反射的に目をそらそうとした。けれどその瞳は、どこか安心感を与えてくれるような優しさがあって、吸い込まれそうなほど綺麗で、どうしても目をそらすことができなかった。
「大丈夫?」
小さく首をかしげながら、彼女はそう言った。自分が話しかけられているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「えっ、と……何が?」
慌てて返すと、彼女は少し表情を曇らせた。
「さっきね、教室に入ってきたとき、すごく辛そうな顔してたから」
驚いた。初対面の子に、そんな風に思われるほど、私はひどい顔をしていたのだろうか。
「……うん、今はもう大丈夫」
本当は大丈夫なんかじゃない。けれど、そう答えるしかなかった。
「そっか、よかったぁ!」
彼女はホッとしたように笑った。それから、ぱっと明るい表情になり、弾むように声をかけてくる。
「ねぇねぇ、友達になろうよ!」
「わ、私と?」
思わず聞き返してしまうと、彼女は無邪気に笑いながら頷いた。
「そうだよ?」
――"友達"。
その言葉を耳にした瞬間、私の中で何かがざわめいた。
『友達だと思ってたのに!』
親友だったあの子の、その叫びを、私は今も忘れられない。彼女は、私を拒絶した。私の"好き"は、私の何気ない日常をすべて壊してしまった。だからもう、誰も"好き"になっちゃ――――
そんな暗い思考を断ち切るように、彼女はぱっと表情を明るくし、弾むような声で言った。
「あ、ごめんね。いきなりだったよね。まずは自己紹介しなきゃ!」
言葉と同時に、彼女は楽しげに笑う。その無邪気な笑顔に、私は思わず瞬きをした。
「
「関谷……さん」
彼女の名前を小さく繰り返す。こんな私と友達になりたいだなんて、何を考えているのだろう。だけど、彼女が向けてくれる純粋な好意を無視するのは、あまりに申し訳ない気がした。
私はなんとか口を開き、少しぎこちなく名乗る。
「水瀬……夏美です」
「水瀬さんっていうんだね、よろしく!」
関谷さんは嬉しそうに笑って、私の言葉をすぐに受け入れてくれた。
「よろしく……関谷さん」
恐る恐るそう返すと、彼女はさらに明るく笑い、満足そうに頷いた。
「うん、これで友達だね!」
たったそれだけのやり取りなのに、関谷さんはまるで長年の友人と再会したかのように楽しそうだった。何がそんなに嬉しいのだろう、と戸惑う私の前で、彼女は再び「ねぇねぇ」と声を弾ませる。
「水瀬さんの名前、"夏美"って、夏の字が入ってる?」
「う、うん。"夏に美しい"で夏美」
「わぁ! 一緒だね! 読みは違うけど、わたしの名前にも夏が入ってるんだ!」
「そう……なんだ」
彼女はまるで小さな発見をした子どものように楽しげに笑う。そんな些細な共通点を見つけただけで、どうしてそんなに喜べるのだろう。私は驚きながらも、その無邪気さが少しだけ眩しく思えた。
その後も、関谷さんはひたすら私に質問を投げかけた。
「好きな食べ物は?」
「休日は何してるの?」
「犬派? 猫派?」
何を聞かれても、彼女は興味深そうに私の答えを聞いてくれる。その姿に、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
(……なんだろう、この感じ)
母以外の誰かとこれほど自然に話したのは、一体いつぶりだろう。
けれど、その穏やかな時間は、ある質問で突如として途切れた。
「水瀬さんって中学校、どこに行ってたの?」
「……っ」
一瞬にして、心臓が強く締め付けられる。
(どうしよう)
もし関谷さんの知り合いが、私の通っていた中学校にいたら。
もし私の過去が人づてに広まったら。
もしまた、あの日と同じことが繰り返されたら——。
(言えない)
せっかく手に入れた平穏な居場所を、たった一つの答えで壊したくない。だから私は——
「他県……だよ。親の都合でこっちに来たの」
嘘をついた。
「そうなんだぁ。ここに来るまで時間かかりそうだね」
「うん、電車で一時間くらい」
「えー、大変そう。わたしには無理だなぁ」
関谷さんは特に疑うこともなく、軽い調子でそう言った。
(よかった……)
私は内心で安堵しつつも、胸がじくじくと痛むのを感じる。
他県というのは事実だ。けれど、親の都合というのは真っ赤な嘘。心苦しい。それでも、これからも私は嘘をつき続けるのだろう。
(そうしないと、私はこの場所にいられなくなる)
罪悪感を抱えながらも、自分にそう言い聞かせるしかなかった。
その後は、私の過去に触れるような質問はなく、関谷さんは他愛もない話を続けてくれた。しばらくして先生が教室に入ってきて、廊下に出席番号順で並ぶことになり、私と関谷さんの距離は少し離れた。
列の中でふと周囲を見回して、私は気づく。
(さっきよりも自然に周りを見れている?)
関谷さんと話しているうちに、少しずつ緊張がほぐれていたのかもしれない。気がつけば、周りの生徒の目を見ても、以前のような強い恐怖は感じなくなっていた。
そして、改めて思う。
(ここには、本当に私を知る人はいないんだ)
それが、私の心を少しだけ軽くした。
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